名前


「お前の名前は、シーソーや!」
師匠は、弟子全員を前に、満面の笑顔でそう言った。
そうして、ぽかんとしている僕たちをよそに「徒然亭四草」と書かれた上質紙をこちらに向けた。いそいそという擬音が、稽古部屋の空気に漂って見える。
「良かったねえ、シノブ。忍の『し』の字も付いてるし、ええ名前やないの。」
その師匠の隣で、配偶者の天然記念物並みのギャグセンスに一生ついて行きますと言わんばかりの顔つきをしたおかみさんが、にこにこと笑っている。
守りたい、その笑顔。
テレビのコマーシャルに使われそうな惹句が、思わず頭に思い浮かぶ。
昨夜、夜遅くまで細長い半紙に墨を垂らし、この二文字を練習していたおかみさんの苦労は、離れに暮らしてる僕にも良く分かっている。
分かってはいるが。

「絶っ対にイヤです……色もんやないですか……!」

堪え切れずに大声で叫ぶと、ぽんぽんと肩に手が置かれた。
「シーソー。師匠の名づけは絶対や。一度決まったもんはどないもならん。」
本名が原田の草原兄さんの声は、どこまでも優しい。
「諦めぇ、お前は今日からシーソーになってしもたんや。」
自分がもう慣れてしまったからって、誰もが慣れることが出来るとは思わんでください、ソーソー兄さん。
「四草、オレの時代はともかく、今節は、漫才みたいに名前からして笑いが取れるようでないと、立派な芸人にはなれんぞ。まあ、オレも草若の前は、も~うちょっと変な名前やったけどな。」
無責任の権化のような師匠が、止めを刺した。
(――いや、あんたはもうちょっと風情のある名前やったやないですか。僕ら全員知ってますけど。)
漢籍か古典か、出典は分からないにしても、それなりの格好が付いていた師匠の最初の芸名のことを思い出していると、隣で年下の兄弟子が、ウヒョヒョヒョヒョと嫌な声で笑っているのが聞こえて来る。
酷く耳障りなその声を今すぐシャットダウンしたいと頭では思っているが、そう思えば思うほどに心頭滅却するのが難しくなる。
今のところ、これが――断酒と禁煙というふたつを除けば――落語家としての僕の、一等キツい修行のうちのひとつだった。
いつか内弟子修行期間が終わったところで、昨今流行りのニートという存在に近いこの半端な男が落語家を止めるか僕が止めるかするまでは、この修行が終わらないだろうということは明白だった。
おかみさんと師匠との間に生まれた大事な一粒種という出生がなければ、僕がこのアホに今日まで我慢出来たかどうかも怪しい。
ため息を吐いて、師匠に向き直り「今からでもなんとかなりませんか。」と三つ指を付いて談判しても「そうは言っても、もう決めてしまったよってな。」とまるで他人事である。
実際に僕のことなので人ごとではあるが。
「ええやない。四番目の草と書いてシーソー。」
あたしは分かりやすうて可愛いと思うけど、とおかみさんが笑っている。
このおっとりした女性の腹から『これ』が生まれたのは人類の七不思議のひとつだ。
あるいは、産んだ子に忍従の忍という名を付けた僕の母親も、かつてはこうした善良な女のうちに数えられる人間だったのだろうか。
四草という新しい名の書かれた紙を書いて、ふとそう思った。
「そういうことで、今日の稽古は仕舞いや!」
カイサーン!と師匠が叫ぶと、それが蛍の光の代わりになった。


草若邸は十五分も歩けば梅田の地下街の端の端まで出られるような立地ではあるが、兄弟子たちが談笑しながら、あるいは、二番弟子と三番弟子が口喧嘩しているところを仲裁している様子で逆方向に去っていくところを、玄関を掃除するような顔で良く眺めていた。
その同じ方向には草原兄さんが使っている鉄道の駅があり、他の兄弟子たちの家も三々五々、ここから離れてはいない場所にあった。
駅に近いからこの道を行っているのだろうと思っていたが、まさかこの先に行きつけの店があるとは思わなかった。
まあまだ内弟子修行が終わるまでは酒は飲めへんけど、そろそろお前にも知らせといてええかと思ってな、と連れて来られたのは、無骨なコンクリート造りのビルの中に入っている、壁が煙草の煙で薄汚れた場末の居酒屋だった。
演歌が掛かっていて、カウンターにはよれよれのスーツを着倒したサラリーマン。居酒屋という割にはテーブルにはうどんから定食からが雑多に並んでいて、客たちは安ければ何でもありという様子でカップに注いだ酒を食らっていた。
カウンターの中には無精髭を生やした料理人がいて、日本料理店の調理人によくあるような帽子を被ってはいたが、決して清潔そうには見えない。居酒屋の雰囲気にそっくりな客たちを一通り眺めて、僕はため息を吐きたくなった。
逆方向に歩いて行けば、他にいくらでも新しく綺麗な店があるというのに、アホ面を晒してアホな落語を熱く語って暮らす草若門下の弟子たちは、こうした店で、くたびれたサラリーマンに混じって飲み食いをすることが一種のステータスだと思っているようだった。
カウンターにいる店主に向かって注文をひとしきり済ませてしまうと、話の方向は、自然と芸名の名づけの話題に流れて行った。
「オレかて、名前つけられた当初は、何の捻りもないて、そないしてずっとくよくよしてたで。」
入門して以来、率先して僕のことをどついてきた筆頭弟子が今日は妙に優しかった。
「……オレもや。それに、お前がうちの四番目やっちゅうのは誰にでも分かるこっちゃないからな。」
小草若がこの先もこないに稽古嫌いやったら、お前は直ぐにあいつのこと抜かしてしまうやろな、というようなことをこの二番弟子からは良く聞くが、僕はそれを褒め言葉と取ったことは一度もない。
ニュアンスとしては、三番弟子を発奮させる言葉の方に近いのだろうと思えるのだから尚更だ。そんな含みを持たせた言葉に気が付いているのかいないのか、ふたりの横にいる男は、草若の名を与えられていながら、それを自慢するでもなく、さっきからずっとふてくされたような顔をしている。
テーブルのはす向かいに座り、黙々と不機嫌そうに飲んでいる横顔。
これだから中卒は、とつい思ってしまうが、その中卒男に師匠の入門順のスタートダッシュで負けてしまった僕は、永遠にこの男の弟弟子でいることが決まっているわけだ。
二番弟子である同年の男への大きなコンプレックスが消えない限り、フラストレーションがたまるたびにサンドバッグにされるのだろう。それはつまり、ほとんど永遠と同義語だった。
「僕がずっと四番弟子ってことは変わらないですよね。それが嫌だ、て言うてんのです。」
小草若という名を与えられた兄弟子の、目の上のたんこぶである二番弟子は、僕の言い分に困ったような表情を浮かべた。
『年も同じなのに、なんでオレがお前の弟をやらなあかんねん。』
小草若兄さんに噛みつかれる様子を見ていると『なんやと!』と喧嘩腰に言い返し、拳を振り上げながらも、このくせ毛の男が、嬉しそうに目をきらきらさせていることを、僕は知っている。
どうして皆、家族みたいに面倒なものに自分から囚われようとするのだろう。
その理由を知っているくせに、僕は自問する。
答えは分かっているが、言いたくはない。
「まあ、次の物好きが弟子として入って来ん限りは、この先もお前がずっと末っ子やな。」と草原兄さんは言った。
「末っ子、て。その言い方も、止めてください。」
「なんでや、どこの門下でもそう言ってるで。」という気の抜けた大阪言葉に、僕は反射的に口を開きかけた。
ほんとの兄弟でもないのに、馬鹿みたいじゃないですかとこの場で言ったところで、どうなる。今は父母共にいない兄弟子の前で、まだ母親が『生きてることだけ』は分かっている僕がそれを言うのは。
口をつぐむデリカシーは、僕にもあった。
テーブルの上の空き瓶を片付けながら「よそはよそです。うちは徒然亭草若一門ですよ。」と言うと、「それはそうやな。」と筆頭弟子が笑い、その隣の二番弟子は(お前の口からうち、て単語が出るのは意外やな。)と言わんばかりの顔を僕に向けた。
世渡りのための世知と、算段は違う。
テーブルの上のジュースを飲むより先に、「小草若兄さん、今日はピッチ早いですね。」と三番弟子のコップにビールを注いで「早く次が入って来ればいいのに。」とぼやく。
草原兄さんはそんな僕の様子に満足げに微笑み「おい、四草。今日は兄ちゃんが奢ったるから元気出せや。」と言って「ねぎま四人前!」と頼んだ。
それはあんたの好きな肴でしょう。
僕はそうストレートに告げる代わりに、コップに残ったオレンジ色の色付き水を飲み干す。
セブンスターと思える煙のにおいが鼻先に漂ってきて、ふと顔を上げると、カウンターで飲み食いをしているサラリーマンが、話の合間にもぷかぷかと煙草を呑んでは、灰皿に吸いさしを押し付けている。
ああ。
いつもの台所で、まだ三本残っているはずの煙草が吸いたい。
あの家に戻って、師匠とおかみさんの顔が見たい。
あの母屋は、今の僕が唯一、帰りたい、と思える場所だった。
物思いの出来る場所でもないくせに気を抜いたら、頭にぺしりと三番弟子の手の平が飛んで来た。
「おい、シーソー、お前も飲め。ほんとは飲めんのやろ。」と言って、生意気盛りの年下の男は、僕の手元の空になったばかりのコップの、しかも、今の今までオレンジジュースが入っていた中にビールを注いだ。
おい、待て。
お前、何しとんねん。
嫌がらせか、と思ったが「おい、小草若、こいつ内弟子修行中やで。」と声を潜める草原兄さんに「ええやないですか、今日くらい。おかみさんと師匠に見つからんようにして、抜き足差し足で直に内弟子部屋に帰ればこのくらい分かりませんて。……シーソー、お前、その代わり明日の朝は三十分早く起きて身支度だけ整えとけよ。」と風格のない兄弟子は言った。
この間までシノブちゃ~ん、と言って僕の本名をからかっていたくせに、余りにも切り替えが早い。
「そうやな、今日はお前の祝いや、四草。」
ちょっとは飲んでええやろ、と今日の昼までは僕を遠慮もなくクラサワ、と大上段から呼び捨てにしていた草々兄さんも、その同じコップの中に1センチほどを注ぎ足した。
「お前、飲んでも顔赤なったりせえへんやろうな。」と言いながら、草原兄さんの分も足して注がれて、やっと小さなコップが琥珀色の液体で満ちる。
暗い、場末の居酒屋の電球の下。
交代で注がれたビールは、太陽の色のように輝いていた。
大して好きでもない酒を押し付けられて、僕はなんでこんな気持ちになっているのだろう。
何を言えばいいのか、と思いあぐねていると、師匠の愛宕山の『おおきに、ありがとうさんです~~~!』という張りのある声が聞こえて来た。
「………ありがとう、ございます。」
コップを捧げ持って僕がそう言うと、兄弟子は三人とも、そないに恐縮するようなことしてないやろ、と言ってどっと笑った。

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