パンケーキ



誰かが台所で立ち働く音が聞こえて来る。
おかみさん、今日も早いな。
いつものようにリズミカルな包丁の音も煮炊きの音も聞こえて来ないが、誰かが自分より先に起きて働いている音を聞くのは久しぶりだった。それにしても、音が近すぎるような気もするが……昨日は、母屋の稽古場で寝潰れてしまったんだろうか。板の間で寝ると、後で腰が痛いことなどは分かり切っているのに、起き上がって内弟子部屋に戻るのが億劫で、書見台に古典の全集を乗せたまま床で寝入ってしまうことが良くあった。
入門が遅い自分が兄たちに勝るところがあるとすれば、それは学歴があるという一点に他ならず、今は知識で劣るところがあるとしても、直ぐに一番弟子の域に追いついてやるという気持ちでしゃにむになっていた時期があった。
こんなところで愚図愚図せず、早く与えられた内弟子部屋に戻って着替えないと、性根の悪い兄弟子たちに小突かれてしまう。
師匠は尊敬しているけど、弟子達はダメだ。
特に、あの二番弟子などは、最悪の部類だった。
与えられるばかりの人生を棒に振るような生き方しか出来ない甘ちゃんの息子にも反吐が出るが、輪をかけて嫌いなのは、正論で相手をやり込めようという人種だった。
人に甘えるな、努力を積めば苦境は乗り越えられる。
中卒でこんな特殊な業界に入って、たまたまその場所が自分に合っていたというだけのことで、分かったような口を利く。努力ではどうにもならないことが世間にはあることを、知らないで生きて来られた幸運を分かっていないのだ。
自分だって、今は師匠とおかみさんの庇護を受けて生きているくせに、どの口が、とは思うが、兄弟子に表立っての口答えは許されない。
徒然亭草々という男は、僕が一番嫌いな部類の人間だった。
「だった」
だった……?



ジュウ、というなにかが焼ける音で目が覚めた。
鼻先にバターの匂いが漂って来る。
「おう、四草、起きたか?」
「……寝てます。」
「起きてるやないか。」
「草若ちゃん、もうちょっと寝かせて~。」
声色を変えて休日に寝坊をしたがる子どもの真似をすると「うっわ! いい年してキショい物言いすな!」とツッコミが飛んでくる。
中途半端な算段が藪蛇になることなど、この年になるまでに散々分かっているはずなのに、この人を前にすると、碌に自制が利かない。
(なんで子どもは良くて僕はダメなんですか。)
腹の中ではそんな風に思っていても、そこまで甘えたことは口には出来なかった。
「おい、しぃ、さっさと顔洗って支度せえ。誰か部屋に入って来たら、どない言い訳するつもりじゃ。」
布団からはみ出した額をデコピンされた。
僕の部屋です、と言いたいが、子どもに何かあって戻って来るのは一応はあちらの部屋であることを考えて、昨日はこの人の部屋を「使った」のだった。
「……痛いですよ。」
「お前が起きられるようにしたったんじゃい。」
このところ、朝寝坊をするたび、子どもに布団を剥がされてばかりだから、ずっと仕返しの機会を伺っていたに違いない。
布団の中身であるところの僕が、まだ何も着てないことは分かっているはずで、子どもと同じことをしようとしないところはそれなりに学習できているようでもあるけど。
自分だって、しっかり甘えてくるくせに。
あんな風に名前を呼ばれては、起きるしかない。
重い瞼を開けてのそのそと身体を起こすと、裸の肩が春の朝の空気に晒される。
風呂上がりに互いに爪を切ったつもりだが、背中が久しぶりに妙な具合だった。
かつては、もっと長い爪で引っかかれた日もあったが、この先はずっとこの人の付ける跡でいいだろうという気がしていた。
「なんで寝坊が出来る日に起きなならんのですか。」
「なんででもや。つべこべ言わんと起きんかい。草若ちゃんのパンケーキ屋さんが開店するのに、食べる係がおらんでは始まらんやろ。」
「は、何……?」
「パンケーキ屋さんじゃ!」
キッチンスペースに目を遣ると、草若邸から引き取って来たあの頃の大皿の上には、薄い座布団のようなホットケーキが何枚も乗っていた。
「……いつものホットケーキと違いますね。」
「しゃあないやろ、おちびのリクエストなんやから。」
「リクエスト?」
「あいつ、草若ちゃんのホットケーキやのうて、お店のパンケーキが食べたいんやと。……いくらオレの方が作れるもんのレパートリー少ないからって、そこまで言われたら闘志が沸いてくるわな。」
「いや、それは兄さん、」と言いかけて口を閉じる。

――なあお父ちゃん、草若ちゃん、最近仕事が忙しいみたいやから、前みたいにおやつ作ってもらうんも、遠慮せんとあかんかなあ。

子どもが小さな相談事をこちらに振るというのは珍しいので、青天の霹靂だった内容は、頭の中にまだ残っている。
草若兄さんは、お前に金使う分には不都合ないらしいから、外の店で奢らせたらいい、梅田まで出たら店あるやろ、と適当な助言をしたまでは良かったが、その返答が、どうやらこの人には、別の方向で火をつける結果になってしまったらしい。身から出た錆、という慣用句が頭の中に浮かんでくる。
仕方ないので、ひとつため息を吐いてシャツとボトムスを履いて布団を片付けていつものちゃぶ台を出す。
布団をただ丸めて隣に移動させればいいような気がするが、ふたりで寝乱れた布団を、食事の最中もそのままにしておくのも気が引けた。その間にも草若兄さんは着々とパンケーキタワーを築いている。
「僕、朝からそんなに食べられませんよ。」
「残ったら冷凍にするわ。」
今時の冷凍庫賢いんやで、と言いながらどこから買って来たのか、バターとメープルシロップとが食卓に置かれる様子を寝起きの頭でぼんやりと眺めていると、この金でうどん十杯、と考えたら負けのような気がした。
心の中で唸っているうちに、パンケーキの皿と牛乳で満たされたカップも置かれてしまった。
ちゃぶ台の向かいに座って「なあ、これ、なかなか良く焼けたと思わんか。」と兄さんは言った。
朝日が差し込むような部屋ではないはずなのに、満面の笑顔が妙に眩しく感じる。
「僕、フォークとナイフ、隣から持って来ます。」と言って、僕は兄弟子の前から立ち上がった。
「……ついでにオレンジジュースも残ってたの持って来てくれ。ぐずぐずしてる間に、一週間経ってしまうやろ。戻ってくる前に飲んでまうで。」
そうします、という代わりに手を振った。
一歩外に出ると、春の冷たい空気が身体を包む。
それでも、背中に残して来た暖かいパンケーキの匂いが、まだ体中を包んでいる気がした。

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