湖に映る


 俳優トラファルガー・ローは最近猫を飼い始めたようだ。
 以前虐待を受けたことのある保護猫で左眼は開かない。大きく縦に走る傷が瞼を縫い付けてしまっている。しかし、そんなことは気にもならないほど完成された愛らしさ。こぼれ落ちそうな一つきりの眼球、控えめに作られた口から見える小さな舌。猫にしては少し骨太、でも軽やかなステップで床を駆け、着地は音も立てない。ベースの白にたまに混じる青葉色の毛はベロアよりも滑らかで、果実のように瑞々しい。神経質そうなローが整えているのだろう。
 ローのワンスタグラムにアップされる写真も動画も、自分そっちのけで美しく気高いその猫に占拠させる。
『うちの子猫は眠るのが大好きだ。寝てないところを写真に残すのも苦労する』
 子猫の顔に宿る球体の湖に一眼レフを構えたローが見える。その水はどこまでも澄んだ真冬の空。映し出されたローの口は三日月のようで。水面に投影する美しすぎる夜。月光はひそやかに愛を語る。

『気まぐれだ、おれの猫は。今日はめずらしく構って欲しい日のようだ』
『高いところが大好きなうちの子猫。キャットタワーから降りてこない』
『おれの猫が体調を崩した。心配だ。朝、こいつが目を開けるのを確認するまで眠りたくない』
 眠る子猫。ドーナツのように丸く手足をしっかり守るように。その姿にまで気高さを滲ませ、『夜はそれでしか寝ない』と以前ローがツイートしていた高級そうなクッションの上ですやすやと夢の中だ。

 こうやって、まったく稼働していなかったローのSNSが二日に一度更新される。今まで敷居の高さを見せつけていたトップ俳優が我々の目線に合わせて舞い降りてきた。それこそ猫のような気まぐれなのだろう。彼の鋼の皮膚と魂は今まで人間らしさを見せることはなかったのだから。

 たまにアップされる動画の子猫を見れば、耳の縁は照明を受けて光輝く。それがまるで鈴鳴りの純金のようで。きらり、その天然のピアスを自慢しながら画面を横切っていく。手入れも食事もきっと完璧。私よりもずっと贅沢な生活をしていそうだ。
 子猫は私のスマホの中で与えられた愛に誇らしく微笑んだ。ローに引き取られた今、当然のようにシルクのベールで包まれたあたたかなゆりかごで暮らしている。


 今日も子猫の写真と共にローの近況がアップされた。
『今夜は腕によりをかけて北欧風のグラタンときのこのスープを作った。匂いに釣られてやってきたおれの猫がその熱さに驚いて皿をひっくり返した。火傷がなくて本当に良かった』
 でも写真の猫は悪びれもせず、ただ気取ってこちらを見つめるだけだ。自分は愛されているので何をやっても許される、誰も咎めることなどできやしない。そう思っているのかも知れない。


 翌日、私がテレビをつけるとそこにはローが出演していた。もうすぐ公開する映画の宣伝のようだ。ダブル主演のロロノア・ゾロと共に。二人が共演するのは三年前のドラマ以来だと話している。
 一通り映画についてのインタビューを受けた後、ゾロの誕生日の話題になった。昨日彼は21歳になったのだと言う。
『誕生日はどう過ごされたんですか?』
 インタビュアーの質問に対し、ゾロの顔はほどけて溶けた。きっと本人だけがその笑顔の値打ちを知らない。
「男友達と豪華な料理を食べました」
 まあ、相手が誰だろうと『友達』と言うだろう。もし『彼女』だとしても言えないはずだ。我々はその言葉を額面通り、自分達の都合の良いように受け取るだけ。
「北欧風?だったか?グラタンが熱いのにびっくりして皿をひっくり返しちまって」
……北欧風?
 最近、どこかで見たフレーズだ。
「一生懸命作ってくれたのに申し訳なくて、そいつの顔が見れなかったんすけど……怒るでもなく『火傷してないか』って慌ててくれて」
 なんてイノセントな語り口。友達と過ごした夜の掛け値なしのエピソードだ。しかし、隣に座るローの眼球はそれに反して落ち着きをなくし泳ぎ出す。
「おれも、人を真っ先に心配できる人間でありたいと思えたんです」
 ゾロは語り続ける。とうとう口を覆ってしまったローの指が落ち着きなく騒めいているのにも気がつかずに。ローの長い五指の下で歪む唇は、困惑からか、愉悦からか。どちらにしても彼の鋼鉄の心が揺さぶられていることは明白だ。
 私は昨日のローのワンスタを思い出す。料理をひっくり返したのは、すべてを許されたあの子猫による粗相だったはずだ。画面に見切れずに映るローの薄い瞼が何度も開閉して、眼球に幾重にも波紋をもたらす。それはきっとやましさの象徴。
『素敵ですね。俳優仲間ですか?仲が良いんですね』
 まだインタビュアーは到達できずにいる。途轍もなく大きな嵐の予感に。
「そうです。この間もおれが疲れて熱を出した時、そいつは今おれよりずっと忙しいはずなのに寝ずに看病してくれて」
 スマホの中の子猫は、やわらかなクッションに丸まって安らかな横顔と逞しい背中を見せていた。具合の悪い子猫をわざわざ写真に収めるなんてことローはしないと、その時に心によぎった違和感は正しかった。体調を崩したのはきっと子猫じゃない。
 一つだけ確実なのは、ゾロはローのワンスタは見ていない、と言うことだ。だからこんなにも澱みなく、歌うように私たちにその話を聞かせるのだ。

 ローは、と言えば。先ほどまで大きな手のひらで隠していた顔を上げ、いつも通り感情の決壊を知らぬ澄ました顔に戻っていた。
『トラファルガーさんは、最近飼われている子猫のワンスタがとても話題になっていますが』
 微笑ましくも核心に迫るその質問に、
「ええ、うちの子猫は白に翠の毛が混じっているのが特長でとても美しいんです」
 そう答えるローの言葉に動揺は既にない。声はフラット、瞳はクリーン、覆う完璧なアーマー。唇は銃口となり、きっとここから殺戮が始まるのだ。
「愛情を注いだ分だけ、おれに懐いてくれています」
 ローは人間くささを感じさせない洗練された仕草で脚を組む。流線型の靴の輪郭までが俳優トラファルガー・ローの演出だ。そして頬を緩ませる。
「でも、もう一匹のおれの猫は気まぐれで、」
 もう一匹の、猫。
 もう一匹の、「おれの」、猫。

「普段はベタベタしてくれませんが、甘えてくる時だけすりすりと頬をおれの首筋に擦りつけてきます」
 
 まずい、ローのワンスタを知っている者は漏れなく被弾する。
『それはかわいいですね』
 インタビュアーからは素直な感想。ローのファンとの温度差はいかほどか。
「ええ、とてもかわいいんです」
 三日月の口、撃鉄には散る火花。撃たれるとわかっていても、我々は喜んで立ち竦むしかないのだ。
「夜もベッドをあたためて、おれと一緒に寝る為にいつまでも待っていてくれます」
 あの子猫は寝るのが大好きで眠たい時に眠るから、絶対ローの帰りなど待ちはしない。何よりも、いつだって大好きなクッションの上で丸まるだけでベッドでは決して寝ないと言っていた。
 でも、もう一匹の「ローの猫」は人間のベッドで眠るのだと言う。
 ローはわかって言ってるに決まっている。見てみなよ、隣に座るゾロの耳の縁取りにどんどん朱が滲み出して侵蝕していくのを。頬と鼻とその晒された肌のすべて、四季の移り変わりのようにだんだんと熟していく様を。それは赤い耳に実る金のドロップピアスにまで反射して眩しくて仕方がない。
 この羞恥のグラデーションはすべてを証明してしまった。前回の共演からこの三年間、育んできた二人の仲の生々しさを裏付けたのだ。証人はこの映像を見たすべての人間たち。そしてこの関係は、今この時からまた一つ美しく変化するのだろう。


 その翌日の朝、ローのワンスタがまた更新された。

『おれの猫は昨日はご機嫌斜めで毛を逆立てていた。仕方がないので夜じゅうずっと抱きしめて愛を囁いた』

 写真は子猫。なぜか耳だけ。光に明るく照らされる金の額縁。誰かさんのピアスみたいにキラリ輝く。きっと子猫の瞳には、隠しきれない幸せな何かが映り込んでいたのかも知れない。
 ローの過去の投稿を見れば法則は明らかだった。
『うちの子猫』と『おれの猫』。
 ローの家の一匹の子猫と、一人の大きなローの猫。


 でも、ゾロだって自分がローとの仲を匂わせてしまったことに気がついていない。

──「そいつは今おれ以上に忙しいのに寝ずに看病してくれて」
 なんて。
 今、ゾロ以上に忙しい若手俳優なんて、きっとロー以外にいないのだから。

 子猫だけがずっと世紀のスキャンダルをあの眼に映していた。溢れそうな球体の湖に二人の軌跡を反射させながら、虐待から保護されるまで受け取ることができなかった愛をローの家で学習していたのだ。
 今頃また当たり前のように愛情を注がれながら、誇らしく微笑んでいるのだろう。

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