二度目の恋
※注意
未成年同士の性行為が含まれます。強要はありませんが、家の決めた結婚相手という設定のため、完全な同意の上とはいえないかもしれません。(性行為の描写自体はありません)
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赤いものが多すぎる。袖を広げた婚礼衣装。テーブルを埋める祝いの花。花びらが何枚か落ちている。さっきまでは全部綺麗に上を向いていたのに。ベッドが揺れたせいかもしれない。そう長い時間ではなかったと思うけど。シーツを汚した血に目を落とす。赤い。もう乾きはじめた程度の量でも血は血。人差し指でなぞるとぱらぱらと粉になった。同じ内臓から出てくるのに月のものとは随分違う。月のものはこんなにすぐには乾かない。濁っていて、粘ついて、濃い。どちらかといえば先に若君がわたしの中に吐き出したものに似ている。納得はできる。赤いのも白いのも同じ用途の液体だ。絹の上から胎を撫で、何万回目かに言い聞かす。いくらなんでもわかったよね? あなたを目指してくるオタマジャクシたちがいるでしょう。わかったらさっさと役目を思い出して、赤子の寝床を作りなさい。
風呂から聞こえてくる水の滴りはまだ止まない。わたしより長く体を洗っているなんてなんとなく恥をかかされたような気持ちになるけれどわかってる、若君だけは決して私に恥はかかせない。
「イェン家の娘はやはりはずれだったか。今世ならヤン家が最も美しかったが、仕方あるまいな」
偉大なるクン・ラオの末裔が娶るのは偉大なるクンラオの妻の血を引く四家の娘と決まっている。血を濃くしすぎないため、末裔と結婚する家は順番で決められていて覆らない。若君にはイェン家の番だった。
イェン家の娘は聡明だが容貌に劣る。昔からいわれてきたことだ。婚約の披露目の席でも冗談になるほど繰り返し。龍の印を継ぐものに必要なのは容姿か脳みそかなど考えなくても明白だけれど男たちにはわからないらしい。魔界に色仕掛けが通用するわけでもあるまいに。指摘すれば気持ちまで可愛くないといわれるのが関の山だから口は噤む。聡明の評判まで手放したくはなかったし、たいしたことだとは思わなかった。誰がなにをいっても、わたしが当世の偉大なる末裔の妻になることは変わらない。
「叔父上」
鈴の鳴るような声がわたしの沈黙を破る。声変わりもまだの、こどもの声だ。
「叔父上のお名前は、なんでしたでしょうか」
「はは、若君。私の名前を忘れてしまわれたか。妻君となる方に無礼を働いてしまったせいかな。申し訳ない。酒のせい故お許しを」
「答えになっていませんが。私は叔父上に名前を聞いたのです」
「ああ怒らせてしまったようだ。承知いたしました、私の名前はクン・チンハオでございます。御母堂の弟として若君が生まれたときからお側にいますが、思い出していただけましたでしょうか。懐かしゅうございますな。小さな若君と手合わせをしたこともありました」
「そうでしたね。思い出しました。……では、私も名乗ろうか。クン・チンハオ」
刺すような声に背筋が凍った。呼ばれたのはわたしの名ではないのに箸が年糕をつまんだまま動かせなくなった。まるでこどもの声ではない。
「私は、グレート・クン・ラオ。偉大なる祖先が宿る名をもつもの。なれば、クン・ラオの妻になるものが美の基準であろう。クン家の姓はもっても分家の其方に、それが決められるなどと思い上がるな」
いつまでも居残る声の残滓が客たちから音を奪う。衣ずれも息遣いも消えた中、若君はにこりと笑った。
「いいたいことがあれば聞きましょう。ただし私と手合わせをして勝てたなら。前に相手をしていただいたのはこの手がまだ李ほどのときでしたが手加減をされていたのでしょうね、負けた覚えがありません。もう私も婚約する歳です。手心なしでかまいませんよ、叔父上」
偉大なるグレート・クン・ラオとはこうまで尊大に振る舞えるものなのか。分家どころではないイェン家の身では知りようがなかった。横並びに前を向かされてまともには見えていなかった顔がわたしを向いて微笑む。聞いていた歳より幼なげなのにそのときだけは大人の男に見えた。涼やかで凛とした、誰も放っておかない大人の男がわたしを見てあなたは綺麗ですよといった。恋に落ちるのに、これ以上の理由は必要だろうか。
幸せでかわいそう。
あろうことか婚約者に恋をしたわたしに対する友達の感想はだいたいそんなものだった。時代錯誤の奇妙な家に生まれても社会が存在しないわけではなくわたしも普通の子と同じに毎日学校へ通って勉学に励み友人と談笑し教師を小馬鹿にしていた。資産と伝統が全てに勝る家の令嬢ばかりで構成された民営学校が社会といえるのかは知らないけれど少なくとも家と少林派の武術を教える学院しか知らないお坊ちゃまよりはましな程度に世界を知っている。
「一生一緒にいなくちゃならない男になんで恋なんか」
夜な夜な部屋を抜け出し相手を取っ替え引っ替えする友人たちは正しく恋を実践している。どんなに素敵だってわたしたちの夫になるのは男ではなく巨大な家で、わたしたちは血の船だ。家に恋はできない。この恋は幸せでかわいそうな幻にすぎない。バイクを乗りこなしゲームセンターのネオンを浴び、価値のない血を無意味に巡らせる少年とじゃなくちゃ本物の恋はできない。
だけどわたしには彼女たちにもいえない秘密がある。わたしの夫は、若いまま死ぬ。
だったら幻だって、最後まで幻のままいられるでしょう?
水の音が止んだ。急ぎベッドを整える。若君と同じ龍の模様が入った肌着の紐を結び直して居住まいを正す。
「顔をあげて」
婚約の日から一年が経ったとはいっても灯りの下で見てみれば光を集める肌はまだこどものものだ。温まって上気しているから尚更、先までわたしに跨っていた男には見えない。
「体は大丈夫ですか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「よかった。それなら少し話を。楽にしてもらってかまわないので」
真っ直ぐにこちらを見る若君にはいと答える。あんなことのあとだというのに恥じらいで視線をさまよわせるような間はない。友達に紹介された少年となら、たかがキスでも奇妙で間違ったことをあえて一緒にしてしまった共犯の照れくささと秘密の背徳感に浮き立って、いつまでも目を合わせもせず手だけを擦り合っていたものなのに。でもしょうがない。若君には恋をしてもセックスは別物だ。生産活動にロマンチックは望まない。
「あなたもイェン家の生まれなら、予言の話は聞いたことがありますね」
「はい。読むことは許されていませんでしたし、そういうものがあるという他の知識はありませんけれど、神々によって書かれた書があることは存じています」
「そうでしょうね。あれは印をもつ者か、光の寺院や武師学院で特別に許された者にしか示されないので。ただ、戦士の正式な妻か戦士の子を生したものとその子にはある程度伝えても構わないことになっています。それで、あなたにいっておかねばいけないのですが」
「はい」
「私は二七で死にます」
十二年。予想通りの話だから計算はすぐできる。長いのか短いのかはよくわからなかった。イェン家にお鉢が回ってくるのは何しろ数十年ぶりのことだったし輿入れすれば夫の死後もクン家に留まるものだからその後の話は伝わらない。
「予言に、そう書かれているのですか?」
「いや、はっきりとは。でも私はそう解釈しています。ああ、心配はしなくていい。予言は敗北を示してはいないのできっとあなたは生きられる。私も勝利の礎になって死ぬことができます。グレート・クン・ラオよりはいい死に方だろうと思いませんか? これは他の者にはいえないけれど」
秘密ですよとくちびるに指をあてる仕草にどきりとする。こどもの顔に隠れた大人の男を垣間見るたびわたしは若君への恋を自覚する。
「それまで、あなたを大事にしたいと思います。私は印が発現したのが早かったので父母のことをよくは覚えてなくて、世間の夫婦というものがどういうものかも知らない。でも、大事にしたいと思っています。私が守った世界で私の妻が不幸ではつまらない。だからとりあえずひとつ決めました。側室はもたない」
え、とこぼすと若君は恥ずかしそうに笑った。
「このことで揉めているのだけは見てきたんです。父だけでなくクン家の男にはたいてい正妻以外の女性がいるものなので。妻が苦しむ原因になるものなら、ない方がいい」
「わたしは……気にしません。若君の立場なら側室はもつべきかと」
「わかっています。だから期限は決めている。二十歳。私が二十歳になるまでにもしも子ができなければ側室をもつのも仕方がない。でなければあなたにも塁が及ぶだろうし」
「でも、子は数人……」
「ああ、それは建前です。直系から印もちが出る方が珍しいのだから。私とて発現してから本家に引き取られました。本当は私の子がいなくたってなにも困らないくらいには祖先の血は広がっています。でも、今世のクン・ラオの血が継がれなくては強さが失われると思い込んでいる、その程度のことです。だから一人いればそううるさくされることもない。それよりは」
せっかく契ったのだから、と若君はわたしの手を握る。優美な長い指は見た目とは違って固くてざらざらと粗くて触れられてもあまり気持ちが良くない。それでも触られるのが嬉しいのは殴ったり叩いたりするためでなくこの手が使われるのは妻であるわたしただひとりのためだったから。二十歳まで、わたしは恋した男を独占できる。
「良い夫婦になりましょう。あなたが、私の守った世界に価値があると思えるように」
はいと頷く。血を運ぶ船でしかないわたしの居場所は若君のいう世界にはないのだけれど、世界を守るために世界と切り離されたクン家の若君にはきっとわからない。当世のグレート・クン・ラオは犠牲になるのは自分ただひとりだと教えられているものだ。この世界の仕組みなど決して知らされない。だから頷く。若君が描く世界に住んでいるふりをする。わたしのために側室をもたないと誓った夫にわたしができることはそれくらいのものだから。
「片思いは順調みたいね」
友人の視線の先は珊瑚の耳飾り。どんな注文にも応えるレストランが今日出すのはメキシカンと聞いていた。料理次第で決まるドレスコードに合わないと知っていてつけてきたのは、目敏い友人に期待したから。
「それ、あなたの好みじゃないし、贈りものでしょ。選んで送ってくるなんて珍しい男」
「そう、もらったの。センスは古いけど宝石商を送り込むんじゃなくてちゃんと選んで手渡しする夫なんだって見せびらかしたくて」
「わざわざそんなアピールしなくたっていくらでも聞くけど? 私たちにできる話なんて、だってこれくらいなんだから」
会員制のレストランは静かで笑い声がよく響く。給仕は黙って下を向いている。高級中学校を卒業した同級生のほとんどはもう結婚するか結婚までの準備期間として婚約者の家に入っているかのどちらかだ。よほどの事情がなければ進学はしないのが普通だった。家の嫁が著名な大学を出ていないのは恥だとするような価値観はわたしたちの世界にはない。そんなことで揺らぐような価値の血ではこのレストランには入れない。留め具を外してイヤリングを机に置く。最高級の血赤珊瑚は日本の深海で獲れたものだといっていた。
「綺麗。確かに場所を選ぶけどあなたはきっと使える場所も多いんだろうから、そう外してもない贈りものじゃない」
「うん、好みじゃないだけで、妻として出かけるときにはすごく使える。シェンのイヤリングは来シーズンのじゃないの? このあいだ発表されたの見たばかりだけど」
「なんだって存在するものなら手に入るでしょ。夫の贈りものじゃなく私が欲しいといったからだけど。デザイナーに会ったの。顔と手が綺麗で好みだったんだけど、残念ながら私の性別は彼の恋愛対象じゃなかった」
同じ教室に机を並べていたときとは違っていまはもう見るもの聞くもの全てが家の人間以外には洩らせない秘密のわたしたちだ。だから白いクロスの敷かれたテーブルにのぼる話はこうして与えられたものを比べ合うか、または、恋の話だ。
「ええ、残念。デザイナーならプレゼントも選ぶどころか恋人のために一から作ってくれそうじゃない? ロマンチック。学生の頃のこと思い出しちゃう。あの男の子たち、どこの店で買ってるのかわからないけどガラス玉でもプレゼントしてくれたら嬉しかった。私も久しぶりにそういう贈りもの、欲しいなあ」
「このあいだいってた相手は?」
「私がプレゼントする方だもの。ああ、でもこのあいだ花をくれたの。ダイニングの清掃のついでに飾っていってくれた。部屋に合わないからいつもの業者じゃないってすぐわかっちゃった」
結婚しても彼女たちは恋を諦めてはいなくて使用人やSPや旅先の相手と試しては良かったり良くなかったりしている。公に許されているわけではなかったけれどわたしたちは流れる血によって代わりがないとされているのでとても自由だ。想像もつかないくらいに広い檻は遠い端までわざわざ行って出してと叫ばない限り檻だとわからない。
「キュート。花はロマンチックね。わたしは本をもらった」
「本?」
「読書が好きだっていったのを覚えてたみたい。手に入らないような稀覯本だった。中身は興味のあるものじゃなかったけど、装丁が珍しくて面白かった」
「そこまでしてくれるのに、やっぱり夫君はあなたに恋はしてないの?」
「もちろん。ありえない」
二七歳で死ぬことを受け入れている人に恋のできるはずもない。そう説明はしないけれど何をいえて何が話せないのかよくわかっている友人たちはすぐに呑み込んでくれる。
「そう。でもあなたが楽しそうだからよかった。婚約者に恋なんて面倒しかないと思ってたけど相手によるのねきっと。会えないのが残念。あなたの情熱すごかったから、顔だけでも見てみたかった」
「本当に。あの、あれ、あげたじゃない」
「ああ、あれね。あれは驚いたものね」
「驚いたけど、でも本当に格好良かった。どんなことがあっても絶対結婚するんだって、誰にも渡さないって顔してて。私、まだそんな風に思えてない」
きちんと声を潜める友人の気遣いがありがたい。露見したところでいまさら離縁はないだろうけれど、二十歳までの約束はきっと意味をなくしてしまうから。
「あのときはありがとう。いまでも本当に感謝してる」
たいしたことじゃないと首を振る彼女たちの助けがなかったら、イェン家から嫁に出たのはわたしではなく従妹だった。婚約の披露目の次の月、わたしは友人たちに頼んだ。人に頭を下げるのは初めてだったけれどどうしても必要だった。血で膨らんだ、使い終わりのナプキンが。
正房に至るまでの長い廊下で中庭を見る。屋敷はクン家の敷地からは離れた場所にある。イェンの家ではとっくに手離した四合院造りの邸宅で中庭に植えられているのはざくろとなつめだった。子孫繁栄の果実を実らす木々は気付いているのだろうか。わたしの腹は一度も赤子のために働いたことがないままなのを。初潮の祝い膳が他人の血でできていたのを。知ったら若君は、どんな風に思うだろう。
怒りはしない。感情を抑制することに慣れ過ぎている若君はこんなことでは怒らない。では、大事な子種が意味もなく死んでいったことを悲しむだろうか。虚しく死ぬのはきっと嫌いだからあの綺麗な眉を顰めるかもしれない。でも、その程度だ。二十歳までの約束の通り、子を生すのはわたしでなくてもいい。取り返しのつかないようなことではない。
若君にとっては。
でもわたしには大きな罪だった。血に寄り掛かるわたしという存在を否定する行為だ。他人の血を使うなんて。それでもかまわないから犯したかった罪だった。たった十二年でも若君の妻でありたいと思った、わたしの可愛い恋のために。
中庭に下り、中央に誂えられた大きな水槽を覗き込む。金魚が一目散にわたし目掛けてやってくる。踊るような尾ひれが美しいけれど日に何度も餌をやりすぎて太ったようだ。水の中には一匹しかいないけれどわたしもべつにひとりで寂しくない。水面で指を動かすとついてきて口をぱくぱく開ける。懐いているような気になる。餌を期待しているだけだとしても思うだけなら自由だ。ここは、わたしだけの世界だから。
初めて入った武師学院の門の前、若君の隣でこどもがわたしを見上げていた。綺麗な子だ。黒々とした瞳は特別大きいわけではないのに見られていると妙な気になる。瞳孔と虹彩が同じ色をしているせいでどこに焦点を合わせているかはっきりわからない。視線は躊躇いもせずわたしに向かっているのに目が合わない、そんな感じだ。
「そこの。無礼ですよ。女性をそうまじまじと見るとは。ましてやこちらのお方は若君の奥方です」
クン家から遣わされた従者がいうのに安堵する。本当はそれくらいと鷹揚に振舞いたかったけれどわたしばかり見られているようで落ち着かない。若君に贈られた耳飾りとこの日のために選んだ柳色の漢服は千年の伝統を誇る武師学院を訪れるに相応しい装いのはずなのに場違いな気がしてくる。どちらかといえば場違いなのはこのこどもの方であるというのに。
「リュウ・カンだ」
「は、若君。なんでございましょう」
「リュウ・カンだ。名がある。先に名乗っただろう。そこの、などというのは無礼ではないのか」
ひと月前、正房で茶を淹れているときに聞いた名だ。リュウ・カン。香港のスラム育ちのこども。武師学院の責任者が連れてきた。珍しいことではないけれどクン家の私に世話を頼むのは異例のことだと話された。他の全てと同じように武師学院に関わる事柄も門外不出だ。訪れるのも初めてでわたしはここの責任者の顔も知らず、若君の話してくれることに想像は追いつかない。けれどあのときそう気が進んでいるようではなかったのは確かだ。グレート・クン・ラオの名をもつ若君に戦い以外は余計なことであるのだから当然だった。孤児の世話をするなら他に適任がいくらでもいる。
「リュウは無礼を働いているわけではない。知らぬだけだ。私が教えるべきだったが必要でない知識は優先順位が低くなる。ここで暮らしていない者にはわからないかもしれないがな。……着物が綺麗で目を惹くのでしょう。悪気はないのです」
従者からわたしに言葉の先を変えた若君は、たったひと月でこのこどもをかわいく思うようになったらしい。小さきものや弱きものに特段の興味を示す性質ではないと思っていたから意外だ。促さなくては赤い可愛い金魚の水槽も覗かない若君にとって世界は等しく守るべきものだ。壁を這う害虫もひらひらとひれを閃かす金魚もわたしもその価値に優劣はない。
「かまいません。リュウ・カン、初めまして。刺繍の絵柄に興味がありますか? これはクン・ラオさまが贈ってくださったものです。またきっとお選びになってくださるでしょうから、そのときは一緒に着物や宝石を眺めてみると良いですよ」
若君がわたしを特別に大事にするのは、わたしが若君の妻だから。感情をもたないよう努めている男にとって立場ほどわかりやすいものはない。この子もきっと、一番弟子という立場を得たのだろう。
「もってきた菓子があるのですが、あげても良いでしょうか」
弟子ならわたしにも世話をする義務がある。若君はああと呟き、リュウ・カンの顔を見てから許しを口にした。
「きっと菓子をもってくると話をしていたんです。リュウの分は私が見繕おうと思っていたけど、そうですね。これから家の者との会合もあることだし一緒にお茶を飲んで待っていてくれればいい。リュウ、少しの間私は離れるけれど、夕餉までには戻るから。妻とお菓子を食べておいで」
瞬いたこどもの瞳は私を見るのとは全然違った色をしていた。澱んだ沼も黒曜石も言葉で表せば同じ黒だけれど見たことのある者にだけは違いがわかる。
「リュウにそばにいてほしくないのか? ラオ。気が進まないといってたろう」
従者が身を固くするのがわかる。わたしだってぎょっとする。若君でなかったとしても、弟子が師兄にこのような口を利くことが許されているはずがない。
「いてほしいな、正直にいえば。隣にいたら随分楽だろう。でもお前に嫌なものを見せたくない。菓子を食べて、あとでどれが好きだったか教えてくれ。いつもの、リュウの好きなもの当てのゲームだ。わかれば次は私が買ってこれるだろう?」
三か月に一度の武師学院への訪問は印の確認とまだ発現していない奥義についての助言を目的としていた。正妻として同行は許されたけれどクン家の人間ではないわたしはその場には呼ばれていない。禁じられているということだ。正妻であってもクン家の者になるにはまだ足りない。だというのにただの弟子でしかないこのこどもはなんて恐れ知らずなんだろう。若君に、自分が必要だなどというなんて。
「リュウ・カン、行きましょう。伝統菓子も洋菓子も山と用意させています。好きなものを食べていいですよ」
恐れを知らないのは幼い者の特権だからこども扱いすることにする。二つか三つ下だろうといっていたけれど顔立ちからはもっと年若く見える。若君が廊下を曲がって見えなくなるまで動かずにいた小さな子の手を握ったら豆になりかけた水疱にたくさん触った。若君によって作られた水疱に違いなかった。急に胸が痛む。そばにいたがるのは傲慢さのためではないのかと思った。この身寄りのないこどもには他に若君と共にいる方法がない。胎で精子を殺すしかないわたしとどこか似ているような気がして、豆に触れないようそっと手を引いた。握り返してはこないけれどリュウ・カンは離すこともなく客間まで静かについてくる。
それから訪問の度、わたしはリュウ・カンと菓子を食べるようになった。若君と一緒にいるより長い時間を共に過ごす。リュウ・カンは勧めた菓子を食べ、その名前を懐の帳面に書きつけるだけでほとんど喋らない。後日正房でアーモンドのキャラメリゼがおいしかったらしい、豆花をまた食べたいらしいと嬉しそうに若君が感謝を告げるから、帳面は役に立っているのだとわかる。さくさくと菓子を噛む音がする中でわたしはひとり、若君のことを話している。髪飾りやネックレスを外して見せてどんな言葉で似合うと褒めてくれたかをいい、スマートフォンの画像フォルダまで開陳して屋敷に置いてきた使いきれないほどの贈りものを数えて聞かせる。若君が一族の中でどれだけ傑出しているか、四家の娘たちにわたしがどれだけ羨まれたかを語る。半刻かそこらの時間、わたしの口は止まることがなかった。なにをどこまで話しても禁忌を犯さずに済む相手はリュウ・カンしかいない。返事も相槌さえなくてもかまいやしないくらいにわたしは若君への恋心を誰かに聞いてほしかった。わたししか知らない恋は、ときどき夢か幻のように思えるから。いずれ若君はいなくなり、そうなれば残るのはどこかの誰かとのあいだに生まれた新しいクン家の男だけになるけれど、誰かひとりくらいこの無意味な恋を覚えていてもいいだろう。どうせわたしも、若君も、クン家の史書には残らない。
「奥方さまはラオが大事ではないのですか」
何度目の訪問だろう。道着の上からでもわかる体つきは初めて見たあのときとはまるで違っている。どれだけの鍛錬が必要なのか知りようもないけれど途方もない労力がかけられているのは確かだ。若君の費やしてきた時間や犠牲とは比べられなくても最初からそれ以外の道のなかったクン家の印もちの男とリュウ・カンは違う。僧として仕えることも、ここを出て街に戻ることも選べたはずだ。そうしない理由が拳法家の道が性に合っていたなどという生易しいものであるはずがなかった。ここで得られるのはチャンピオンベルトではなく、賭けるのも金や名誉ではない。ひとつしかない命と引き換えにこの、もうこどもとはいえない少年が欲したのは間違いなく若君のそばにいる権利だ。そうでなくてどうしてこんな目をしてわたしに聞くだろう。遠慮を知らない声でその名前を呼び捨てて。
「師兄と呼びなさい」
初めて咎めた。
「師兄はラオと呼んでほしいといいます」
「ここに若君はいません。わたしといるときには名前を呼ばぬように。若君の正妻からの命です」
地位を振りかざせば決定打になるとわかっていていわずにいられない。少し前からうっすらとあった予感は今日現実になるのだろう。わたしは、リュウ・カンを同志だと思っていた。無意味な優しさだけを与えられ置いていかれるしかないわたしたちはいつか傷を舐めあうことができるのではないかと来るべき日の慰めにさえしていた。葬送の列に加わることの許されないただの弟子と務めを果たせなかった正妻となら次のクン・ラオのことなど無視して若君を悼み続けていられるような気がしていた。学院での若君の話を初めて聞くことができるのではないかなんて淡い期待を光らせていた。
でも。わたしたちは違う。最初はもしかしたら同じだったかもしれない。でも、もう、違う。
リュウ・カンは若君の名を呼べる。閨でさえ呼んだことのない尊い名前を、まるで本物の若君の名だとでもいうようにくちびるからするすると吐き出す。若君が名を呼ぶことを求めるのだと当たり前のようにいう。そんな男は知らなかった。グレート・クン・ラオから借りただけの名前を自分のものにした男も、その名を呼んでくれと請う男も、わたしは知らない。誰より優しい若君がするはずのないことだ。死にゆく運命をもちながら名を呼ばせるなんて。誰かに、自分を刻み付けようとするなんて。
「では、師兄と。……師兄が、大事ではないのですか。奥方さま」
「……どういう意図か知りませんがリュウ・カン、侮辱は許しません。わたしは、若君の正妻です」
立場を言い聞かせてなんの意味があるだろう、名前を口にできる者相手に。でもわたしにはこれしかない。生まれてこの方ずっと、これしかなかった。
「侮辱ではありません。奥方さまが大事にしているのが正妻というお立場ならそれでかまわない。私にそれをどうこういう権利がないのは知っています。だけど、奥方さまは何度も師兄のことを口にしました。大事なのだという風に聞こえました。それなのに、なぜ、月に数日の訪れを待っているのですか。なぜ、ここから師兄を連れ出さないのですか。贈られた物を全部換金すればそれなりの金になるでしょう。他に持ち出せるものもあるはずです。贅沢をしなければ隠れ暮らせます」
「口を慎みなさい、リュウ・カン、黙って」
「十年です。師兄が二七になるまでの十年逃げればいいだけだ。師兄が大事だというならなぜ、そうしないのですか」
手のひらが燃えるように熱くなり、リュウ・カンのうねる髪が頬にはりついた。渾身の力を込めたつもりでも人を殴ったことなどないこの手では頬を打っても痣ひとつ残せない。早鐘のような心臓とはあはあという獣のような息遣いだけが耳にうるさかった。
「それは、それはわたしと若君の秘密だ! 印ももたないくせに予言を読むなど、許されることとでも」
「奥方さまにも印はない。ラオが……師兄が見せてくれました。許しなんてくそくらえだ。私は、嫌です。あんなものにラオの死ぬ日を決めさせるなんて絶対に嫌だ、ラオが受け入れてるのが腹が立つ、そうさせたやつらが憎い、着飾った家のやつらも、僧も、神も、みんな」
「あなたになにがわかるの。スラムの孤児にはわからない。わかるはずがない。死ぬのを受け入れるななど、簡単にいうけれどわたしたちは最初から生きてなんかいないの。若君は偉大な祖先の器でわたしは血を繋ぐ胎で生きようが死のうが同じ、変わらない。理解できないでしょう、でも理解できないものには止められはしない」
「わかりません。わかりたくもない。そんな理屈はどうでもいい。私だってずっと死んだ方がましだった。死んだ方が楽なんて当たり前なのに、私に生きたいと思わせてしまったんだ、ラオは。ラオにはその責任がある」
「勝手なことを」
「勝手でいい。私はラオが死ぬことを絶対受け入れない」
「それだって同じでしょうわたしたちと。若君にこうあれと押し付けているだけで、なにも違わない。同じ穴の狢よ」
「同じ? ラオが死ぬ日を決めることと、そんなのはおかしいということが同じだと、本当に思うんですか。確かに私は押し付けました。望みました。死なれるのは嫌だと駄々をこねて、いつまでもリュウといてくれなければだめだと怒って、そうじゃないなら一緒に死ぬといいました。ラオが二七になる年に、どんな風に死ぬのか知らないけれど同じときに死ぬって」
そうしたら どんな顔をしたと思いますか
ゆっくりと上がっていく睫毛の下にある目が見られない。黒く濡れたそこに若君の顔が見えてしまう気がした。美しいアーチを描く眉を下げ、困ったように、だけど胸の内の喜びを抑えきれずに目が濡れた顔をきっと見てしまう。わたしには見せたことのない顔でも想像することができるくらいには一緒にいたのだ。見つめていたのだ。
「……あのときラオは初めて二七より後の未来を考えたんだと思います。そうでなくてあんな顔はしない。死んでしまえばそこで全部おしまいで私が生きようが死のうが関係ないんだから。だけど、べつに、押し付けだっていうならそれでもかまわない。これは、私が、初めて望んだことなんです。なんにももってなかったスラムの孤児が、初めてほしいと思ったものです。死なせないためなら、なんでもする」
わたしにラオをつれて逃げろということさえするこの男は、つまり。
「……恋を、しているのね」
わたしたちは恋をしていた。同じで違う男に。わたしたちは同志で裏切り者だった。
すぐには意味が呑み込めない様子のリュウ・カンに菓子を押しやる。まだひと口も手を付けていなかった。いつも箱ひとつ分はたいらげていくのにこれでは若君に疑われてしまう。
「次からは家の者に持ってこさせます。……わたしはあなたの徒恋の相手の妻です。だからリュウ・カン、あなたにはもう会わない」
客間の扉に手をかける。見下ろす頭に結ばれた赤い紐を見ないふりした。
次の訪問の日が来る前にリュウ・カンが予言の保管された書庫を燃やしたという報を聞いた。わざわざ知らされたのは若君の屋敷への訪れがそのせいでなくなるだろうという説明のためだった。排卵期に合わせた三日に間に合わないなら次の月に延期になるのが決まりだ。無駄になった生け花の前で想像する。天に立ち上る赤い火と、灰になって散る予言の文字。それでなにが変わるわけでもない。予言の書が書庫にしかないはずはなく、神々の管轄ならば全てを燃やし尽くしたところで無駄だと、わたしよりずっと神に近い場所にいるリュウ・カンならわかることだ。けれどきっとその光景は美しかったことだろう。火花が散った黒い瞳はひとつだけ、神にも消せない火をつけることができる。次に会う若君の胸の中にはもう、予言は一文字たりとも残っていないに違いなかった。
決まりに反して翌日の遅くにやってきた若君はけれども寝台には入らなかった。茶を注ぐため身を寄せ、煙のにおいがまだ香る服に着替えを勧めるけれどいらないといった。
「……学院は、大変だったようですね」
「聞いたか。誤解しないでほしい。リュウは」
「若君のためでしょう」
「ああ、そうか。あなたはリュウとよく話をしていたものな。うん。私のためだった。無茶をする。ボー・ライ・チョウさまがたいしたことじゃないと収めてくださったが厳しい目は向くだろう。予言を見せた私が責任をとるべきことだが……嬉しかった。あまり公にはいえないことだけど。なにより大事なものだと習ってきたのにな、予言が」
微笑む顔はリュウ・カンの前で想像した通りで、馬鹿馬鹿しくも胸が高鳴る。伏せた長い睫毛も柔らかく上がった口角もわたしのためではない。どれだけ妻を傷つける言葉なのかわかりもせずに嬉しかったと告白する夫の他の男に向けた笑みを綺麗だと思うわたしは愚かだ。若君がグレート・クン・ラオの末裔でなくなろうとするならわたしの存在意義など風前の灯火だというのに。それでもまだわたしに息ができるのは恋をしている、ただそれだけのためだった。
「大事にならないと聞いて安心しました、若君。でも……」
どうしてリュウ・カンに予言をお見せになったのですか。
聞こうとしてやめる。二十までに子を生してほしいというためでないことだけは確かだ。そして、それなら答えはひとつきりだ。
「でも?」
「いえ、あの子に罰が与えられなければいいと」
恋敵に塩を送ることもない。終わりの日はそう遠くないのだろうから。
だんだんと訪れに間が空くようになって噂が立った。毎夜四家の娘たちの寝所に通っているという話だ。直系だけでなくクン家に嫁ぐことが許されている年頃の娘なら傍系まで。贈りものだけが欠かされることなく届いて、開かない箱が部屋に積み上がっていく。花を生ける必要も評判の茶を買いに行くこともなくなって暇になり、使用人たちに料理や掃除を習いはじめた。同情の視線を送るのにも飽きるものだ。茹で加減のちょうどいいパスタがひとりで作れるようになった頃には、彼らも腫れ物扱いをやめていた。
クン家からそろそろどれかの家の息女の腹が大きくなるのではないかと期待の風が吹いてくる、そんなある日、わたしは若君の急な訪れを迎えた。
「おめでとうございます、若君。随分と早く二十歳になられたんですね」
中庭から回廊に声をかける。驚いた顔の若君を見る。定めの日には伝統の漢服で迎えていたから見慣れないワンピースの女に戸惑ったのだろう。友人の紹介で手に入れたまだ店頭に並ぶ前の新作はドレープが金魚のひれに似て気に入っている。
「誕生日のお祝いを二回も飛ばしてしまいました。申し訳ございません。他の娘は無礼なく祝いの席を執り行えたでしょうか」
意地悪をいってみる。最後だから、できなかったことをしておきたい。
「……すまない。私は、約束を」
「破ってはいないのでしょう、どうせ」
話を遮るような無礼も、許されたものだとは思っていない。クン家の男、それも当代のクン・ラオが四家の娘と情を通じるのは当然で文句をいう権利など妻にはない。でも、そんなことはどうでもいい。妻であることなど、いまさっき捨てた。
「部屋で一夜を過ごしているだけで肌に触れてはいないのでしょう。その振る舞いで傷つくのはわたしではありません。娘たちです」
会ったことはないけれど姉妹のようなものだった。同じ運命の元にあるわたしたち。四家に生まれた以上わたしたちはクン家の男が訪ねてくるのを待つ以外することがない。わたしも若君と同罪だ。子を生せないとわかりながら正妻に収まったわたしは、当たり前みたいにあの子たちの腹を借りるつもりだった。
「その通りだ。申し訳ないと、思っている。あなたにも、他家の者たちにも。……他に通うところを作れば、わたしに種がないということにできると思った。子を生せなどといったことの罪滅ぼしには遠くても、そうすれば」
「そうすれば、わたしを離縁しても少しはましに暮らせるだろうと?」
恋に落ちた若君はとびきり愚かだ。嬉しくなるわたしも馬鹿だけれど。だって、少なくともこれはリュウ・カンのためじゃない。若君はわたしのために迷いながら他の誰かを傷つけてきたのだ。それがたとえ
「……誓いを破る。あなたと、添い遂げられない。私には共に生きたい者ができてしまった」
この言葉を告げるためであったとしても。
「誰と」
「リュウ・カンと」
「リュウ・カンとなら生きたいと、そういうのですか」
「そうだ」
「わたしには二七で死ぬといったのに」
「そうだ」
「わたしは当代のクン・ラオの妻です。なれど若君は死なず、リュウ・カンと生きたいという。それならあなたはいったい、誰なのですか」
水槽に水滴が弾ける。餌と勘違いした金魚が水面に顔を出す。塩辛い涙を呑み込んでまた口を開く。
「……ラオだ。私の名前はクン・ラオ。祖先とは無関係の、ただの男だ」
「なれば、ラオ。リュウ・カンとは」
「リュウ・カン、それは、クン・ラオが恋をした、男の名前だ」
この瞬間、わたしは二度目の恋に落ちる。
「わたしも、ラオさまが、好きでした」
初恋は名前のない幻みたいな予言の男だった。二度目は落ちたと同時に破れる恋だった。笑ってしまうくらいに見る目がないけれど仕方ない。黒い髪と黒い目をした男のために千年続く血統も家も神々も捨てると決めたクン・ラオは、この世のどんな物語の王子さまより勇敢で美しいのだから。
給仕を下がらせた個室にリュウ・カンとふたりきりになる。レストランでの待ち合わせといったのに道着のままで来るから服を買って着替えさせた。街へ出るとき用の服は学院にあるらしいけれど僧の用意するものだ。センスは望めない。
「それではデートに着ていく服がないでしょう。プレゼントするから持って帰りなさい」
「デート。考えたこともありませんでした」
「しなさい。終わらせるんでしょう、全部。だったら戦いもクン家もなくなった世界であなたたちはデートをするのよ」
着心地の悪いわけのない服のあちこちを引っ張り、それからリュウ・カンはありがとうございますと頭を下げた。
「あなたはどうするんですか」
「わたしには戦いを終わらせる力なんてないのはわかっているでしょう」
「いまの話です。屋敷を出たと聞きました」
「ああ、それならホテル暮らしをしてるところ。リュウ・カンがいうように全部売り払って、金魚だけ連れてきた」
「家には戻らないんですね」
「戻るわけがないでしょう。わたしがラオさまを追い詰めてきたのは、家があったからだもの」
「あなたの責任じゃない」
「そんなことはない。わたしは家の一部であることに疑いをもたなかった。ラオさまが死んでもしかたがないのだと思ってきた」
リュウ・カンが首を振る。それでも、という。
「あなたは悪くない。あなたはこどもだった。使われただけです」
悪くないと繰り返す声はとても優しい。いくつも年下なのに頭を撫でられているような気持になる。
「だったら、リュウ・カンだってそう。どうしてこんなところに辿り着いたのか知らないけれど、いままでの全部、あなたも悪くない」
同じことをいっただけなのに猫のように目を丸くする。きっとわたしたちは出会うべくして出会った。あなたは悪くないと、ただそれだけを告げるために。
スマートフォンしか入らない小さな鞄に無理矢理詰めてきたものを取り出す。腕を出してといえば素直に袖をめくりあげた。ラオさまが見たらなんというだろう。師兄のいうことしか聞かない学院の問題児が何をされるのかも知らずわたしを見上げている。
「頼みがあるの」
音を立てる数珠はふたつともこの手で作ったものだ。ひとつはわたしの腕に、もうひとつはリュウ・カンの手首に巻きつける。
「これは、クン・ラオが死ぬときのための数珠。クン家の嫁が必ず作らなくてはならないもの。棺に入れるのと妻がつけるのとふたつ、婚礼の翌日から作るの。馬鹿みたいでしょう。リュウ・カン、恋を叶えたあなたに持っていてほしい。クン家も神の闘いも全て壊すというのならわたしも共犯者になりたい。闘技場にはいけないけれど戻ってくるときのためにできることをしておくから。次のグレート・クン・ラオがいてはラオさまは結局逃げ切れない。わたしと同じ娘たちだってまだいる。だから、わたしにも戦わせて。……自分で作ってしまったものだけど、壊すだけじゃ足りない気がするから、意味を変えさせて。同じ男に恋をしたわたしとあなたの、共犯の証明に」
リュウ・カンが数珠を転がす。不快なざらつきでしかなかった音が涼やかに響く。
「クン・ラオのために」
葬送の列に加わるためではなく、恋をした男が生きられるように、リュウ・カンは祈る。わたしも祈る。きっとわたしたちの祈りは届く。呪いを解くのはいつだって、愛なのだから。
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