キャッチャー・イン・ザ・ヘル

※『呪いは茜色』からの続きものです
※燐音が死んでいます
※未来IFでクレビが解散しています





 天城燐音が目を醒ますと音も光もない真っ黒な空間に放り出されていた。確かにそこに立っているけれど、地面を踏みしめている感覚もなければ、上も下も奥行もまるでわからない。どうやら身体は動かせて、思考は出来るようだが。燐音は暫し掌を見つめ、ぐーぱーぐーぱー、と確かめるように指を動かしてみた。自分の身体ではないような心地だった。ふと、合点がいった。
 ああ――死んだのか、俺は。
「ハッ、地獄! 地獄ねェ……」
 たったひとりでぼやいてみる。
 成程、俺のような者が行き着く場所にはお誂え向きだ。伝え聞く死後の世界などというものは所詮お伽噺で、広がるのは果てのない闇――いや、『無』だ。
「こりゃあ間違いなく、俺っちにとっちゃ最低最悪の地獄っしょ」
 生命を燃やすかの如きド派手で刺激的なギャンブルとは対極の、遣りきれない程の退屈。誰にも拾われることのないその声は、反響もせずに墨を塗りたくったような黒に吸い込まれて消える。こんなことなら目なんか醒めなければよかったのに、と独りごちた。
 さあどうしようか。……もう一度目を閉じてみようか。上下の概念など存在しないだろうこの場所で、燐音はどうにかして横になってみることにした。次はもう、永久に目覚めなければいい。そんなことを願って。



 皮肉にも目が醒めてしまった。ここには当然のように時間の概念など無いので、燐音がどれだけ眠っていたかは見当もつかない。人間の世界で言うところの数時間かもしれないし、数日かもしれないし、数年かもしれないし数十年かもしれない。あるいはたった数分かもしれない。然して燐音を取り巻く環境に何ひとつ変化は見られなかった。握り締めた拳でありもしない地面を思い切り殴り付ける。痛みはなかった。
 寝て起きてみてわかったこととして、燐音には空腹感がなかった。それどころか生きていれば自然と生まれるはずの欲求の類が全て消え去ってしまっていた。これも地獄なら当たり前だよなァ、と燐音はぼんやりと考えた。何故なら欲求というものは即ち生への渇望だ。生きる為に何かを欲するのだ。必死で燃やした生命の灯を、次の誰かへと繋げる為に生きるのだ。であるからして、死んでしまっている以上は、永劫に渇きを覚えることはないのだ――何だかそれはひどくつまらないことのように燐音には思えた。
 とは言え腹が減らないのは良い。何せコストが掛からない。生前の天城燐音という男はよく働きよく遊ぶ若くて健康な成人であったから(ここに記憶の改竄が見られる)、腹を空かせては旧い仲の椎名ニキにたかったものだ。
 ああそう言えば、ニキの作るメシは美味かったなァ。ちゃっちゃと作って無造作にテーブルに置かれるツマミも全部が全部絶品で、毎度しっかり酒に合うものを出してくれて。機嫌が良くなってつい呑みすぎちまって、次の朝にゃ二日酔いでぐでんぐでん、なんてこともざらで。こはくちゃん、よくキレてたっけな。「腑抜た面ァ晒しよって、ほんまなっさけない奴やな。わしがしばいたるからもちっとしゃっきりせんかいこんのドアホ!」なァんつって……おっ、今のちょっと似てたかも。HiMERUっち――メルメルにゃアルコールを控えるように〜なんて口酸っぱく言われたモンだけど、「おまえ小姑みてェっしょ」つったら臍曲げられて面倒なことになったっけ。つくづく扱いづらい奴だった。
 そこまでを一気に回想し終えた燐音は長く息を吐き出し、それから真っ暗な天を仰ぎ見た。
「きゃは、なァんだ……『Crazy:B』、悪くねェどころか大穴じゃねーか」
 四暗刻単騎テンパイ、リーチからの一発ツモでダブル役満、大勝ちだ。自分はとんでもないものを引き当てていたじゃないか。
 だってこの瞬間にも目に浮かぶ景色がある。目映いスポットライトに火照らされてじわりと滲む汗、内蔵ごと揺さぶる爆音のビート、ドラッグのような熱狂、陶酔、一面の菜の花畑のようなうつくしい光の海。誰かと歌声を重ねることがあんなにも心地の好いものだとは知らなかった。歌いながら凭れかかればその背は自分と同じように熱かった。本当に、俺には勿体ないくらいの居場所だったのだ。
 だからこそ燐音はその場所を守る為に、離れることを選んだのだけれど。
 彼らは今頃どうしているだろうか。
 『アイドル天城燐音』と最後まで共に泥の道を駆け抜け背中を預け合ったユニットメンバー、それから弟――一彩のことを思う。彼もまた手を繋いでいてくれる仲間達と、呼吸のしやすい居場所を見つけていたはずだ。何も心配要らない。自分の事など綺麗さっぱり忘れて元気でいるといい。
 ああでも、まだ俺は、覚えていられる。あの熱を忘れずにいられる。それだけが今の燐音にとってただひとつの救いだった。



 次に覚醒した時、燐音の周囲はがらりと様変わりを果たしていた。その場でがばりと跳ね起き、かぶりを振ってからもう一度、顔を上げる。そこは見渡す限り空色の花畑に姿を変えていた。
 驚きのあまり声を発せないまま、花畑の真ん中に呆然と座り込んだ燐音は、自身の腰の辺りに目を落とした。淡い青色の花弁が中心に近づくにつれ白に変わる、可愛らしい小花が寄り添い合うように咲いている。そう言えば写真で同じような景色を見たことがある……花の名は確か、ネモフィラ。澄んだ青空をそのまま反射したかのような鮮やかなスカイブルーにぐるりと取り囲まれた燐音の今は鼓動を止めた心臓が、ちくりと痛みを訴えた。――俺はこの色をよく知っている。
 夢見心地のままゆっくりと立ち上がる。気付けば見上げた先にも真っ青な空が広がっていた。こんな妙なことが起こるものだろうか? 地獄で?
 ふらふらと歩き出そうとして、しかしそれは叶わなかった。燐音の襟首を掴み引き留める者がいたからだ。全くもって身構えていなかった燐音の喉からは「ぐえっ」とカエルが潰れたような汚い音が飛び出し、引っ張られる勢いのまま後ろに倒れ込んだ。幸い格闘技の心得のある燐音は即座に身体を反転させ、自分を引き留めた者を押し潰してしまわないよう咄嗟に庇うことに成功したのだが、地面に手を着く際無意識に瞑っていた目を開けた時、今度は目玉が飛び出る程吃驚することとなった。倒れた自分の下にいたのはかつてのユニットメンバーであり、今まさに燐音が胸中に思い描いていた姿そのままのHiMERUだったからだ。
「メ、ルメル」
「……」
 引き留めた癖に、そいつは忙しなく瞬きを繰り返して何か言いたげに口を開いたり閉じたりしていた。驚いているのはお互い様らしい。しかし燐音がHiMERUを押し倒したような格好で固まっているのが彼には気に食わなかったのか、げし、と膝で太腿のあたりを強めに蹴られた。とんだご挨拶だ。
「メルメル~? 久し振りの再会でそりゃねェっしょ、燐音くんだぜェ~? もっとハグとかキスとかホラ……ねェの?」
「チッ……死んでまでうるさい人ですね、三十回死んでください」
「メルメル~⁉ 燐音くん泣いちゃう」
 調子を取り戻したのか歯に衣着せぬ物言いは健在だ。安易に感動の再会といかないところは、何とも自分達らしい。ふっと緊張の糸が緩んで、笑みが零れかけた、のだが。一拍遅れて燐音は重大なことに思い至った。そう、随分な変容を遂げてしまってはいるものの、ここは地獄――少なくとも生きている人間の来るべき場所ではない。
「おい、ここにいるってことはおまえ……」
「ふむ……そのようですね。俺は死んで、魂が肉体から離れたのでしょう」
「……『俺』ェ……?」
「とりあえず退いてほしいのですけど」
「おおわりィわりィ」
 ふたり並んで花畑に座るが、何故だか違和感が拭えない。燐音は目の前の彼のことをよく知っているようで、知らない。
 それだけではない。燐音が死んでから人間の世界でどれ程の歳月が流れたのかはわからないが、HiMERUがあの頃のままの姿を保っているのは異常なことのように思われた。まさか彼も随分と早くに亡くなってしまったのだろうか。
 不躾にじろじろと眺め回す燐音に対し、HiMERUは意外にも相好を崩して答えた。
「安心してください、ちゃんと七十まで生きましたよ」
「は? じゃあ今のおまえは……?」
「それは俺にもさっぱりわかりませんが……。都合よく捉えるならば、あの世には生前最も充実していた頃の姿で現れる、とかですかね。非現実的ですが。既にこの状況がナンセンスなので考えるだけ無駄でしょう」
「……なんか妙に達観してねェ?」
「七十年も生きれば達観もしますよ」
「それもそうか」
 落ち着き払って顎に手を当て話すHiMERUの言葉を頭の中で反芻した燐音はある箇所に引っ掛かりを覚え、素直に彼に尋ねることにした。
「メルメルにとって人生で一番充実してたのが、俺っち達といた頃だってこと?」
「⁉ そっ……」
 燐音の問いかけにHiMERUはあからさまに動揺したのち暫し考え込み、あーとかうーとか唸っていたが、そのうち三角座りをして膝の間に顔を埋めてしまった。こういう時急かしてはいけないと知っている燐音はじっと黙って答えを待った。しばらくしてほんの少し顔を傾けて片目だけを覗かせたHiMERUが、か細い声を絞り出した。
「だったら何だと言うのですか……」
「すげー嬉しい」
 俺も同じだから。
 そこまでは口にしなかったものの、どうやら聡い彼には伝わったようだ。真っ直ぐ見つめるとHiMERUは口元を綻ばせ朱に染まった顔をようやく上げてくれた。
「――そうですね。『Crazy:B』は、俺の……青春です」
「はは……そりゃあ良い。珍しく気が合うじゃねーの」
 改めて顔を見合わせる。燐音が消えてから五十二年もの年月を生きてきたという彼は、相も変わらず絵本の中の王子様のように美しかった。
「……メルメルは、アイドル続けたの?」
「――いいえ。あれから……、天城がいなくなってから、数年の間は『Crazy:B』として活動していたのですけれど。副所長をはじめとして、事務所が全面的にバックアップしてくれましたのでね。……ですがそれも長くは続きませんでした」
 ここで言葉を切り、HiMERUは深く息を吸った。
「椎名も、桜河も、あなたを待っていたのですよ。きっとどこかにいるはずだと探しに行ったこともありました。でも、二度と会うことは叶いませんでしたよね、あなたは既にこの世の者ではなくなっていましたから。俺は薄々そのことに気付いていましたけれど、あのふたりは……特に椎名は信じませんでしたね。あんな殺しても死ななそうな人が消えちゃうわけないっす~、などと言って」
「……」
「あなたの席を空けたまま、活動していたのです。そこに綻びが生じたのは、……そうですね、『HiMERU』の復活がきっかけです」
「復活って」
「ええ。本物のHiMERUが芸能界に復帰したのです。そうなればもう俺は用済みでしょう、元々それが本懐でしたし。影は影らしく裏に引っ込みましたよ。『HiMERU』はユニットから脱退、元の人気ソロアイドルとしての威光を取り戻し、『Crazy:B』は解散。椎名は料理の専門家への道を進みましたし、桜河は俳優としての才能を開花させましてね、皆それぞれの道を歩み始めたというわけです。それからも彼らとは個人的に交友がありましたけどね。皆変わりないですよ」
「それで……、メルメルは」
「俺ですか? 表舞台から退いて、裏方として『HiMERU』を支えてきました。マネージャーのようなものですね。ふふ、寝る間もないくらい忙しい日々でしたよ。ああ、勿論俺の方は顔を変えてね。――そうそう、アイドルではなくなった以上恋愛も自由でしたから、同業の女性と結婚もしたのですよ。俺は生涯『HiMERU』が最優先の生活でしたから、子供はいませんでしたけど」
「そう……か」
 成程、違和感の正体がわかった。燐音の知るHiMERUは『HiMERU』を演じる彼だったからだ。今目の前にいる彼はもう『HiMERU』である必要がないから、立ち居振る舞いに当時との齟齬を感じたというわけだ。
「――おかしいですか?」
 見透かされている、と思った。これが年の功か、今の彼は燐音よりも上手かもしれない。眉を下げて困ったように笑む彼は、こてんと首を傾げて燐音の様子を窺っていた。
「……てめェ……それ、わざとっしょ」
「おや、ばれましたか」
「やっぱ確信犯じゃねーか、タチわりィ……そんな顔で見られたらおかしいとか言えねェだろうがよ」
 ふふ、と春風のようにHiMERUは微笑う。知る限りでは常に張り詰めた弦のような緊張感を漂わせていた彼がこんな風に笑えるようになったなら、きっと良い人生の幕引きだったのだろう。それを知ることが出来ただけで燐音は救われた心地だった。
「おかしくなんかないさ」
「……天城?」
「昔も、今も……、おまえは綺麗だよ」
 心から出た言葉だった。身勝手なファンから押し付けられた理想やら夢やらを器用にラッピングして、少しも失望させないどころか期待を遥かに上回るプレゼントでもって魅了し愛を返す、それが『HiMERU』というアイドルだ。本物も偽物も表も裏も関係なく、彼が誇りを持ってその仕事に携わっていたであろうことは疑う余地なくわかるから。そして燐音は、そんな彼だからこそ、あの時自分の最期の祈りを託すことが出来たのだと改めて思い知ったから。
 返事がないことを訝しんで燐音が正面に向けていた視線を隣へやると、じゅわ、と音が鳴りそうな程に頬を真っ赤に染め上げたHiMERUがいて、思わず燐音までぴしりと固まった。なんとなく見ていてはいけないような気がして視線を正面に戻す。ややあって後頭部に衝撃。引っぱたかれたらしい。
「……なンだよ」
「あなたのそういうところ、俺は嫌いなんですよ」
「あァン?」
「あのね、」
 HiMERUはさも呆れたと言わんばかりに大仰な溜め息を吐いた。
「『Crazy:B』は俺の青春だと言いましたけど――同時に、五十年経っても消えない痣なんです。わからないとは言わせませんよ、あの日俺に呪いをかけた癖に」
「それは……悪かったよ」
「死んだからって殊勝になられても。これでも俺は怒っているのです、あんな風に狡いやり方で傷を残されてしまったので。お陰で俺はアイドルとして歌っていても、アイドルを辞めても、結婚しても、死ぬまで! あなたに囚われ続けることになった、狙い通りでしょう? 果てはこんな場所まで追いかけて来てしまったのですよ、あなたに一言物申したくてね」
 そこまでを一息で言い切り、HiMERUは燐音をきつく睨み付けた。そして勢い任せに胸ぐらを掴み上げる。
「馬鹿じゃないですか? あまり舐めないでください、あなたがあんなことを言わなくたって、忘れてなんてやらないのに‼ 天城燐音、俺のアイドル……あの時彗星みたいに格好つけて消えたつもりなのかもしれませんけどね、あなたは自殺に失敗したただの死に損ないだ。ダッセエったらありゃしない」
「ちょ、メルメル待っ」
「あなたは……、っ、ずっと、俺の……ポラリスだったんだ……」
 零れ落ちた言葉と共に。胸ぐらを掴んでいた手から力が抜け、ぱたりと落ちる。とん、と燐音の肩にHiMERUの頭が預けられる。布越しにじわりとあたたかく濡れた感触がある。震える背に手をやれば、久しく感じることのなかった体温が不思議と指先から伝わる。燐音は堪らなくなって目の前で小さくなっている愛おしい塊を力一杯抱き締めた。
「……ごめんな」
「……」
「有難う。俺を、アイドルで……おまえのお星さまでいさせてくれて」
「……」
「……泣くなよ、愛してるって言ったろ」
「あれは……俺が囚われるようにって、建前で」
「いや、あ~……あン時はそうだったかもしんねーけど、今は違うぜ。俺なんかをこんなとこまで追っかけて来ちまう愚かなおまえが、可哀想で、可愛くて堪らない」
「……シュミわる……」
「はは、認めるよ。……なあ、愛してるぜ」
「本当に……馬鹿な人」
 恭しく手を取ってすべすべとした甲にキスをひとつ――なんて、せっかく柄にもなく格好つけたと言うのに、ず、と鼻を啜る音が耳に届くと燐音はつい吹き出してしまった。腕の中のHiMERUが睨み上げてくるが、泣き濡れた瞳では迫力に欠ける。赤くなった眦に口付けを落とすと擽ったそうに身を捩るのがまたいじらしい。少しの間そうしていると、やがて落ち着いたのかHiMERUが身を起こした。
「――綺麗な、場所ですね」
「ん? あァ……起きたら、こうなってた」
「天城。この花を知っていますか?」
 この花、と言うHiMERUの細い指はそこら中に咲き乱れる小花を撫でていた。
「ん、ネモフィラ、だろ?」
「そうです。英名は『baby blue eyes』……あなたには、少し可愛らしすぎますね」
 燐音の碧い瞳を指しているのだろうか、HiMERUは花を一輪摘み取ると、燐音の掌にそっと載せた。
「これは――俺からあなたへの、呪いです」
「呪い?」
「俺を、思い出したでしょう?」
 そうだ。ここで目を醒ました時、燐音は確かにHiMERUを想った。鮮やかなスカイブルーに目が眩んで、その色を纏う彼のことを懐古した。その直後に出会ったのだ。
 HiMERUは俯いたまま続ける。
「ネモフィラの花言葉は『あなたを許す』、なのですよ。覚えていますか? あなたが消えた日、俺が最後に伝えたことを」
「それは、」
「殺したいくらい愛していると、言ったでしょう」
 覚えているに決まっている。その言葉を聞いて、離れ難いと、思ってしまったから。
 そう、覚えてはいる。けれどもHiMERUの言わんとしていることがわからない。意図を汲み取ろうと思案していると、燐音の目に映る景色がぐらりと揺れた。後頭部を地面にしこたま打ち付けて顔を顰めながら瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは雲ひとつない青空を背負って自分に跨るHiMERUだった。
「良いですか天城、『アイドル天城燐音』は俺がここで殺します。あなたのしたことは全て水に流しましょう。俺にかけた呪いも、許します」
「メルメル……?」
「だから、そうしたら、後に残ったただの天城燐音は――俺のものになってください。今度こそ、捕まえた……。あなたを、手離したくない」
 アイドルの顔を貼り付けて張りぼての愛を告げたあの夜とは違う。HiMERUが今にも泣き出しそうに目元を歪ませてそんなことを言うものだから、どちらにせよ不器用な奴だな、と燐音は思う。
「……メルメルよォ、強欲なのか無欲なのかどっちかにしようぜ。『ください』じゃねェ、『寄越せ』って言やァ良いだろ。手離したくねーなら、しっかり手綱握ってろよ。そうすりゃ全部くれてやっからよ……もう、なァんにも持っちゃいねェけどな」
「ふふ。じゅうぶん、です」
「――アイドルでも何でもなくなった俺を、求めてくれるのか」
「逆ですよ。アイドルのあなたを俺が独占するわけにはいかないでしょう?」
「あ〜……やっぱおまえ、強欲だわ」
「よく言いますよ。自分ひとりで何でもかんでも背負えると思い込んでいた勘違い野郎の癖に」
「てめェそれが素かよ。口悪りィぞ」
「天城こそ。いい加減その無頼漢然とした振舞いはやめたらどうですか、見ていて恥ずかしいのです」
「コラメルメル! 世の中には言って良いことと悪いことがあるってママに教わらなかったの⁉」
 かつてのように軽口を叩き合い顔を真っ赤にして大声で抗議しながら、ああようやく笑顔を見せてくれた、と燐音は安堵した。HiMERUは何時如何なる時でも凛と美しかったが、やはり笑った顔が一等綺麗だ。あたたかく懐かしい感傷に浸るのと同時、燐音の胸には失くして久しいはずの感覚が去来していた。どうしてか身体の中を血が流れている実感がある。活動を止めていた心臓が再び鼓動を刻み始めるようだ。自分は死んでいるはずなのに、今更手に出来るものなど何も無いはずなのに、心の奥深くで欲望が首を擡げている。欲しくて欲しくて堪らないのだ、目の前にいる彼が。
 燐音が自身の腹のあたりに跨ったままのHiMERUに手を伸ばすと、彼は屈んで身を寄せてくれた。まだ僅かに赤みの残る目元を親指で撫ぜる。軽く腕を引き上半身を倒させると、端正な顔が目前まで迫った。察した彼が目を閉じるのを待ってその唇に触れるだけのキスを贈る。たった数秒、体温が重なる。やがて名残惜しさを覚えながら離れて燐音は、なんだ、と思った。欲しがっているのは俺だけじゃないのか、と。
 ――ここにふたりきりで良かった。だってこいつのこんなに物欲しそうな顔、死んでも誰にも見せたくない。
「なあメルメル、抱いてもいいか」
「……はい」
「優しくする」
「優しくなくたって、良いです」
「俺がそうしたい、駄目か?」
「……そんな言い方は、狡いです……」
 ここが何処であるかなど燐音には最早どうでもよかった。彼とふたりぼっちでいられるなら、地獄だろうが天国だろうが、何処だって良かった。
 HiMERUの頬を包む燐音の手に彼の手が重ねられたのを合図に、ふたりはもう一度唇を重ねた。



「んぅ……りんね、……ぁ、も、だいじょ、ぶですからあ……」
「だーめ、そう言っていつも強がってただろおまえ」
 本心から優しくしたいと言った。だから燐音は繊細な壊れ物を扱うかのようにHiMERUに触れたし、少しでも「いや」「だめ」等の否定の言葉が出ればすぐにでも行為を中断しようとした。しかも離れていた期間も長かった、どうしても臆病になってしまうのは否めない。全身余す所なく柔らかな羽根で撫でるように愛撫して、髪の毛からつま先まで触れられる全ての場所にじっくりとキスを落として。手足の指を一本一本丁寧に舐って吸って、時には甘噛みして小さく肩を跳ねさせるHiMERUの反応を確かめて。段々と楽しくなってきてしきりにそんなことを続けていると、遂にHiMERUがぐすぐすと鼻を鳴らして泣き出してしまった。
「う、んん、りんね、や、です」
「っ、わり」
「ちが、やめないで……」
「ど、したらいいわけ」
 ぎょっとして童貞みたいな返事をしてしまった。燐音はおろおろと慌てた様を隠しもせずにHiMERUの顔を覗き込む。みっともないがしんどい思いはさせたくない。HiMERUは親の仇とでも相対しているかのような鋭い目付きで燐音を睨んでいたが(泣き腫らした目元が赤いせいでむしろそそられる)、じっと待っているとふいと目を逸らしてぼそぼそと小さな声で喋り始めた。
「その……気持ちいいのですけど、焦らされているようで辛いのです、こちらも……。っもう、これでは俺が強請っているみたいじゃないですか」
「いい、言って」
「くそ、調子が狂う……。あなたは、俺の好きなところ、たくさん知ってるはずでしょう……っ」
「うん」
「……、触って、ください。もっとよくして、燐音」
 たっぷりの間が挟まったから、きっと恥ずかしいのを堪えて言ってくれたのだろう。求められるのが嬉しくて燐音はにへらと破顔した。そうしてHiMERUを背中から抱き込むようにして座る。
「おう。……メルメルは、耳弄られるの好きだよなァ。指で擽ったりとか、舌入れたりするとビクビク震えちまって」
「あッ⁉ そ、な急に、ひゃ、あんんっ……!」
「首筋っつーか項? ここらへん、歯ァ立てるとナカ、すっげえ締まるンだぜ。後で噛んでやるからな」
「ひうっ、ア、舐め、るな」
「脇腹も弱いよなァ。軽く撫でただけで反応しすぎっしょ」
「あ、あ! ッ、く、んん~っ、」
「こぉら唇噛むな。……ヘソ、ずっと舐めてたらイッちまったことあったよなァ」
「やあ、りんね」
「内腿、もうちっと肉付けても良いとは思うけど、すべすべして触り心地良いし俺っちは好き」
「りんねっ……あ、いああ、ッ!」
「なーにメルメル、そんなに乳首触ってほしかった?」
 わざとその場所を外して愛撫していった燐音は、懇願するように名前を呼ばれようやくそこに手を触れさせた。HiMERUが胸を弄られるのに特別弱いことは勿論知っていた。
「い、じわる、ンン、あ」
「ちょーっと爪立てたりとか、抓ったり引っ張ったりするとおまえ、泣きながらヨがるもんなァ。これ好き? このドMちゃん♡」
「いッ、うあ、ひいんッ……あん、好き、すきぃ……」
「よいしょ。いーこいーこ、舐めてやるな」
「やああ、んあ、アア、りんねぇ、っ! だめです、だめ」
 HiMERUを膝立ちにさせ、尖らせた舌で乳首を舐ると無意識なのか髪をぐちゃぐちゃと乱される。じゅうと音を立てて吸ったり思い出したように歯を立てたりすると白い喉を晒して高い声で鳴く。片方に強めに吸い付きながらもう片方を親指で押し潰してやると、HiMERUが燐音の頭をぎゅうと胸に抱えてぶるりと大きく身体を震わせた。直後脱力して崩折れたところを見るに達してしまったようだ。燐音は咄嗟にHiMERUの身体を支えた。
「メルメル……いつの間に乳首イキ出来るようになったの」
「ン、はあ、は、じめてです……っ! 人聞きの悪い!」
「……はじめて、か、そっか」
「なっ、んでちょっと嬉しそうなんですか⁉」
「え~? ンー、メルメルの初めてになれたらそりゃ嬉しいっしょ」
 HiMERUは怒ったり照れたり忙しなく表情を変えていたが、さも当然かのように燐音がそう答えると、今度はその柳眉をぐっとひそめて呆れ顔を作った。
「今更何を言っているんですか……俺の初めても、最後の男もあなたでしょうに」
 今度は燐音が眉をひそめる番だった。言われた言葉を反芻し、HiMERUを見、それから大きく目を見開いて力任せに肩を掴む。
「ウソ⁉ あれから後ろ使ってねェの⁉ 一度も?」
「はあ⁉ 当たり前です、あなたじゃあるまいし」
「いや俺っちもねーから。うわ、そ、っかあ~~~」
 そっかそっかと呟きながら燐音は顔を隠して俯いてしまった。理由を知らないHiMERUが様子を窺おうと横から覗き込んできたので、すかさず手でシッシと追い払う。
「むっ。……燐音」
「あ~わりィ、今顔見ないで。自分でも赤くなってンのわかるわ」
「は?」
「だから……わかんねェ?」
 ぐい、と愛しいわからず屋の腕を引く。次の瞬間にはHiMERUの身体は燐音の腕の中にすっぽりと収まっていた。ちゅ、と耳朶にキスをして、間近から密やかな囁きを落とす。
「おまえが生涯俺っちしか知らなかったんだってわかって、嬉しくないわけねえっしょ……?」
「へ⁉ りん……んん⁉」
 油断しきったそいつの唇を奪う。両手の指を絡ませ、そのままの勢いで押し倒す。強引に舌でこじ開けて口腔に入り込めばこっちのものだ。HiMERUの薄い舌を絡め取って食んだり上顎をつついたり歯列をなぞったりすれば、くぐもった声と合わせて飲み込みきれない唾液が口端から漏れる。互いの舌が絡み合う湿った音も、全てが燐音の興奮を煽る材料にしかならない。
「っ、はあ、抱く。メチャクチャ抱く」
「燐音、なんか怖」
「知らねェ。おまえが悪い」
「ひっ⁉ あ、」
 燐音は無遠慮にHiMERUの下着に手を突っ込み、胸への刺激で既にどろどろになっていた中心を握り込んだ。上下に扱いて器用にHiMERUの気を逸らしつつ、後孔を解そうと精液を絡めた指で縁をなぞった。触れる度過剰な程に腰を跳ねさせる様に気を良くしながら、ゆっくりと中指を挿し入れていく。そこはかつて燐音を受け入れていたものと同じ器官とは思えない程固く閉じていた。疑っていたわけではないが本当に使ってなかったんだな、と実感として理解した燐音は、またじんわりと胸を打たれてしまった。狭い入り口を抜けると柔らかい内壁が指に絡み付いてくる。最初さえ突破してしまえば何とかなりそうだ。深いキスを仕掛けてHiMERUが惚けている間に、なるべく痛い思いをさせないように――とねちっこいくらいにじっくりと中を解していた燐音だったが、ふとあることに思い至りパッと顔を上げた。
 今俺ら死んでるし、痛覚……無いんじゃなかったか。
「……メルメル」
「……ぶふっ……」
「気付いてたなら言えよオイ」
「いや……、すみません、あなたがあまりに一生懸命で、可愛らしくて」
「てめェ……ブチ犯すぞ」
「やだ、ごめんなさい燐音、ふふ……」
 弄ばれたことに少なからずショックを受けた燐音は無表情のまま、くすくすと笑うHiMERUの頬を両手で抓ってやった。驚きもせずに依然笑い続けるHiMERUは、反対にゆったりとした動作で燐音の首に両腕を回し抱き着いてきた。
「いひゃい、あはは、からかってごめんなさい、大切にされて嬉しいのですよ……これでも。気持ちいいのはちゃんとわかりますから、続き、してください」
 まるで年上の綺麗な想い人に翻弄されるよう。あの頃とは立場が逆転しているようで、何だかおかしい。ともあれ妖艶な微笑みを浮かべてとびきり甘い声音で誘われれば、燐音の理性はもう限界だった。ここまで耐え抜いたことを褒めてほしいくらいだ。おまえがエロいのが悪い、と胸中で理不尽な言い訳を捏ねながら、痛いくらいに張り詰めた性器を問答無用でHiMERUの中に突き挿れた。瞬間、物凄い締め付けに襲われる。
「あッうそ⁉ い、っく、やだやだやだっ、イッちゃ、うう……‼」
「うお⁉ やべ……、ッ!」
 ――嘘だろ、挿れた瞬間にイッちまった。
 急な脱力感に襲われぼんやりとしながら燐音は打ちひしがれていた。こんなことは生きていた頃にだってなかった。これでは三こすり半を笑えない。一方のHiMERUもひどく驚いているようで、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。達した余韻にぴくぴくと震える太腿の白さに当てられて、HiMERUの中に収めたままでいた燐音の中心はまたすぐに熱を持ち始める。覚えたてのガキじゃあるまいし、と燐音は両手で顔を覆い天を仰いだ。いくら何でも恥ずかしすぎる。
「あー、その、ごめん……」
「あ……、いえ、俺もびっくりしてしまって……」
「俺も……ヨすぎてびっくりした……」
 はは、と乾いた笑いが漏れる。失望されただろうか。燐音、と名を呼ばう声が耳に届いておずおずと指の間から目だけを覗かせると、HiMERUが顔を見せろとばかりに燐音の手を掴んで引き寄せた。ちゅう、と指先を吸われ思わぬ刺激にびくりと肩を跳ねさせる。悪戯っぽく見上げてくる蜂蜜色の瞳に目を奪われてしまう。
「燐音。メチャクチャ抱いてくれる、のでしょう? これでは足りませんよ……?」
「ッ、……おまえ、それズル……」
 薄い唇が上下しぬめる舌が燐音の指を這う。舌先で指の股を擽られるとひどくこそばゆい。さらりと頬に影を落とす髪を掻き上げる仕草も相まって、まるで性器を咥えさせているかのような感覚に囚われる。
 ――セフレだった頃はフェラなんて一度もしてくれなかったじゃねェか。
「は、そのまま……咥えてろよ」
「っん⁉ ふ、っ、んうう!」
「地獄で青姦と洒落込もうぜ、メルメル♡」
「ぁふ、う、ひゃいてい……」
「最低? 感じてる癖によく言うぜ」
 すっかり勃ち上がった自身で燐音はHiMERUの胎内を容赦なく擦り上げる。口腔に燐音の指を収めたままずんずん突かれHiMERUは苦しげに喘いだ。前立腺を狙って攻め立ててやると快感に耐えられないのか指に歯を立ててくるのが、燐音に背筋がぞくりとする程の愉悦をもたらした。アイドルであった頃は燐音の身体に傷を付けることをあれ程嫌がった彼が、今は歯型を付けることも厭わないのだ。ひとりの人間として彼のものになるというのはそういうことだ。そして今は燐音も、彼の全てを掌握したいという衝動に突き動かされている。
「俺っちの知らねーうちに、随分とエロくなっちまいやがって……っ」
「ンン゙、っは、アア、なか、すご」
「おまえが、嫌がっても……! ぜってェ離さねーかんな、覚悟しとけ、よッ」
「いあッ、ひゃうう、あ゙ーっ、おぐ、奥だめですっ……」
「奥がイイんだろ、ホラ、零すなよ……?」
「あ、あ、イッ、~~~~っっ‼」
 熱くうねる内壁が搾り取ろうとするかのようにねっとりと絡み付いてきて、燐音は今度こそこみ上げる射精感に抗わず欲を吐き出した。飛沫を敏感な粘膜に直接浴びたHiMERUは燐音の背中に爪を立て、背を大きく反らして極めた。ぎゅうと丸まったつま先が空を掻く。HiMERUは深く達したのかしばらくの間燐音にしがみついたまま小さく痙攣を繰り返し、必死に呼吸を整えていた。その滑らかな頬は紅潮して瞳には涙の膜が張り、濡れた唇からは火傷しそうな程に熱い吐息が零れて、――燐音の腹の奥底で燻る情欲は、まるで収まる気がしなかった。
「なァメルメル、変なんだ、後から後から欲が出てくるんだよ。おっかしいよなァ、もう死んでンのにさ……俺っちみてェな奴が今更何も求めちゃいけねェってわかってンのに、止まってくれねェんだ、心臓が煩くて堪んねェ。ここでもう一度おまえに会って、自分で自分を殺して埋めた墓の下から、無理矢理引きずり出されちまったみてェだ……おまえが欲しいんだよ」
 もっと欲しい。こんなもんじゃ全然足りない。心も身体も全部全部、何もかも手に入れてしまわないと気が済まない。彼は「捕まえた」と言ったが――捕まってしまったのは、本当はどちらなのだろう。俺はもう、たとえどんなに拒絶されたとしても、二度と手離してやれそうにないのだけれど。
「好きだ」
「……もう、知ってます」
「どこにも行かせたくない」
「どこかへ消えてしまいそうなのは、あなたの方では?」
「どこにも行かないさ。おまえの隣がいい」
 真っ直ぐ目を見つめて告げると、彼はきゅっと唇を引き結んだ。泣き出す直前のような怒ったような、複雑な表情だった。
「あなたって人は……遅すぎますよ」
「ごめん」
「俺はもう、おじいさんなんですよ」
「今も綺麗だ」
「……」
「好きだよ」
 HiMERUの蜂蜜色の双眸が潤んで溶け出す。やがて喉奥から引き攣ったような嗚咽が漏れ、彼は腕で顔を覆っていよいよ本格的に泣き出した。
「っ、ひぐ……ほんと、に……?」
「おまえが自分のものになれって言ったんだろ」
「信じて、いいですか」
「ああ」
「~~っ、今度裏切ったら、百回殺す……」
「いいよ」
 裏切りの前科があるから、そう簡単には信用してもらえないだろうけど、これからじゃ遅いのかもしれないけど、俺のぜんぶを賭けて傍にいるから。この目眩がする程うつくしい檻の中にふたりぼっちでずっといよう。
 沈黙は肯定と受け取ることにして、燐音はHiMERUを抱え直し鼻先に軽く口付ける。
「もうひとつお願い、聞いてほしいんだけど」
「……内容によります」
「そんなに身構えるなって。けど大事なこと」
 自分のものよりも一回り小さく繊細な手を包み、燐音は殊更に優しい声音で囁いた。
「おまえの本当の名前、教えて。呼びたいんだ、ちゃんと」
 HiMERUはその目を驚きに大きく見開き、燐音の顔を見た。それからこれまで見た中で一等綺麗な微笑みを浮かべたのだった。
「仕方のない人ですね。……いいでしょう、俺の名前は――」

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