男子高校生の日常 その6



七月だった。
梅雨が明けると気温が上がるのは自明の理だが、今日はセミの音が妙に五月蠅い。
おふくろに言われた通り麦わらでも被ってくりゃ良かったか、と思いながら、徹郎は、リュックの肩ひものずれを正し、片手にした地図を見た。
譲介はあれでいて几帳面なところがある。徹郎が勉強を見るようになってからというもの、殴り書きに近い様子だったノートの字が少しずつ整ってきて、人に読ませるものと思った時だけは、それなりに読みやすい字を書くようになった。
時折陽炎が立ち上るバス停からの道を、真っ直ぐ、真っ直ぐ歩く。
車があればこれほど時間を食う必要もなかったが、家で車を運転できるのは父親だけだ。それも、移動となればいつものタクシー会社に電話するので、ほとんどペーパードライバーだった。
そのうち、兄さんも免許を取るだろうとは思うが、無謀な大学生の車に乗って、あるいは無免許で運転した高校生の車が事故って悲惨な目に逢った同乗者の話を、この夏前におふくろから延々と聞かされたので、暫くはいいかという気になっている。
電車とバスを乗り継いでの一時間半のうち、半分は接続の悪さでの乗り継ぎ時間だった。
背中に背負ったリュックが重すぎて、遠足というよりはほとんど登山の気分だが、それを口にすれば、譲介にそれ見たことかという顔をさせるだけなので心の中に仕舞って置くつもりだ。
この先には、潰れた煙草屋があり、その先にある理髪店を右に曲がった先に譲介の住んでいるあさひ学園がある。


先週の月曜日は、夏休み早々の登校日だった。
今日のように晴れてさんさんと日が照っていたので、そのままクーラーの付いている家に行くのも面倒と譲介が言うので、空いている図書館で課題図書の感想文を書きながら時間を潰すことにした。
互いの文章を添削や確認しながら、たまにはオレもお前んとこ行きたい、というと、譲介は、遠いぞ、と言った。
拒否しないのは、またいつものきまぐれか、そうでなければ、夏の暑さで気が緩んだのかのどちらかだろう。
夏休みだからな。多少遠かろうが、暗くなる前には家に戻れるだろ。そう徹郎が言うと、物珍しさで来たところで面白いものはないからな、といってそのまま勉強を続けていた。
「あー、クソ。プールでいいか、って言えば良かったぜ。」
目に汗が染みて来るほどの暑さで、農家のおっさんよろしく首に巻いてくるタオルが必要だった。
一昨日暇つぶしに見に行ったリバイバル上映の映画で、ラクダに乗ったピーター・オトゥールが着ていた白装束をふと思い出した。
徹郎の家に門限はないが、帰宅が遅くなったらなったで、また夜遊びが始まった、とおふくろが自分を責め出すことになるのは自明なので、暫くは出歩かないでおこうとは思っている。確かに、このところは譲介とつるんでるせいで、おふくろには、かなり大人しくなったように見えているのだろう。
夜に出歩いて、酒を飲んで煙草を吹かしてというのは、中学の頃の悪癖だった。小さい頃はあれだけ尊敬していたオヤジは、兄貴が受験で家を出ると決まった頃から、笑いもせず、学校での話を聞くこともなくなり、始終暗い顔をするようになっていった。中三の夏から成績は徐々に落ちて行ったが、おふくろは腫れ物に触るようにこちらに接するようになり、オヤジは何も言わなかった、兄さん……兄貴も、自分の受験が一番でこちらのことは素知らぬ顔をしていた。
おふくろは、傾きかけている病院をどうにかするためか、このところは、しきりに遠方にある実家の祖父母のところに頭を下げに行っている。そういう日は、着物を着て帰って来るし、帰宅が遅くなるせいか、大抵がカレーになるのだ。
お父様は仕事が大変なのよ、とおふくろは庇うけど、徹郎は、中学を卒業する頃には、母親に子育ても金策も頼りきりのオヤジに、すっかり嫌気がさしていた。
妙な話で、譲介と一緒に食事を取った夜から、また、以前のように少なくとも週に二度は、あいつも揃って家で夕食を取るような日常が戻り、少しずつ徹郎の話も聞きたがるようになった。あの夜の夕食がきっかけだったのかは分からないが、冴えなかった顔色も妙に明るくなって、以前の「父親」が戻って来たようにも感じる。もしかして、兄貴が家を出たのとはまた別に、家族にも言えない問題を、腹に抱えていたのだろうか。そんな都合のいいことも考えたけれど、こっちには簡単に許してやる義理もない。今日も、あわよくば最寄り駅の近くのファミレスで何か適当に食べて帰るか、とは思っているが、この暑さじゃ、もう家に戻っておふくろにそうめん茹でてくれと泣きついた方が良さそうだ。
住んでいるところからバス停までかなり距離があるから朝は七時前に出ているという話を譲介に聞いて、この手にした地図も、なんとランドマークの詳細な記述のために表裏両面に記載があり、裏面を日に透かすと、朝になると甲虫が取れる電柱という鉛筆書きを消しゴムで消した跡が見えた。
それにしても、歩くな。
どれだけ距離があるのかと思っていたら、歩けども歩けどもたどり着けない。
ガンダーラか?
そもそも日影になる場所が少ないせいで、バスを降りてからはずっと日光をまともに浴びている。
目当ての建物らしい建築物が見えて来たが、もしかしたら蜃気楼のように消えてしまうのかもしれない、とすら思った。正面玄関のある入り口の表の看板には、ちゃんとあさひ学園と書いてある。
児童養護施設というのは、実際どんなとこなんだ、と疑問に思っていたけど、確かに建物自体が、木造旧校舎と言った風情だ。庭には物干しがあり、大小の洗濯物が風にはためいていた。
昔見た、西部劇の田舎の光景に似ている、と徹郎は思う。玄関の中に入ると、手洗い励行、整理整頓、廊下は走らないなどと書かれているポスターが掲示されていた。ますます学校染みている。ともあれ、この荷物を下ろしてしまおう、と徹郎はゆっくりと担いでいたリュックを下ろした。
「こんにちは、誰かいますか?」と手でメガホンを作って呼びかける。
老人ホームや病院などといった機関に行けば必ずあるはずの窓口はなく、玄関近くには、応接室と書かれた一室もあるけれど、大人が出て来ることがない。
玄関が開く音に気付いたのか、呼びかけに答えてか、奥からわらわらと子どもたちが湧いて来て、柱の陰から遠巻きに徹郎のことを見ている。
「譲介、いる?」と聞くと、蜘蛛の子を散らすように背中を向けて走っていった。
「譲兄ちゃんの友だち来た。」と三つ編みを赤いヘアゴムで留めた子どもが言った。
「テツ来たよ!」と青い半ズボンを履いた生意気そうなガキが言った。
「頭良さそうに見えない!」と言ったのは、その隣にいるマルコメ頭の子どもだ。
……テツ?
いや、むしろ最後のひとことが聞き捨てならないけれど、そもそも、自分の名前の一部分ながら、簡略化して呼ばれると、確かに頭が悪そうに聞こえるのがショックだ。
「本当に来たのか。」と、奥から譲介が出て来た。
白無地のTシャツ。暑いのか、首にも白いタオルを巻いている。タオルの端にはテレビCMをしている眼鏡屋の名前が見えた。
おっさんかよ、と突っ込む気力もない。
「譲介ぇ……なんか飲ませてくれ。」と口にするなり、力が抜けてその場にへたり込む。頭が痛いし、なんだかくらくらする。
「は?」
「喉乾いて死にそう。」
「……この馬鹿!」
あ、そうですか。
和久井君、カッコいい、とか言ってるクラスの女子に今のお前の悪態聞かせてやりてぇ。


しゃがんでいる間に寄って来た子供に伸ばしてた前髪を髪留めでパチンとされて目が覚めた。額の上に、冷やしたタオルが載っている。
「起きたか?」と言う譲介の顔が目の前にあった。
麦茶の入ったコップを手渡され、それを一気に飲み干すと、やっと人心地が付いた。その後で、コップ一杯の水に塩と蜂蜜を入れてレモンを浮かべた代物が出て来た。
「水、美味いな。……お前がコレ作ったのか?」
「いや、熱射病だろう、って伝えたら、とりあえず持っていけって言われた。」と譲介が言った。
きっと、職員がひとりくらいは常駐しているのだろう。
「分かってると思うが、コーラとかジュースなんて飲んでも、水分にはならないぞ。」
まあ、それはオレも知ってる。知識としては。
まさか、ブラックアウトするほどのこととは思わなかったけど。
「悪いな。来るなり面倒掛けて。」
「別に。遠いと言っただろう。……先に電話くれたら、バス停まで迎えに行った。」と言う譲介の声が、どこか拗ねているようにも聞こえてくすぐったい。
「いや、なんか、電話番号聞くの忘れてたし。まあ、お前の言う『遠い』とオレの考える遠さの認識に差があるらしいってことは良く分かった。」
本当は電話帳で調べることも出来たけれど、顔を見ない方が断りやすくないか、と考えたらメモを取る手が止まって、結局連絡は出来なかった。もう少し颯爽と現れるつもりだったのに、誤算もいいところだ。
目の上を冷やしていたタオルを取って、首の汗を拭うと、譲介は、こちらの顔を心配そうな目付きで伺っている。
「あ、譲介、その白いTシャツ似合ってるぞ、天使か?」と笑うと速攻で頭を叩かれた。元気じゃねぇか。
「だから、お前は馬鹿なんだ……徹郎、なんだあのリュックは。勉強道具が入ってないじゃないか。」
「あー、見つかったか。」
「あんなところに転がしてあったらな。ちなみに、僕が開けた訳じゃないぞ。」と譲介は言い訳をする。
「まあ、分かってるって。今日はまあ、お前の宿題がどこまで進んだかチェックするつもりで来たんだから、ペンだけあればいいだろと思ってな。」
「ノートも置いてきたのか?」
「入れて来たとしても、潰れるだろ。」
途中駅で下車して、買って来た西瓜を丸ごと担いでやってきたのだ。名にし負う俵型の西瓜は、妙に重かった。
「なあ、あれ、もう冷蔵庫に入れたか?」
「いや、裏のたらいに入れて水で冷やしてる。」と譲介が言うので、つい笑ってしまった。
「いつの時代の話だよ。そんなんでなんとかなるのか?」
「切っても、中に入るのはせいぜい半分だけだ。冷蔵庫の容量がないんだよ。たらいならなんとか入る。」
合理的、といえば、合理的な理由だった。そういえばおふくろも、武志さんがいないと西瓜が減らないから今年から半分のを買って来ましょうか、と言っていた。……いや、今のはナシ。
まあ、水も美味いし人心地も付いた。
「西瓜が冷えるまで勉強でもするか?」
「徹郎、お前はもう少し寝ててもいいぞ。熱射病になったら、暫く動かない方がいい。」と譲介が言った。
おい、今の顔は流石に分かりやす過ぎないか。
「譲介、手を付けてないのは古文と英語のどっちだ?」と訊いてみると、「両方。」と譲介が言うので、徹郎は大きくため息を吐いた。
「出来の悪ぃやつを生徒にすると、逆にヤル気が出るもんだな。興味のねえことばかり後回しにしとくと、後でツケが回って来るぞ。」
ニヤッと笑うと、「分かってる。」と譲介が言って、手を差し出した。
ずっと、こうして玄関先でへたり込んでいたところで、確かに益はないな、と徹郎も思う。とりあえず、勉強できる部屋はもうスペースが足りない、というので、食堂のテーブルを使わせてもらうことにした。
勉強道具を広げて、さあ今日も始めるか、という時になって、食堂の外から色んな学年のガキどもが顔を覗かせていることに気付いた。
デートの邪魔すんなよちびっ子、と思うが、どれだけ心象を悪くしようにも、今日のオレは西瓜を持って来た優しいお兄ちゃんなのである。多少のパンダ扱いは仕方がないのかもしれなかった。
「徹郎、後でお前も食べて行けよ、西瓜。」
「いいのか?」
「まあ、この人数じゃ、あの大きさがあっても、ぺらっぺらの西瓜が一枚手渡しされるくらいだろうけど。」
ぺらっぺらの西瓜。
あまり期待するな、と言う譲介に、つい笑ってしまった。
「西瓜を独り占めするより、そっちの方がずっと楽しそうだぜ。」と言うと、譲介は「礼は言っとくけど、僕はお前のそう言うところが嫌いなんだ。」と言って、小さく笑った。


powered by 小説執筆ツール「notes」

372 回読まれています