言うなれば人選ミス

 ふわりふわりと、春の風に舞う花びらに似た話し方をするひとだ。

 木漏れ日が降り注ぐテラスにて。昼時をとうに過ぎ、ティータイムの賑わいも落ち着く頃合、大きなパラソルが落とす影の輪郭はじわりと滲んでやわらかい。包み込むようなオーバル型のラタンチェアに深く腰掛けると、頬を撫でるそよ風の心地よさも手伝って眠たくなってくる。いけない、うたた寝なんてお行儀が悪いね。あくびの代わりにふと口をついた問いだった。

「HiMERUくんは、春生まれ?」

 巴日和の問いかけに、テーブルを挟んだ正面に座る男が首を傾げた。涼しげな色をした髪がさらりと流れて、影が形を変える。貴重なオフ、気に入りのカフェへ向かう途中に偶然出くわし、お喋りの相手が欲しかった日和が有無を言わさず連れてきた事務所の後輩。珍しい取り合わせだった。
「──いいえ? HiMERUの誕生日は七月なので、夏生まれですね」
「あれ、一緒だね」
「はい。七月八月生まれのアイドルで集まってバースデーイベントを開催したこともあったかと。お忘れですか?」
 HiMERUが、アイドルの『HiMERU』がカメラの前で浮かべる笑顔と寸分違わぬそれを再現してみせる。にこり。完璧と言えば聞こえはいいが、と日和は口元に手をやった。
「……忘れてないね、覚えてないだけ。ぼくは記憶力には自信があるからね。大事なことは忘れない」
 その日ファンから受け取った笑顔や熱意や愛の言葉はきっちり覚えている。どんなに優秀な脳味噌でも記憶のリソースは限られており、取捨選択はするべきだ。つまり、愛し愛される自分のことだけを覚えていればいい。巴日和はそういう生き方を選んでいた。
 そして暗に〝大事ではないこと〟に分類されたという自覚を正しく持ちながらも、やはりHiMERUは微笑む。にこにこ。ふわふわ。
「──巴先輩は夏が似合いますね」
「ふふ、そうでしょ?」
「ええ。名は体を表すと言いますか」
 お手本のように微笑み、何かの撮影中と見紛う仕草でコーヒーカップを持ち上げる。洗練された、無駄のない所作。言葉は花びらのようで、軽くて、掴めない。猫を被っていることくらい見抜ける。不快感はない。一方的に相手に話を聞かせたい日和のような人間には、すこしばかり距離を感じるくらいの立ち位置は、存外丁度良かったりする。
 そうそう。ポットから紅茶を注ぎながら、何気なさを装って尋ねる。
「燐音先輩はどうしてるの、最近」
 昨日日和はTV局の廊下で燐音とすれ違った。収録から収録のあいだの移動時間だったらしく、挨拶もろくにできなかったのだ。多忙は喜ぶべきことだけれど、気のせいでなければほんのすこし、目元に疲れが滲んでいるように見えた。
「随分忙しくしてるみたいだけど。元気にしてる?」
 HiMERUが音もなくカップを置き、こちらを見た。
「……珍しいですね。あなたが別のユニットの、他人の心配をなさるとは」
 おや。日和は相手に気づかれない程度に眉を動かした。何もかもが異様に整っていて隙のない彼の、感情のぶれをわずかに見て取った気がして。紅茶でくちびるを湿らせてから、返す言葉を選ぶ。
「べつに、知らない仲じゃないからね、あのひととは。同じ部屋で何年か過ごせば観葉植物にだって情が湧くね」
 金いろの双眸が笑みの形に細くなる。これは〝どうぞ、続けて〟の意思表示だろう。巴日和は優秀なアイドルであるから、自分に求められていることをかなり敏感に拾える。とはいえそれを実行するかどうかはおひいさんの気の向くまま。だからあえて引っかき回す方向に動いてやってもいいのだけど、この男に対してそれをするとややこしいことになる気配を察知してやめた。
「……それにね。仕事の話も美容の話もしちゃったら、きみとの共通の話題なんてもうそれくらいしか残ってないじゃない」
「なるほど、それは……寂しいですね」
「出まかせだね。無理やり連れてこられて迷惑してる、くらい言えた方がまだ可愛げがあると思うけど?」
 きみって茨に似てるよね。あなたが可愛がっている身内に似ていると仰るということは、褒め言葉でしょうか? 貶してるに決まってるでしょ? どちらにせよ心外なのですよ。
 ちくちくと言い合った末、ふたりして同じタイミングでカップを持ち上げ口をつけた。目が合ってふふっと笑う。なんだ、もうちっともふわふわなんてしていない。日和は実際、同じ事務所にいながらHiMERUのことを大して知らなかった。
「HiMERUくんはそっちの方が面白いね」
「面白くなくて結構なのですが……」
 すっかり冷めてしまったブラックコーヒーで喉を潤してから、HiMERUはこほんとちいさく咳払いをした。
「それで、天城でしたっけ」
 元気ですよ。ひどく素っ気なく、彼は言った。
「……いえ。正確には、元気に振舞っているところしか見せないのですよ」
「ふうん?」
「ナンバーエイトの時くらいあからさまに体調を崩してくれればまだ、心配してやれるのですが。ちょっと疲れたとか嫌なことがあった程度では勘づかせてもくれなくて……付き合いの長い椎名は、気づいているのかもしれませんけど」
 ……おや、おやおや。どうやら自分は藪をつついたらしいと日和が知るに至ったのはようやくこの時。明るい金の瞳がどこか剣呑な光を宿し、意図をすり抜けていくばかりのうららかな声が、どろりとした粘度を持ってその名を呼んだ時だ。

「天城はね、格好つけてるんです。『俺』の前だから」

 連想したのは、熟した果実が腐り落ちる間際に発する蜜の香り。甘くにおい立つ官能。口内にじゅわりと唾液が溢れる感覚に戸惑う。咄嗟に嚥下した音をやけに大きく感じた。
「……なあにそれ、マウントのつもり?」
 胸焼けしそうな心地で軽く舌を出す。ああ、砂糖なんて入れるんじゃなかった。ティーカップの底にわずかに溶け残った塊をスプーンの先で押し潰しつつ、日和の自慢の記憶力は先程の声を明瞭にリピート再生していた。
  〝あまぎ〟と、HiMERUが口にした瞬間はしった悪寒。忘れようがない。よく晴れた初夏の夕暮れ、軽やかに吹き抜けていくはずの風は、冷や汗にじっとりと濡れたうなじを舐めていった。こもった熱を逃がそうとそっと息を吐く。指先がやけに冷たい。晒された素肌に纏わりつく外気を、今日初めて不快だと感じた。

 今の、声は。単なるユニットメンバーを呼んだにしては湿り気を帯びすぎていて、耳を塞ぎたくなるほどにぐちゃぐちゃしていて。それはいわゆる、性愛を伴う執着を抱いた相手にしか向かないものなのではないかと思われた。こんな明るい屋外で、第三者である日和に聞かせていいものだとは到底思えなかった。
 隙がある方が可愛げがあるとは確かに言った。が、完璧なアイドルたるHiMERUの生身の人間らしさを、こんな場面で感じたくはなかったというのが正直なところ。ああまったく、当てられた。のぼせた。手から離れたスプーンがソーサーに当たってカランと音を立てる。思わずテーブルに肘をつき顔を覆った。

 きみたちがそういう関係なのは知ってた。知ってたけど。

「そういうのはきみたちふたりのあいだだけで留めておいてくれない……?」
「そういうの?」
「きみはもうちょっと自分の感情に自覚的になるべきだね」
「どういう意味でしょう」
「そのままの意味!」
 ともかくあのひとと同室だったぼくの過去に嫉妬するのは早急にやめた方がいいね。時間の無駄だね、悪い日和。
 そう早口で告げると、日和はさっさと席を立った。
「お先に。会計は済ませてあるからね」
「え、」
「燐音先輩に言っておいて。お誕生日おめでとうって」
 背中越しにひらりと片手を振り、なおも肌に残る湿度を振り切るようにできるだけ軽快に、店のドア枠を跨いだ。春の風に舞う花びらに似た話し方をする彼は、声色ひとつでひとの体温をコントロールしてしまう、おそろしい男だった。





(2024年燐音バースデー)

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