みちづれ

 ソウルで観測史上初の三十九・六度を記録したその日。ドンシクは、地平線の見える田んぼの一本道で、いつまで経っても来る気配のないレッカーを待っていた。つのるイライラに比例して、ハッチバックのバンパーを殴りつける強さが増していく。しかしながら、目玉焼きがいい具合に焼けそうなほど熱を持ったそこに、拳がめり込むことはない。関節から伝わる熱と無駄な運動のせいで、ただでさえ消耗している体力と気力はもう消沈寸前だった。
 連れ添って十五年。犬だったら大往生だと思えば、この愛車と過ごした時間はなかなか濃密な時間であったと言える。けれど完全に今日じゃない。まさか葬儀場までの道中でエンストするなんて。一時間後にはもう葬儀に参列しなければならないのにだ。まぁ故人とは生前、顔を合わせたことも、まして話したこともないのだが。今時、金で『泣き屋』を雇うなんて時代錯誤もいいところだ。しかもこんな中年の男をだ。むさ苦しいったらありゃしない。ドンシクはキリキリと歯を鳴らして、とっくにびしょ濡れになったシャツの襟から漆黒のネクタイを引き抜いた。
 しかし待てど暮らせど、レッカーは到着しなかった。なにが『いつでもどこでも瞬時にかけつけるロードサービス』だ。連絡をしようにも携帯の充電も切れた。近くにコンビニどころか商店も、民家のひとつも見当たらない。というより人の気配すらしない。
「う〜ん。詰んだな!」
 声に出すとより絶望感が増した。ドンシクは地べたに座り込んで、晴天の空を仰いだ。
 積乱雲、蝉の声、とめどなく流れ出る汗、空のミネラルウォーター、最後の煙草一本。まるで世界の終わりのようだ。もしくは本当に、この町はすでに地球外生命体に侵略されてしまったのだろうか。それとも住民全員ゾンビになってしまったとか。冗談はさておき、とにもかくにも体が危険信号を出しはじめている。どうにか生き延びねば。葬式に行くために死ぬとか笑い話にもならない。
 重い体をどうにか持ち上げようとしたその時、蜃気楼の向こうからうるさく唸るエンジン音とともに、空より真っ青なスポーツカーが現れた。ドンシクは反射的に、車が向かってくる方向に身を乗り出した。急ブレーキののち、運転席からサングラス姿の若い男が降りてくる。
「……あなた、死ぬ気ですか?」
 IT企業の若手CEOみたいな風貌の神経質そうな男は、いかにも不機嫌ですという顔で、黒いジャケットの襟を正した。サングラスの奥で蔑むような目つきをしているに違いない。まったくまるでタイプじゃない。けれど背に腹は代えられない。
「いやぁ〜死ぬとこだったんですよ」
 ドンシクは、ありったけの作り笑顔を振りまいて、助手席のドアにしれっと手をかけた。案の定、男は慌てた様子でドンシクの手首を掴んだ。
「何してるんですか」
「人助けだと思って乗せてくださいよ」
「お断りします。他を当たってください」
「他がいないからあなたに頼んでるんでしょう? まったく最近の若者は人情てもんがないのかね」
「そんなもの必要ありません。どいてください。急いでるので」
「まぁそうですよね。見ず知らずの中年男がひとりのたれ死んだところで、あなたには一切関係ないですもんね」
 ドンシクがそう早口に捲し立てると、男の不機嫌な顔がさらに仏頂面になった。腕組みしている右手の人差し指をトントンと鳴らしたりして。わざとらしく大きくため息なんかもついて。
「明日の朝のニュースですかね。早ければ今日の夜かも。まぁ俺が死んだことを知って、せいぜい後悔の念に苛まれるがいいですよ。まぁ気が向いたらでいいんで、若者に見捨てられた憐れなおじさんを弔ってくれるとうれしいな」
「なんで同じ日にふたりも知らない人を弔わなきゃならないんだ。馬鹿馬鹿しい」
 乗って。そうぶっきらぼうに言う低い声は、タイプじゃないわりには耳心地がよかった。暑さで頭がイカれたせいもあるのかもしれない。助手席のドアの前でぼうっとしていたら、「エスコートまで必要ですか?」と彼は盛大な嫌味をふりまいた。
 
 
 偶然は何度までが偶然なんだろうか、と柄じゃないことを考える。偶然こんな人気のない田んぼ道を通りかかった青いシボレーに乗った青年は、偶然山の上にある葬儀場まで行くのだという。もちろんこんな辺鄙なところにある葬儀場はこの町ではひとつしかない。
「さっき知らない人って言ってたけど。知らない人の葬式に行くなんて、今時ずいぶんと義理堅い若者だね」
「あなたこそ、今時泣くためだけに知らない人の葬儀に出るなんてまったく時代錯誤だし人として軽薄です」
「俺だってそう思うよ。でもお金くれるって言うし」
 ドンシクは軽口を叩いて、そこそこ冷えたスポーツドリンクを流し込んだ。葬儀場に向かう山道で偶然発見した古びた自動販売機の、最後の一本だった。
 窓を開けると、草のにおいがした。入り込む爽やかな風に、ハンドルを握る青年がサングラス越しに目を細める。すっかり取り戻した体力と気力を持て余したドンシクは、品定めするように彼の横顔を見つめた。
「Samsungか、LGか」
「なんの話ですか」
「あなた何してる人かと思って」
「あなたのほうがよっぽど怪しいですけど」
「うそ? 怪しいの、俺」
「まともに働いている社会人とは思えません」
「うふっ! そうか、怪しいのか俺」
 ちゃんと髭も剃ったし、今日は喪服なのにな。まぁ便利屋なんて仕事は人から見ればそんなものなのかもしれない。
 
 
 ハン・ジュウォン。芳名帳に記された流れるような美しい文字は、彼の繊細そうな性格を表しているようだった。ドンシクも、その下にさも関係者であるかのように名を連ねた。
 またもや偶然にも、この葬儀の喪主はジュウォンの父の遠い親戚にあたる男だった。同時にドンシクを雇った張本人でもある。ここまで偶然が重なると、もはやドッキリかなにかかとすら思えてくる。トゥルーマン・ショー。ドンシクは、ジュウォンがかしこまった挨拶をする横で、あるはずもないカメラを探しながら一緒に頭を下げた。
「父が来られず申し訳ありません」
「いいんだよ。お忙しいものね。来てくれてありがとう」
 背中を丸めた気の良さそうな男は、もう散々泣き腫らしたであろう腫れぼったい瞼を押さえて、ジュウォンの肩を抱いた。ジュウォンは見るからに迷惑そうな顔をしながらも、その手を振り払いはしなかった。顔と行動が一致しているようでしていない、なんだか不思議な男だ。
「ええと。今日はお呼びいただいてありがとうございます」
「ああ、あなたがイ・ドンシクさん? この度はわざわざお越しいただいて……ふたりはお知り合いでしたか」
「まぁそんなものです」
 適当に返事をすると、ジュウォンがやっぱりあからさまに嫌そうな顔でドンシクを睨みつけた。怖い顔はしていても、サングラスがないとずいぶんと幼く見える。
 故人は喪主の妻だった。享年四十二歳。長い間、病に伏せていたらしい。同世代の死は、例え見ず知らずの人であろうとも、ドンシクの心に重い悲しみを残す。
 準備は必要なかった。祭壇の前に立った途端、勝手に涙がこぼれ落ちた。遺影の女性は柔らかな笑みを浮かべていた。彼女の生前のことを思う。優しい人だったのだろうか。仕事は。趣味は。好きな酒は。子供はいただろうか。夫婦仲は良かったのだろうか。病はどれほどだったのだろうか。苦しまずに死ねたのだろうか。ご主人はどうやって生きていくのだろう。これから先、ふとした時に訪れる彼女の不在と、どのように折り合いをつけ生活をしていくのだろう。ドンシクは会ったこともない彼女を、それから今日初めて会ったご主人を思ってお辞儀し、ひざまずき、そして声をあげて泣いた。集まっていた慰問客が一斉にドンシクのほうを見る。喪主の男性もつられるように声を出して泣き始めた。しん、としていた会場が異様な空気に包まれる。ドンシクはそれを肌で感じながら、もう一度遺影をじっと見上げた。一呼吸おいて立ち上がると、ジュウォンが絶句したような様子でドンシクを見つめていた。
 
 
「軽薄なんて言ってすみません」
 いったい何を言い出すのかと思えば。訪問客がいなくなった接客室でユッケジャンを啜る最中、ジュウォンがさも申し訳なさそうにそう言った。
「軽薄だし、軽率ですよ。交通費に賄いまでついてわりのいい仕事だと思ってます」
「先ほどのあなたは、その……とても演技とは思えなかった」
 ついさっき会った時の狂犬のような空気はどこへやら。妙にしおらしくなった彼は、まるで純朴な青年そのものだった。なんとも調子が狂う。
「演技です。見ず知らずの人のために泣けるほど人間できちゃいない」
「そうでしょうか。あなたの泣いた姿は、僕が今まで見た誰よりもきれいでした」
 ん? なあにそれ。
 しばし沈黙が走る。ドンシクはスプーンを持ったまま、ただぼうぜんと青年の次の言葉を待った。肝心の彼は、とくにそれを失言だとも口説き文句だとも思っていないらしく、黙々とテーブルの水垢をおしぼりで拭っている。最近の若者ってのはいったい。泣きすぎたせいか、胸が妙にざわざわする。これ以上長居すべきではないと、ドンシクはスプーンを置いて「帰りましょうか」と腰を上げた。
 葬儀場を出ると、すっかり夜になっていた。いくらかマシにはなったものの、息苦しいほどの熱気が充満している。駐車場までの短い距離を歩くだけで汗が滴り落ちた。
 急に瞼が重くなり、一気に脱力感が押し寄せてくる。日中浴びた日光のせいだろうか。ドンシクは凝り固まった肩をぐるぐると回し、腰を反らせた。
「あ〜疲れた。これからどちらまでお帰りですか?」
「ソウルまで戻ります。あなた、車は?」
「……あぁ」
 完全に忘れていた。慌ててスマートフォンの電源を入れると、同じ番号からの着信が何件も入っていた。何度か折り返してみても、留守番電話につながるだけで応答はなかった。
「まいったな。さすがにもう帰ったか。せめて駐禁切られてないことを祈る」
「本来ならダメですけど。まぁ、あのあたりは人通りも少ないですし、今回は多めに見てあげます。今日明日は役所も休みですし」
「うん?」
「あぁ。警察です。SamsungでもLGでもありません」
「ぅえ⁉︎」
 IT企業の若手CEOとばかり思っていたのに。
「警察のくせに道端で倒れそうになってる人を見捨てようとしたの⁉︎」
「見捨ててません。あなたが急に人の車に乗り込もうとするから警戒しただけです」
「いやいや絶対あのまま置いていくつもりだったでしょうよ」
「結果ちゃんと助けたでしょう」
「いったいどんな理屈だよ。なんなんだまったく。変な人だな」
「あなたに言われたくありません。ほら、乗るんですか、乗らないなら置いて行きますよ。車ないくせに」
「言われなくても乗りますよ!」
 憎まれ口を叩いて、ドンシクは助手席に乗り込んだ。不思議な縁で、この変な男と一日を過ごしてしまったが、それももう終わりだ。もう二度と会うことはないだろう。そう思うと少しだけ寂しいような気もした。所詮、人と人との出会いなどそんなものだ。
 
 
『この先、落石により通行止め』
 細い田んぼ道のド真ん中で。来るときには確かになかった看板を、ふたりは唖然として見つめた。
「このさき、らくせきにより、つうこうどめ」
「何度読んでもそう書いてありますね。信じられない」
 この看板のいうところの『この先』とは、つまり大通りに出るまでの一本道のことだ。葬儀場が辺鄙な山の頂上にあったせいで、抜け道も、まわり道もない。ドンシクは車から降りて、再びカメラ及び一般人を装ったクルーを探した。真っ暗な夜道には、人はおろか野生動物の一匹も見当たらない。運転席から出たジュウォンも怪訝な顔をしている。
「あぁ。わかった、仕掛け人はあなただ」
「何がですか。現実を見てください」
 ごもっとも。手際よく電話で交通情報を確認したジュウォンが首を横に振ったので、ドンシクも嫌々ながらこの現実を受け入れることにした。だとしてもだ。
「規制が解除されるのは明日の朝だそうです」
「明日の朝。それまでどうしようかね」
「……そうですね」
 だれもいない、夜のあぜ道にふたり。ぴりぴりと妙な緊張感が漂う。ふいにドンシクが辺りに目をやると、遠くのほうになにやらネオンらしきものを発見した。都会ならまだしも、こんな道一本しかないような秘境で、あんな不自然なビカビカした光を放つ施設なんてアレしかない。なんでこんなところに。いや、こんなところだからか、とドンシクはすぐに腑に落ちた。
「まぁ、このあたりは宿もなさそうだしねぇ」
 沈黙。ゲコゲコと蛙が合唱する。おそらくはジュウォンも、あの不夜城の存在に気がついている。なぜならあまりにも不自然にそちらを見ようとしないからだ。
「葬祭場に泊まるわけにもいかないし、なんなら思いっきり部外者だし、俺たち」
「……ええ」
 露骨に泳ぎ出したジュウォンの三白眼が、ふいにあのビカビカを捉えてはすぐにそらすという仕草を何度か確認したところで、ドンシクはついにしびれを切らした。もうこの際である。現実を見ていないのはどっちか、教えてやろうではないか。
「……行っちゃう?」
 ビカビカのほうへ親指を向けると、あまりにわかりやすくジュウォンが慌てふためいた。
「あっ、いや、でも、あの。僕、一応警察官ですし」
「警察官でもモーテルぐらい行くでしょ」
「だってあれ、どちらかというとそういう用途のやつじゃないですか」
「別に警察官だってそういうことぐらいするでしょう? 俺はもう疲れたし、車で寝るのはごめんです。別に取って食いやしないですよ。寝るだけです。ねーるーだーけ」
「いや、どちらかというと僕のほうが自制できるかどうか、その」
「ん?」
 今のはさすがに失言だよな?
 そしてまた沈黙が訪れる。ついさっきより一層重苦しい、妙な空気を漂わせて。それからドンシクは、己の人生の中で幾度か経験したことのあるこの空気のことを反芻した。ああ、ものすごく覚えがある。これはつまり。
 
 
 ベッドサイドの薄暗い明かりが、変に赤っぽくジュウォンの頬を照らす。近くで見るとけっこう好みの顔をしていたので、ドンシクはあっという間にその気になって彼の上にまたがった。軽くキスをしながら、彼の指先がたどたどしく背筋をなぞる感覚と、まさに今、彼のそれが自身のそこを押し広げようとする感覚を、ゾクゾクしながら受け入れた。
「……念のため聞きますけど。こんなおじさんのどこがよかったの?」
「僕だってわかりません。……ただ」
「ただ?」
「僕が死ぬとき、こんなふうに泣いてくれる人がいたらいいのにって思いました」
「……なにそれ重い」
 重いけど、そりゃあなんて殺し文句なんだい。
 胸の内側がくすぐったくなった。ハン・ジュウォン。芳名帳でしか知らない彼の名前。このハン・ジュウォンという男は歪な形をしている。こんなに綺麗な顔をして、あんな憎まれ口を叩くくせに、その実素直で、それなのにどこか影もある。この歪な生物と、体を交えることが、気持ちよくないわけがない。唇を重ねながら、下半身から伝わる彼の体温を感じ、彼の名前を呼ぶ想像をする。「ジュウォナ」と。そんなふうに彼を呼んでくれる人はいるのだろうか。今日会ったばかりのはずなのに、彼のそんな存在に対して嫉妬した。ドンシクは感情のままに、繋がったところを思い切り締め付けた。彼の口から吐息が漏れ、ビクビクと中で動くのがわかった。
 
 
 翌朝、ネットで道路の通行止めが解除されたことを確認し、ふたりはモーテルを出た。ドンシクは車の助手席で、気だるい体をシートに預け、地平線が見えそうなほど澄んだ真っ青な空が過ぎていくのを見ていた。昨日通った道だ。なにも変わらないのに、なぜか昨日とはどこかが違って見えた。退屈なはずの景色があっという間に流れていく。あいかわらず民家もないし、人の気配もしない。けれど横を向くと、ハン・ジュウォンがいた。
 十五年来の愛車は、元の場所でおとなしく主人の帰りを待っていた。レッカーはもうすぐ着くと連絡があった。ドンシクが車から降りると、ジュウォンが助手席の窓を開けて顔を覗かせた。
「……では、気を付けて」
「うん。いろいろありがとうございました」
 他人らしく、他人行儀に挨拶をする。これで終わりだ。もう会うことも、すれ違うこともない。ジュウォンが何か言いたそうに眉を顰めたが、そのまま口を噤んで車を走らせた。小さくなっていく青い車を見送る。急に寂しさと脱力感が襲ってきて、ドンシクはその場に座り込んだ。すると百メートルもしないうちに車が停まり、彼が慌ただしく戻ってくる。
「イ・ドンシクさん!」
 あ、俺の名前。
 突然呼ばれて舞い上がりそうになったが、ジュウォンが手に持っているゴルフクラブを見て、すぐに背筋が寒くなった。
「伏せて!」
 鬼の形相でそう言われ、ドンシクはわけもわからず地面に顔をつけた。ジュウォンはドンシクの真上で、ゴルフクラブをフルスイングした。
「えぇえええ⁉︎」
 勢いよく空気を切る音が響いた途端、ドンシクの肩が急に軽くなった。息を切らしたジュウォンが、ぐいとドンシクの手を引っ張る。それからぎゅうと潰されるんじゃないかってぐらい抱きしめた。
「やっぱりダメです。こんなところで終わりは嫌だ」
「あの……今の、なに……?」
「イ・ドンシクさん! 僕とお付き合いしてください!」
「え? 別にいいですけど。ねぇ今のって……」
 ジュウォンが体を離し、ドンシクの肩に手を置いた。沈黙。そして沈黙。さらなる沈黙のあと、彼は神妙な顔で「あなたの泣く姿に惹かれたのは僕だけじゃないってことです」と言った。
 ドンシクの額から汗が滴り落ちる。じわじわと鳴く蝉の声に混じり、レッカー車がノロノロとやってくる音が聞こえた。

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