大学生と社会人その7


寝苦しい日があまりにも続いたので、どれだけクーラーを付けても暑い部屋から逃れるため、ランニングを始めたのは夏のことだった。
歓楽街に近い場所で暮らしていると、夏でなくとも夜は短い。部屋の外で繰り広げられる喧騒を聴いていると、あっという間に夜が明けて朝が来た。そのうち、朝に寝ぼけた頭でランニングをするとあちこちにある誰のものとも分からない吐しゃ物を踏むことに気付き、朝まで寝られるだけの体力が戻ると、夜にもジョギングをするようになった。
日曜と月曜。仕事が終われば一度家に戻って回り道。
部屋を借りる前にもう少し立地を考えれば良かったのかもしれない。街路を縦横に走りながら観察をすると、仕事終わりの時間には酔客相手の店以外のほとんどがシャッターを閉めていて、外灯で明るい道沿いに、電灯が付いている店は多くなかった。
市場の中の路地にあるネオンサインの目立つ古着屋に入り、あの頃にホヨルの着ていた紫がかった桃色の差し色のジャンパーと同じ形のものを見つけてしまい、その場で財布の中身を全部出して買ってしまったこともある。カツアゲのついでに一暴れするのが目的だと顔に書いてあるにやついた連中に囲まれそうになって、いくつもの街路を抜けて走って逃げたこともあった。
夏の夜のジョギングは、朝以上に危険だ。
ボクシングで応戦出来るのは相手が一人か二人の時で、それも殺すほどに殴れば後でこちらが不利になる。数に勝る相手には逃げるのみ。高校時代に孫子だか何だかは忘れたけれど漢文や熟語が好きだったコーチからはそう教わった。そんな古い考え、いつ必要になる時が来るのかと呆れていたあの頃は田舎町にいたからどこでも走り放題だったけれど、ここではそうはいかない。空は無限ではなく、空気が綺麗だったのは遥か昔のことだ。
歩道があり、自転車やバイク、車通りの少ない道を選ぶようにすべきだと心のどこかで分っていた。気温が落ち着く頃には、家の周囲と言えるようなコースを外れて比較的治安のいい道を走るようになっていた。ホヨルの部屋へと続く道だ。
星明りも見えないような歓楽街と違って、顔を上げれば、ありふれた星空がある。
彼が住んでいるのはオフィステルにも見える外観の建物だった。
周りから耳を澄ませても、マンドリンの音は聞こえない。あの人の部屋が特別防音がしっかりしているわけでもなく、両隣の部屋に人の気配がするときは遠慮する、家での練習時間はそんなに取れないと言っていたから、きっとそのせいもあるだろう。
他の人間がホヨルの音を間近で聴くことはあまりなさそうだということが分かった。そのことに奇妙な満足と安心を覚えながら、窓の明かりを見てぐるりと回って帰る。部屋に灯りが付いてなければ、もう一周。
今しているこれは、大概ストーカー予備軍の行動ではないかと思ったけれど、あの人に会いたいから反省はしないのでどうしようもなかった。
反省はしなくても、傍から見れば、近くに子ども相手の学習塾があるような場所で延々とランニングをしている不審者になるわけで、こんな習慣を続けていれば何かの拍子で警官に職務質問を受けるような羽目になることは想像に難くない。あの人に嫌われてはないだろうことは確実だけれど、まだ一言も好きとも言っておらず、付き合ってもいないタイミングで言い訳のしようがないことに片足を突っ込んでいることは自覚していた。それで、目の前の問題を棚上げするべく、ランニングの途中で見つけたボクシングジムに通うことにしたのだった。
新しい欠落が埋まって、過去を思い出させる場所に近づく余裕が出来たということもあるのだろうか。チョンノ・フィットネス・ボクシングジムという自分には場違いに思える明るい店の名前の看板も良かった。
よろしくおねがいします、と門を叩くと、ジムの中にはフィットネス用の機械はなく、その代わりに網膜剝離を患った元選手のボクサーと、明るい茶髪に染めたホヨルと同じ年頃の男がいた。
「経験者? かろうじてバンテージは止めてったやつが残して行ったのがあるけど、グローブとかシューズとかウェア、必要なものはインターネットで揃えてな。」年嵩の元選手にはそんな風に言われた。
随分昔の話だが、以前通っていたジムでは、ボクサーパンツ以外は古いものを譲ってもらうか、代金と引き換えにジムで準備してくれたものを購入した記憶がある。ジュノがそのことを言うと「もうそんな風に、ここを辞めてったやつが残していったものの管理とか、何でもかんでもやれるような時代じゃないのよ。ここの職員なんてのは、前のオーナーが逃げ出した何年も前にお払い箱になっちゃって、今じゃコーチやってる俺とあいつしかいないんだから。事務方を受け持つおばちゃんも雇えなくて、使い古しのパンチンググローブやシューズ、バックは手入れして汚れを落とすか洗って干して乾かして、そこまでしたらネットで安く売っちまうのさ。」と笑われてしまった。
田舎のプライドの高そうな元国体選手とは違って、都会の、突出したタイトルも何もないがボクシングが好きな気持ちだけで仕事を続けているような男は、驚くほどにざっくばらんな話しようだった。ジムを締めるような時間にやってきたジュノの他には、誰もいなかったせいもあるかもしれなかった。
物の管理で使っていた部屋を女性用の着替え室に改造したから、男はリング周りか物が増えて狭苦しくなったロッカールームで着替えることになる、トレーニングウェアをそのまま着て来るといいとアドバイスを貰って初日は終わった。
リングとサンドバックを小さくたたんでリュックに詰めて家に持ち帰ることが出来るならジムに通う必要はないな、とホヨルなら言うかもしれない。そうでないから困るのだった。部屋に帰って紙幣の詰まった缶の中を見て予算を考え、スマートフォンを開いてボクシングシューズ、マウスピースと洗い替え用のウェアだけを注文した。グローブは何でもいいから安いもので、と思ったけれど、必要なサイズで買えそうな価格帯のものは、色が赤しか残っていなかった上に、形もぱっとしなかった。赤も似合うな、と言ってからかわれる未来が思い浮かんだので、黒か青が入荷したら知らせるためのボタンを押して、その日に買うのは止めておいた。
二回目に来たボクシングジムで、通販ページで慣れたメーカーのグローブが入荷待ちだったというと、仕方ないなと言って以前使っていた重さのものより少し軽いものを貸してもらうことが出来た。「ほんとのとこ、初心者用の見本にするのに、サイズは一通り揃えてあるんですよ。」と若い方の男が言った。その日の帰り際に、若い方の男に年を聞いてみると、驚いたことにジュノより年下だった。俺はジュノさんの先生じゃないし敬語はいいすよ、というので、ホヨルのやり方を真似て話を聞いてみると、一時期はフェザー級でタイトルに最も近いと言われていた年嵩のジョンハがジュノのような若い男を教えて、若い方のユジンが朝一番に来てジムを開けておき、ダイエットをしたい女性や健康維持のために買い物がてら付き添い付きで通って来る高齢者を主に教えているという。今ではルームマシンやゲーム機を買って自宅で気軽に筋トレが出来る上に、ボクシングは怪我をしやすい競技として知られているし実際その通り。昔は、というか十数年前まではそれでもテレビでボクシングの試合を見るような機会もあったことで、リングの上での殴り合いに男らしさを見出した俺みたいな馬鹿な男とか、ぽっちゃり体型だったり病気がちだったり近眼だったりする子どもが教室の内や外での暴力から脱げ出すために、駆け込み寺のような気持ちでここやってくることがないでもなかったらしいっすけど、今のとこ、そもそも金を出す方の親に人気がない上に、国際試合に出るとかそういう意識が高い感じの目標で門を叩くやつらも減ってたんですよね。ジョンハさんの別れた奥さんからアドバイスされて、ターゲット層っていうんですかね、年食ってウエストが気になるから運動でもするかって腹積もりの人間を取り込む方がいいだろってことになって、隣町のヨガ教室の宣伝文句を参考にして大学行ってる妹にポスターを作らせてみたんですよ。ジョンハさんにもそこらの食堂で鼻毛抜いてるおっさんみたいな恰好させるの止めて、グッチとかそういう風に見える洒落た背広のパチモン着せて撮影してもらって。礼儀正しく控えめな笑い方を心がけろ、って難しいっすよね。面倒だけどおためし体験入所みたいのもやってみて、孫連れて来てた話し好きのばあちゃんふたりにインフルエンザとかいうのになってもらったんですよ、そしたら、どうも嘘みたいにおばちゃんとばあちゃんの生徒が増えてきてね、笑っちゃうんですけど、俺も月曜は歩行補助機付けたばあちゃんに教えてるの、まあここ来るまではずっと田舎育ちでばあちゃん子だったから話しやすくてさ、と快活な声、立て板に水の勢いで言い訳めいた話をされた。今ではユジンの方が稼ぎ頭だけれど、ジョンハも結局昼から夜まで働くことになって円滑な施設運営までは首が回らないような状態になっているらしい。二日目を終えてほとんどジョギングで帰宅したタイミングで、そういえば初めてジムに足を踏み入れたときに煙草や汗の男くさい匂いの代わりに洗剤か柔軟剤の匂いがしたことを思い出した。
ボクシングジムの人手が足りないのは初日に聞いた通りで、そのうちに夜の手が足りないのを見かねて、以前通っていたボクシング教室のやり方を思い出しながら見よう見まねで手伝いをしているうちに、月謝はいらないから時々うちでインストラクターとして働かないかと誘われてしまった。これがチョンノ・フィットネス・ボクシングジムこと旧チョンノ・ゴリラ・ジムに通うようになって半月も経たない間のことだ。
物心ついた頃からずっと、人と話すことは苦行だと思っていたけれど、社会には、好きな人間と苦手な人間、それから近づくのも嫌な相手の三種類がいて、共通の話題がある分には、あるいは相手の言葉選びが正当だと思える範囲なら、苦手な相手でも話が出来ないこともないことが分かった。(そのことを知るのに莫大な時間がかかった。)
稼げないけどうちで働かないかと誘われてみれば、確かにパソコンの前に座ってばかりの仕事よりも、身体を動かすことの方が向いている。とはいえ、拘束時間が長いのと給金が低い(らしい)ことが問題だった。フルタイムでここに通勤することになればなったで、ホヨルの誘いを三回に二回は断ることになるだろう。あるいは、ホヨルの誘い二回に対して、自分の誘いたいタイミングも含めて三回は約束が反故になる可能性もある。返事を先延ばしにして、とりあえず手伝いながら様子見をしている間に秋が来て、朝のジョギングでは吐く息が白く見えるようになってきた。フィットネス・ボクシングジムの生徒は、ジュノが来てから三人増えた。

休みの日は朝に洗濯と買い物をしてしまい、軽く食事を済ませた後でトレーニングをする。
昼からは少し寝て、夕方になるのを待つ。日暮れた頃に、マンドリンと教科書を背負ってホヨルがやって来る。
マンドリンを忘れてくる日もある。
マンドリンがある日にはホヨルの練習する姿を見ながらマットレスでそのまま寝てしまうことが多い。
寒い、と言いながらジュノがマットレスに潜り込んでくるけれど、あまりにも眠くてそれ以上は目を開けられない。ホヨルがどこを触ってきても触られるままにしているうちに、五分も経たないうちにほとんど気絶の状態で意識が落ちる。夜が更けて、耳に近い場所から聞こえてくる寝息に覚醒すると、懐に潜り込んで来たホヨルのあらぬ場所が身体に当たっていることがある。暖かな体温は規則的で健やかな寝息とセットになっていて、こちらの身体がどんな風になってもどうしようもない。好きな人の寝顔を見ながら頭の中で縄跳びした数を数えているうちに朝が来る。起きて来ないホヨルのために食卓に鍵を置いて仕事に出て、戻ると鍵が表の郵便受けに入っている。
ホヨルがマンドリンを持って来なかった日には、ジュノが先にシャワーを浴びて先にベッドに入る。ホヨルがその後にやってくる。ホヨルの身体はマンドリンより厚みがあって、マンドリンより柔らかい。

今夜のホヨルは、マンドリンを背負って、黒いビニール袋に入った手土産を持って来た。
「アンジュノ、知ってるか、世間では昨日がペペロデーだったらしい。」
ホヨルはそう言って、紫と青の差し色があるジャンパーを脱いだ。この間来た時も白衣にカレーを付けたままだと言っていたのに今日も白のタートルネックを着て来たので笑ってしまった。なんだよ、なんでもないです、という会話をしている間にホヨルは身につけていた手袋も外した。柔らかそうな素材で出来ている黒の手袋で、ここに忘れていかないでくださいよ、と思ってもないことをジュノが言うと、うるさいぞアンジュノ、と言ってホヨルは手袋を投げつけるふりをした。
店の名前も書かれていない袋の中から取り出されるのは、大抵がその辺りで買った食べ物か服と決まっている。疲れた後輩にペペロをやろう、愛してるぞ、と雑に言われて顔を上げると、新聞紙に包まれている「何か」の形は不定形だった。
この人がペペロデーなんてものを覚えていてここにやって来たのだろうかと思えば多少ときめかないではなかったけれど、中にはスナック菓子が入っているようには到底見えない。そもそも、いつものえびせんを代わりに買って来た話であれば、新聞紙に包む必要もない。開けていいぞ、と言われるままに包みを開くと、中からは焼き芋が出て来た。触れるとまだ暖かい。
「ペペロのつもりで食べたら喉を詰まらせると思いますけど。」
「ずっと見てたらペペロに見えなくもなくなるんじゃないか?」
「無理です。」
「息子よ、俺だってお前の言い分が正しいのは分かってるよ。」
ホヨルはごまかすようないつもの笑顔を顔に閃かせた。
座ってください、と言うと、ホヨルは「忘れてたわけじゃないけど、お前はああいうイベント面倒がりそうだったからわざと日を外したんだよ。」と言ってまた笑った。
「そもそもふたりで一本でしょう。この焼き芋、二本ありますけど。」
「俺の息子が死ぬほど腹減ってる場合に備えて買って来たんだよ。第一、こういうのはふつう三本で一セットなんだ。」
「そうなんですか?」
アンノーイモうまいぞ、とホヨルが呪文めいた言葉を言った。きっと芋の種類か学名だろうと思ったけれど、面倒なので聞き返さない。
「焼き芋屋がこれで最後というから割引してもらった。」
「押し付けられたんでしょう。」
「お前はなあ。今日はペペロも買って来たのにいらないのか?」
「俺はこっちでいいです。」
ペペロデーっぽいことがしたいのは俺よりこの人の方らしい。半分に割った芋を、口開けてください、と言って差し出す。
割れた焼き芋の中はオレンジ色で、昔、実家の近くの坂から見た夕焼けの色に似ていた。
「あんふの、」口いっぱいに頬張って名前を呼ばれる。
何言ってるのか分からないですよ、と言ったら殴られそうだ。ホヨルは必要に駆られて大口を開けていて、この口で大胆になる夜もあるのだけれど、今は極力そのときのことを思い出さないようにしたかった。
俺も食べよう、と半分残った方を口にすると、芋は奇妙にしっとりとして、水あめみたいに甘かった。焼きたてを食べたら火傷しそうだ、と思いながら食べると、こちらの心中が伝染したのか、やましいことを考えているようなまなざしでこちらを見ているホヨルと目があった。残りの一本を食べながら茶を入れて、少しゆっくりしようと思っていたのに、そんな計画はあっさりと頭の中から追い出されてしまう。口の中に残った芋をゆっくりと咀嚼して呑み込み、口元を拭い、抱き寄せたいと思ったからそうした。ペペロデーよりも楽しいことをしましょう、というと、腕の中でじたばたとあがいていたホヨルは動きを止めて、今日は新しい曲を弾くつもりだったのに、と言った。



11月13日の話。

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