カレー皿


玄関からただいま、という声が聞こえて来て顔を上げた。
しまった。
今日は私が夕飯を準備する日だった。
うう。黒須くんが自宅から持って来たアルバムを見てたら時間が溶けちゃうから見ないでおこうと思ったのに。
この一週間だけでいいから、村からイシさんを借りられないかなと思ってしまうけど、この忙しさばかりはどうにも出来ない。皆どうやって乗り切ってるんだろう。
和久井くんは三日で新婚旅行を切り上げて職場に戻ったって言ってたけど、あの和久井くんをして三日というなら、黒須くんなら一日でゲームオーバーね。
ふとそんなことを考えてしまい、内心で頭を抱えながら振り返ると、そこには、結婚式を前にしてからずっと続いている黒須君のにこにこの笑顔がそこにあった。
「黒須くん、おかえり。和久井くんから電報とお祝いの品物が来てるんだけど、一緒に見ない?」
手元には、小さな箱がある。
送り主は和久井譲介と書かれているけれど、国際郵便ではない。消印は東京だ。
宛名が和久井君の手書きじゃなかったとしたら、なりすましの可能性を疑っていたところ。
クエイド財団の関連団体の視察や学会などで日本に戻って来ることも全くないわけじゃないと言っていたから、その間に電報の手続きをしたのかもしれない。こっちに来てるなら連絡くらいして欲しいけど、きっと自由時間の短さに加えて目の回る忙しさだったに違いない。朝倉先生の仕事が多い時やフライトの時間によって十分刻みのスケジュールで動かなきゃならない、とこぼしていた日もあった。そういうタイミングだったのだろう。
呼ばれたところで都心まで出て行く気力がないのはこちらも同じだから、和久井君にだけこっちに来て、というのはこちらのわがままだ。
まあ、お互いにわがままが言えないような間柄でもないけど、わがままが言える自由があると感じていられる間は、至急の時以外はこらえていられるのが大人ってものだから。
「何なに、譲介から?」と黒須くんが近づいて来た。
「うん、今日宅配のボックスの中に届いてたのに気づいて。中身、何だと思う?」
大きさは、よく式場の出入り口に飾られているようなぬいぐるみが入っているような大きさだけれど、ぬいぐるみよりはちょっと重い。
何が入ってるんだろうね、と手にとった黒須くんも首をかしげている。
「揃いのお碗くらいの重さだけど、譲介はそういうの、選びそうもないな。」
「そうかしら。」
黒須くんの推測は、妙に的を射ているような気がした。
和久井くんが、普段遣いの湯呑を床に落とした後で、丈夫で壊れにくいのが気に入ってる、と言った日のことを覚えてる。彼が村にいる間、出される飲み物や食事の食器にこだわっていなかったのは、ただの無頓着が理由じゃない。そのことを知ってるのは、わたしだけではないかもしれないけど、和久井君は、黒須くんにはそういうところを絶対に見せなかった。
「まあ、式の一週間前って、いくらなんでも早すぎると思うけど。」
「まあ、和久井くんにも和久井くんの都合があるんだと思うわ。そもそも、アメリカから祝いの品を送ったところで、私たちの式が終わってから三か月して船便で届く、とかそういうのもありそうだから。」
「一週間なら誤差の範囲かな?」
「そうそう。大体、和久井くんって村にいたときもこんな感じだったじゃない。」
「譲介が?」と言って黒須くんはまばたきした。
「色々前倒しでやってたわよ。」
「そうだっけ?」
「そうよ。」
何事も、忘れてしまうくらいなら早め早めにやっておく方がいい、と言う和久井くんの癖は、私たち三人がK先生の弟子として一瞬だけ同僚だった頃に、時々見かけることがあった。
診療所の廊下の電灯がチカチカと点灯しだしたら、その日のうちに村井さんと一緒に蛍光灯を変える。食事の合間にも、一週間後の往診予定の患者さんのカルテを見ながら、時間を惜しんで先生に質問をしていた姿を見たこともあった。先生のお茶がなくなった時にそれと気付くことが出来るのは主に麻上さんだったけど、その次にさっと席を立っていれ直していたのは和久井くんだった。
和久井くんと過ごした時間は短かったし、あの頃はまだ、高校時代に、居眠り譲介と先生たちからからかわれて恐縮していた外向きの穏やかな顔とは反対の、黒須くんにやたらと突っかかってとげとげしい感情をあらわにしていた和久井くんの面差しの印象の方が強かった。
だから、それだけにその変化がよく目についた。村にいた頃の彼は、同じように黒須くんにライバル心を燃やしていたけれど、その感情の表出は、わたし自身、ひどく身に覚えがある気持ちに変わっていて、出会ったあの頃のように、見ていて不安になることはなかった。人間の細胞は七年で生まれ変わるというのは、脳細胞を除外していない古い考え方だけれど、あの頃の、カレーをもりもりと食べて元気よく往診に出て行く、少し子供っぽくなった和久井くんは、本当に高校時代の彼と同じ人なのかと、それほどの変わりようだった。
あの時期の和久井くんを見ていて不安になったのは、あの人が、和久井くんの父親が死にかけていると言いに来たときの一度だけだ。虎穴に入らずんばとは良く言うけれど、まさか渡米の直前にそんな危ない橋を渡ることを和久井くんが承諾するとは思わなかった。出来ればついて行きたかったけど、ふたりがいなくなってしまったら誰かが先生と一緒に診療所を見ている必要があったし、適材適所という言葉くらいはわたしも知っている。
「そういえば、オレ、誕生日にも譲介から何か貰った記憶ないんだけど。なんで結婚式だけ?」
「どうせあの人の入れ知恵でしょ。『徹郎さん』。」
「あ~~~~~………うん。」
「何よ、そのおかしな顔は。」
黒須くんの今の顔は、喉が渇いたから目の前の冷たい麦茶を飲んだら、中身がアイスティーだったと気づいた時の顔に似ていた。
「いや、譲介がドクターTETSUと暮らしていて、仕事も手が離せない時期だからオレたちの式に出られないって言うなら尚更、お金だけ送ってくる可能性の方が高いかな、って思ってたから。」
「そうなの?」
「そういう感じの人だったんだよ。前はね。」と黒須くんは苦笑している。離れて暮らすようになって以来、あの人が一度ならず和久井くんの様子を見がてら、ちょくちょく診療所に現れていたというのは、あの後先生から聞いた。それくらい、面倒見が良い人でないと、高校時代の和久井くんと暮らすことは難しかっただろうと思うけど。
「黒須くんと和久井くんの間には、私の知らない話がまだまだありそうね。」というと、黒須くんは目に見えてギクシャクして「譲介も、あっちで学生時代をやり直してる間に、また変わったからなあ。」と話を逸らした。
「黒須くんが言いたいことは、わたしもなんとなく分かるけど。」
まあ言葉にしないのが武士の情けじゃないかと思う。
食生活と運動は大事よね、やっぱり。
「じゃあ、和久井君がくれた、海を渡った……のかどうかは分からないけど、この小さなつづら、さくっと開けてさくっとお返事しちゃいましょうか。」
いざ、開封の儀、とカッターで開けてみる。
段ボール箱の中に、梱包材でがっちりと保護された中身は、なんだか見覚えのあるフォルムだ。
「食器だね、これは。」と黒須くんは呑気だ。
「カフェオレボウルではないわね。」
わたしもつられて呑気になった。がさがさと梱包材を解いてみると、答え合わせが出来た。
「譲介らしいな。」と言ってから、黒須くんは吹き出した。
「いや、普通、こういう時って夫婦茶碗とか湯呑にするものじゃない?」
人のことをずれてると良くからかう癖に、あの男ときたら。
「――あ、今譲介からメッセージが入った。こういう時の食器を見てて、同じ大きさが良かったんだけど、なかったから、ってさ。すごい言い訳だ。」
包みを開けた中から出て来たのは、二枚のカレー皿だった。
白くて、黄色いふち飾りのような線が入っている。
わたしはこの先、カレーより豚汁の方が好きな男と暮らしていくのだが。
ちらりと頭の隅をよぎったその考えを、頭を振って気持ちの隅っこから追い出す。
これは、いよいよマリッジブルーというやつね。
そもそも、イシさんのカレーを食べている和久井君の隣で、競うようにおかわりしていた黒須くんのことを思い出したら、安直だけど、今からでもカレーが作りたくなって来た。
それに、カレーなら、イシさんの作るような百点満点の料理にならなくても気負う必要もない。
「和久井くんの家庭円満の秘訣が、いまだにカレーらしいの、ちょっと分かる。」
「オレも、カレーが食べたくなって来た。」
「私も。」
にこりと顔を見合わせると、黒須くんがこちらに顔を近づけてきた。
そういう意味で笑った訳じゃないんだけどなあ、と思いながら目を閉じると、暖かな唇の感触が重なった。
「美味しいカレーが作れますように。」と黒須くんは笑っている。
その可愛い笑顔に当てられて、毒気が抜けてしまいそうになる。
「それはいいから、ちゃんと手伝ってね。」
釘を刺してはみたものの、黒須くんに任せてしまったら、冷蔵庫にあるにんじんや玉ネギ、ジャガイモたちが無事でいられるだろうかと不安になってきた。
和久井くんの「徹郎さん」にはそんな心配は無用なのかしら、と思いながら、小さなため息を吐いていると、いそいそとエプロンを身に付けている黒須くんの背中が見えた。可愛い顔しちゃって。
あーあ。
この先もこの人と暮らしていくのね、わたし。

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