恋人たちの午後

 背中が暖かい。その体温はオ・デヨンの気持ちを落ち着かせる。腹に回された自分のものではない手に指を滑らせて、それから後ろに体重をかけた。デヨンの背もたれ、もとい恋人のキル・スヒョンはびくともしない。デヨンは今ソファに座ったスヒョンの足の間に腰を降ろし、抱きしめられていた。それも耳元で愛を囁かれるオプション付きだ。
「愛してます」
「好きです」
「かわいい」
「……好き」
 スヒョンと恋人になったばかりのデヨンならばもうこの時点で顔を真っ赤にしてお前いい加減にしろ俺の心臓止める気か、と言ったがその時期はもう過ぎた。今ではすっかり「これ」は二人の間の定期イベントと化している。デヨンはこうされてもすっかり緊張することは少なくなった。それでもスヒョンにから言葉が注がれると嬉しいし、鼓動は少し早くなる。それ以上の自分を愛している人間に包まれている安心感と心地よさもある。
「オ・デヨンさん」
「ん」
 目を閉じてスヒョンの声を聞く。今この世にいる誰よりもデヨンの名を優しく呼ぶ男の声。
「好きです」
「うん」
 すり、とスヒョンの手の甲を撫でる。デヨンに触れるからと意外とこまめにハンドクリームを塗っていることを知っている。
 キスを嫌がられたくないからとリップも塗る。柔軟剤を変えるときは苦手な香りじゃないか確認してくる。お互い働いていて時間があまりないときもあるからと台所には家庭用の食洗器があって、二人で過ごすことの多いリビングには加湿除湿機能付きの空気清浄機がある。眠る時間があまりにずれて一緒に眠れないときはおやすみのキスをする。タイミングが合えばお互いの髪を乾かす。一緒の日に休みがあるなら、二人一緒のベッドで過ごして、次の日は寝坊する。コーヒーは基本的にブラック。でも疲れているときは牛乳と蜂蜜を入れる。
 全部、一緒に過ごすうちにできた習慣だ。こうしたい、と口にして決めたこともあれば、いつのまにか習慣になったこともある。もちろん互いの意見を譲らず喧嘩したこともあった。
 そして今。こんなふうにデヨンを抱きしめてスヒョンが愛をささやくのも習慣のひとつになっている。
「なあ」
「はい」
「そっち向いていい?」
 きっと何も言わずにスヒョンの方を向いても彼は嫌がりはしないけれど、一応聞く形はとっておく。かわいい彼の顔が見たくなった。デヨンにはスヒョンがどんな表情で言葉を紡いでいるのか容易に想像がつくけれど、やっぱり直接見たいので。
 デヨンを抱きしめる腕の力が少し緩んだので、スヒョンの方を向く。
「やっぱりかわいい顔してるな」
 デヨンは手を伸ばして指の背でスヒョンの頬に触れる。スヒョンは目を逸らさない。デヨンの背に回った手にはまた少し力が込められた。
「ジェームス、俺の顔見てもう一回言って」
 そのまま指先をスヒョンの唇に触れさせる。デヨンに愛を囁くかわいい唇。夜にはデヨンを翻弄する唇だ。スヒョンが少しだけ息を呑む気配がする。もう口癖なのかというくらいデヨンに愛してると言っているのに、こういうところがかわいい。
 デヨンの指先がスヒョンの唇をなぞって離れる。スヒョンはデヨンから目を逸らさない。
「愛してます」
「……うん」
 デヨンの口の端が上がる。嬉しいのだから仕方ない。向かい合って告げられるスヒョンの「愛してる」はデヨンの後ろから囁かれるものとは少しだけ音が違う。こうして向かい合うと熱く、後ろから囁かれるときはデヨンに染み渡らせるように軽い。きっと気持ちの重さは変わらないだろう。スヒョンが意識しているかもわからない。デヨンはどちらも好きだ。
 スヒョンの愛してる、にデヨンは頷いた。何度も聞いたし、己も言う言葉。けれど何度聞いてもスヒョンの愛してるを新鮮にうれしいと思う気持ちがある。
「…………」
 スヒョンがじっとデヨンを見つめる。それがかわいくて目を細めてしまう。いまだ不器用な子どものようなところを残す年下の恋人が、デヨンはかわいくてしかたない。今だってデヨンはスヒョンが何を求めているか知っている。けれど言わない。愛を伝えただけで満足なんて、まさかそんなことないだろ。
「オ・デヨンさん」
「ん?どうした」
「…………」
 わかってるくせに、とでも言いたげな顔。デヨンにしか見せない表情だ。
 わかってるよ、でも言わせたいんだ。
「してほしいこと言ってみな」
 キスがしたい、一緒に眠りたい、自分がしたいことは言えるのに、してほしいことを言うのにはいまだに少し戸惑う様子を見せる。
「あなたも言ってください」
「なにを?」
「僕のことどう思っているのか」
 スヒョンの言葉に思わず笑う。デヨンが自分を愛していることには微塵の疑いもないのだ。だからこういう物言いができる。実際どうしようもなく愛している。このかわいい男を。
「愛してるよ」
 我ながら甘ったるい声で告げて、さっきまでデヨンに散々愛を囁いた唇にキスをする。よくできました。でもまだ言いたいことがあるから触れるだけ。
「それにかわいいし」
「え」
「かっこよくてちょっと意地悪。でも優しい」
「あの」
「真面目で素直」
「ちょっと」
「あとは、うん、やっぱりかわいいし。俺のこと大好きだな」
「……勘弁してください」
 じわりじわりとスヒョンの頬も目じりも赤く染まる。さっきまでデヨンに愛を囁いていたのに、デヨンから告げられたただの事実でこんなにも恥ずかしがる。
「なんだよ、お前が『僕のことどう思ってるか』聞きたいって言ったのに」
 だからデヨンは言葉にしたのだ。今ので全部とはとても言えないけれど。キル・スヒョンの愛しいところをひとつひとつ挙げていったらキリがない。なんせオ・デヨンはキル・スヒョンを愛しているので。
 デヨンは再びスヒョンに手を伸ばす。赤くなった少し熱を持つ頬を両手で挟んで、鼻先を近づける。
「こういうとこも好き」
 それから唇をすり合わせてキスをする。少し唇が離れてかわいい、と零した。
「あなたって人は」
「わは、なに、どうした」
 ぎゅうう、とスヒョンが力いっぱいにデヨンを抱きしめる。痛いほどではないが逃がさない、とでもいうようにしっかりと。応えるようにデヨンもスヒョンの背に右手を回し、左手でスヒョンのウェーブのかかった髪を少し避けた。
「好きです」
「うん」
「愛してます」
「俺も」
 愛してるよ、と今度はねだられなくても言う。スヒョンが嬉しそうに顔を緩めて、こいつのかわいさには際限がないのか、と思う。
「好きです」
「うん、好きだ」
 なんだこれ、ずっと同じことを言い合って、それでもうれしくて。ふふ、とデヨンが笑みをこぼすとスヒョンも笑顔になる。それがなんだかどうしようもなく幸せで。
 スヒョンにぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、デヨンは笑った。
 恋人たちの午後にはふさわしい時間だった。




 

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