踏み荒らす音は思ったよりやさしい

 たまに見せるやさしい眼差しが苦手だった。

「あれ」

 誰もいない教室でぼーっとしているところに聞こえてきた声は、わたしが待っていた相手ではなかった。ぬっ、という効果音が背景に浮かんで見えそうなくらいやたらと大きい体のその人は、仙道だった。
 高い位置にある顔がわたしを見つけてきょとんとしているのが分かる。彼は土曜日になぜ部活をやっていないわたしが学校にいるのか?という疑問でいっぱいの目をしていた。彼は部活が終わったところなのだろう。ジャージを着て、多分制服とかバッシュとか、部活に必要なものが入っていそうな大きな鞄だけを肩からかけていた。
「そんなにびっくりしなくても」
「いやあ、するだろ。誰もいないと思ってたから」
「お化けだと思った?」
「若干期待したかな」
「人間でごめんね。越野待ちだよ」
「え、土曜なのに?わざわざ学校で?」
「ふふん、制服デートをするのです」
「休みなのにわざわざ制服まで着て…」
「デートのためのわざわざはわざわざではないのです」
「へえ」
 興味なさげな相槌に反して仙道は薄く笑っていて、でも「楽しそうで何より」なんて本当に思ってるのか思ってないのか分からないことを言っていた。仙道はそのままわたしを通り過ぎ、自分の席へ向かっていった。彼の席はわたしの席から少し離れた後ろの方にある。そこまで向かう、のっそのっそと歩く大きな体をなんとなく目で追った。
 仙道が教室のなかに溶け込むと、机と椅子がとても小さく見える。大人でもなかなか見かけることのないこの大きなクラスメイトから見たら、わたしも含めた普通の人たちなんてみんなシルバニアファミリーくらいに見えてるんじゃないだろうかと思ってしまう。
 仙道は机の中からノートを何冊か取り出し、鞄にしまってからこっちにやってきた。そのまま今度はわたしの前の席にどっかりと座って、重そうな部活の鞄を床に置いた。
「仙道は帰らないの?」
「越野来るまで暇だろ?」
「そうだけど。ていうか越野は?部活終わったんでしょ?」
「監督に呼ばれてたからもう少しかかると思う」
「そっかあ」
「俺と暇つぶしでもしよーぜ」
 そう言って仙道はただわたしの方を見る。椅子に座っていても元々の身長が高すぎてまだ彼の方が目線が少し上のせいで、なんだか見透かされているような気分になる。きちんと目を合わせたらいけない気がしてわたしは元々読んでいたファッション雑誌に視線を落とした。(クラスの女子でこっそり学校に置いて回し読みしてるのだ!)
 たまたま開いたページは見開きで、最近売り出し中のアイドルグループの可愛い女の子たち並んでいた。
「あ、この子越野がかわいいって言ってた子だ」
 一緒に雑誌を眺めていたらしく、仙道はある女の子を指さして言った。6人グループの左から2番目の位置できらきらな笑顔を作っている黒髪ロングで前髪を軽く流している清楚な女の子だ。
 ふと視線を感じて顔を上げると仙道と目が合ってしまった。頬杖をついているので口元が若干隠れているが微妙に口角が上がっているのが分かる。
「なに…」
「もしかしてヤキモチ?この子に」
「そ、そんなわけないじゃん!芸能人だよ!そういうんじゃなくて…」
「でも意識してるだろ」
「し、してない!」
「なぜなら今日の前髪がこの子と一緒」
 な?、と確信めいた瞳がわたしを逃さなかった。これ以上否定すると余計に墓穴を掘りそうで、そもそも全部バレているのが恥ずかしすぎて口をぱくぱくさせてしまった。そんなわたしの間抜けな姿が面白いのか仙道は見たこともないようなやわらかさで微笑んでいる。いや見たことはある。わたしをからかう時に決まってこの顔をするのだ。さいあく、さいあくさいあく、仙道って本当に意地悪だ。
 言葉で勝つことは叶わないと思ったので思わず仙道の肩にパンチする。こちらも本気で力を入れていないにしても、驚く程びくともしない。それなのに「いてっ」とか思ってもいないことを言うので余計にムカついたし恥ずかしかった。
 いつもは分けていない前髪を、アイドルの女の子みたいに頑張って巻いてしっかり分けた。見慣れない自分の前髪が似合ってるのかそうでもないのかよくわかんなくて(出かける時にお母さんにも何も言われなかったし)不安だった。変と言われたわけではないけど、いつもと違うことをこんなふうに指摘されたらとたんに全部間違っているような気がして嫌になってしまった。せっかく整えた前髪をぐしゃ、と掴む。
「え、崩すの?」
「だって…なんか変だと思ってたし…仙道がいじるし…」
「あー…違う違う。そういう意味で言ったんじゃなくて」
「うそだ…」
「嘘じゃねーって。かわいいなって思った」
 前髪をぐしゃぐしゃにしようとしたわたしの腕をそっと掴んで、机の上に戻す。「ごめんな?」と眉を下げて、子供をあやすみたいに優しく仙道は謝ってきた。わたしは彼のこういう、やさしい眼差しが苦手だ。心底困っていて許しを乞うような、それでいて甘えるような顔をする。時折見せるその無防備な表情を見るとわたしは何も言えなくなってしまうのだ。
 前髪から離れて机の上に強制的に置かれたわたしの手の上に、仙道の手が乗っている。また前髪を崩そうとするのを防ぐためだろう。触れているはずなのに、掴まれてもましてや握られてもいない手の温度を必死に辿ろうとするわたしは、おかしいのかもしれない。
「…リナちゃんが言ってた」
「………斎藤さん?なんて?」
「仙道のかわいいはハードルが低いって」
「そんなことないけどな」
「だからみんな勘違いするんだって」
「それはチョロすぎないか?心配だぞ女子」
 どうでもいいことのように軽く笑いながら仙道は言った。
 けれどそれから、わたしの手に重なっていたその手に力が入る。暑くも冷たくもない生ぬるい仙道の手がやけに生々しく感じた。
「まあ勘違いしてほしい時もあるけどな」
 こちらを見つめる目がやわらかく歪む。ゆらりと揺れたなかにはわたしが写っていた。握られた手が少しだけ、熱い。
「わたしは、」
 仙道から目を逸らした。雑誌の中の女の子たちと目が合う。
「勘違いしないよ。越野の彼女だから」
「はは、そりゃそうだ」
 笑っているように見えた目はよく見ると本心から何かを楽しんでいるわけではないようだった。瞳の奥で鈍く光るものに捉えられて体が硬直しそうになる。
 わたしの手を握っていた大きな手がゆっくりと離れていく。指先が名残惜しげに手の甲をかすかに撫でてて、そのまま仙道は立ち上がった。
「帰るわ。越野に見られるかもしれないしな」
 尚も薄い笑みを浮かべながら愛想の良い顔をして仙道は教室から出て行った。最後に触れられた手がまだ熱を持っているような気がして、それを上書きするように自分のもう一方の手で握り直す。
 越野がいないところでたまに見せる、仙道のやさしい眼差しが苦手だった。その時だけ彼はわたしに妙にやさしく、微かに甘い空気を漂わせるのだ。

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