年末の過ごし方

「さあっーーーて、大掃除の季節がやってきましたよ!」
十二月になったばかりの、とある火曜日。
診療所から遠い集落に往診に行く場合、普段は譲介の担当だ。ただ、東京出張中のK先生が不在、ともなれば、譲介も診療所に残るしかない。譲介が課題用にしている内科診療の教本を開いて勉強していると、師走の診療所に、大きな段ボール箱が届いた。
中に入っているのは、雑巾、ガラス磨き用スプレー、ワックス、トイレのブラシからモップ先の替えまで、掃除用具一式がどっさりと入っていた。その隙間に鏡餅、しめ縄といった正月用品が埋まっている。
そうか、年末の大掃除。
あれはもう先週のことだったか。
麻上さんが、診療所のいつもの備品や消耗品購入履歴の書いてある帳面を取り出し、普段の依頼用の紙を二枚印刷して、色々と書きつけている様子は横目で見ていたはずだが、寒さが厳しくなるにつれて持病が憎悪する人が増えるこの時期、ひっきりなしに急な往診依頼や外来が増えるので、妙に記憶が曖昧になっている。あの日は、そう、確か。満面に笑みを浮かべた麻上さんから「譲介君、頼りにしてるわよぉ。」と言われたのだ。その何か画策しているような笑顔は、確かに記憶にある。
「去年は譲介君受験生だったから、外の業者の人にお願いしたけど、例年、患者さんがいなくなる三十日からやってるの。外が吹雪いてたりすると、早く終わらせたり三十一日に掛かることもあるけど、いい感じに晴れたら一日掛かり。村井さんも薬品庫から手伝いには来てくれるわ。ただ、流石に歳末だけあっていつもの手術みたいに村の人たちの手伝いは期待できないから、私たちの手だけ。譲介君もそのつもりでいてね。」彼女の言い分はもっともだった。譲介は今や、診療所の「戦力」なのだ。
「分かりました。」と頷く。
「いつも掃除をお願いしているのに申し訳ないけど、年末までこき使っちゃうわよ。」と軽く言われて、譲介は、望むところです、と笑い返す。それにしても。
「ここもやっぱり大掃除は十二月なんですね。」と譲介は言うと、麻上さんは何のこと、と言わんばかりに眉を上げた。
「僕のいた施設では、冬は雪が降っているもので、春の大型連休とか、どちらかというとお盆の、夏の盛りの恒例行事だったんス。」
「へえ、そうだったの。」
そういえば譲介君、隣の県の出身だったわね、と麻上さんは言った。
「梅雨の時期に窓が濡れるのは分かってるから、とりあえず窓の桟だけを綺麗にしたり、はたきを掛けたり。電球なんかを替えるのも、常に外が明るい時期なら苦にならないですし。網戸を洗って、ついでにホースで水遊びをして。終わったら、頑張ったご褒美に皆でアイスキャンディーを食べたり、まるごとの西瓜を買って来て、分けて食べたりして。皆、それがあるからクリスマスと同じくらい楽しみにしてました。」
「へえ、ところ変われば品変わるって言うけど、子どもたちに大掃除を楽しみにさせるなんて、いい仕組みねえ。」と麻上さんは感心したように言った。
「確かに、テレビや雑誌だと、大掃除の特集っていったら十二月だけど、確かに身体を動かすのが億劫な季節なのよねえ。」と言われて、「テレビがなきゃ、僕らもずっと、それが普通だと思ってたと思います。」と譲介は答える。あさひ学園にいるものは皆、身寄りがない。お盆に帰る場所がないことへの配慮が一番にあったのだろうけれど、考えてみれば、まあ合理的ではあった。冬の大掃除か。
「寒そうですね。」降雪のピークは二月なので、この時期はまだそれほど積もるということもないけれど、それなりに気温が下がる。
「埃を被っちゃうから、白衣を脱いで汚れてもいい格好をしてくるんだけど、確かに、セーター着こんでも窓を開けちゃうから、昼でも寒いわよ。私も、着古したダウンジャケットを持ってくるし。譲介君も、好きなものを着て参加して。」と言われて、「分かりました。」と返した。
「麻上さん、三十一日は、どうするんですか?」
「勿論、ここに来るわよ。」
「……勿論?」
「あ、イシさんからいただくおせちとか、年始のお餅や年越しそばをここでK先生たちの分と一緒に受け取らないといけないのよね。まあ急患について総合病院に行っちゃって、K先生がご不在のときもあるし。気が付いたら私の役目になっちゃったの。前は富永先生と一也君がいたから免除された年もあったんだけど。」と彼女が言った。
「今年は僕がしますよ。」
「ありがと、譲介君。でも、私の分のおそばと天ぷらも頼んじゃってるのよね…あそこの天ぷら本当に美味しいから…どの道、家に戻ってもテレビ見る以外はやることもないし。」と麻上さんは言った。あれ、と譲介は去年食べた年越しそばのことを思い出す。
「去年はイシさんのかき揚げそばでしたよね?」
「いつものおそば屋さんが、なんと三十日に座骨神経痛になっちゃって。晦日の天ぷら販売がなくなっちゃったのよ。あれ聞いた時のK先生と村井さんの顔ったらなかったわね。」
思い出せば、去年も色々あったわね、という麻上さんの話を聞いて、その場にいたはずの去年の自分のことを思い出す。ここに来たばかりでまだ余裕がなかった自分のことを、一歩引いて見ているような、そんな気分になった。
こうして目の前の人との雑談に興じる余裕もなく、神社で合格祈願の絵馬を映すニュースを冷めた目で見ながら、必死でテキストにかじりついていた十九の和久井譲介はもうどこにもいない気がする。そう思えば、十八の譲介も、十七の譲介も、確かに患者には相対していたはずなのに、今となっては、思い出せるのは毎日点滴をしていた人の顔だけ。
「麻上さん、年明けにはどこかお参りに行かれるんスか?」
「三が日明けたら仕事だし、バスも祝日ダイヤで普段よりもっと本数が少ないから、二年目からは止めちゃった。元々、年越しから元旦は体調悪くてもお参りに行く人が多かったから避けてたのよ。」
「……そうなんですか。」
彼女のセリフに、譲介はなるほど、と思う。そういう考え方もあるのか。
「そういえば、譲介君に聞こうと思ってたんだけど、年越しそばどうしたい? イシさん、今年は譲介君の分だけ年越しうどんにしてカレーの作り置きしていくべって言ってくれてるけど、それでいい?」
「年越しうどん?」
「えっと、香川とかあっちの四国の方だと、そういう風習があるみたいなの。ほら、讃岐うどんが有名でしょ。」
「……なるほど。」と言って譲介は考え込んだ。しかし麻上さんをして、三十一日もここに居残ると言わしめる揚げたてのてんぷらは確かに気に掛かる。
「カレーの心遣いはいただいておきますが、年越しそばは去年と同じで大丈夫です。高校に入るまでは食べていたので。アレルギーもないですし。」
「そう? ふふ、ここの年越しそば、海老天が凄いのよ。衣がさくさくで大きくてね。それだけでもここに来て良かったなあって思うから、譲介君も楽しみにしてて。」と麻上さんは笑っている。余程美味しいらしい。
「年越しそばが美味しく食べられるように、大掃除頑張ります。」と譲介は言った。
「三十日、晴れますように~。」と柏手を打つ麻上さんを見ていると、冬の大掃除も楽しいのではないだろうか、という気がしてきた。
まあ天候次第だろうなァ、と思いながら大きく伸びをすると、譲介君いるかい、と診療所の扉が叩かれる。
はい、と大きく返事をしてテキストから顔を上げ、譲介は背筋を伸ばした。


三十一日、大晦日当日。
譲介は寒さに震えながら診療所の窓を外から磨くという苦行に晒されていた。三十日が雨模様で、ついでに救急の手術が入ったせいで、なかなか掃除がはかどらなかったのだ。
麻上さんも、腕を動かしながらも隣で凍えている。
室内の掃除は、換気扇や窓の磨き上げから明かり周りの埃取りからほとんどが終わっていて、後は通風孔の掃除や床の掃除機掛けが残るだけとなった。
「十分よ、譲介君。あと十分で切り上げましょう。」
「……そうですね。」
「これが終わったら温泉に行こうかしら、って思ったけど、今日は流石に休みよね。」
ここから入りに行ける中で一番の温泉と言えば、例の不死の湯のことだろう。確か木曜が休みだったはずだ。
「だと思います。」と頷くと「大晦日だもんね。」と言う返事が返って来る。
「譲介君は入ったことないんだっけ。」
「はい。診療を終えた後で外に出るのが億劫で。」
「まあ、そう思うのも無理ないわね、譲介君くらい若かったら。一也君もほとんど行ってなかったわ。診療の後のK先生とのシャドー練習があるからって。」
「へえ。」
村で経営している不死の湯に、譲介はまだ入ったことがない。
かつて一酸化炭素中毒の患者を出したいわくつきの温泉で、K先生は今でも時々は足を運んでいるけれど、他人と同じ風呂に浸かる、というのはもう十五の年から散々やってきたので、今更足を運ぼうとは思わないのだ。それが一番大きな理由ではあるのだけれど、正直に言えば角が立つような気がして、こうして誤魔化してしまう。
「K先生も、一番の理由は、お酒に酔ったまま浸かってる人がいないか見に行く抜き打ち検査が目当てみたいだし。皆もっと上手に息抜きしたらいいと思うんだけど、ここって娯楽が少ないわよね。」
「僕にはこのくらいが丁度いいですけど。」
「譲介君て、ホントに真面目ねえ。ストイックというか。」
「……毎食、食べ歩きをしなくても食卓にイシさんのカレーが出て来るので、僕はそれで十分です。」
「そっか。」
「麻上君、譲介、そろそろ中に入るといい。それ以上していると風邪を引くぞ。一度休憩しよう。今、村井さんが茶を入れてくれている。」
室内でエアコンの通風孔の埃を掃除機で吸い取っていた先生が、ドアから顔を出した。
「あっ、K先生。……そうね、もうちょっと綺麗にしたいけどこのくらいで切り上げます。ね、譲介君。」
「はい。」
中に入ると、イシさんの準備してくれていた番茶のポットから村井さんがお茶を注いでいるところだった。
「お疲れだったね。麻上君と譲介君が先に飲みなさい。」と言われて、食卓に就いた。年長者を差し置いて、と思うところだが、今日は流石に遠慮が出来なかった。
「生き返るわね~。」
「……美味いス。」
ずず、とふたりでほうじ茶を啜る。村井さんと先生も一服している。
「もう明日で来年ですね。」
「年が明けても、まあ今年と同じようにやるべきことをやるだけですが。」と言って、村井さんが先生の方を見る。先生が頷く。
「譲介、今年の分だ。」と先生が机の中から薄い封筒を出した。
「え、なんスかこれ?」
「貰っておきなさい譲介君。」と村井さんが言うのにピンと来た。
「来月からは毎月晦日に支払いする。」と先生が言うので、「貰う理由がありません!」と椅子から立ち上がる。
いや、理由は先生たちの方にはあるのだろうけれど、まだまだ修行の身で金を貰おうと思ったことはなかった。
けれど、先生と村井さんの視線は僕を見て、貰っておけ、と言っている。余りにも圧が強い。
「今日の分はお年玉で、来月からはアルバイト代と思えばいいのよ。それで成人式用のスーツ買いなさい、譲介君。成人式以外でも着られそうなやつ。……それから、なるべく時給換算はしないことね。」と言って麻上さんはこちらにウインクした。村井さんは「今年はお疲れ様。」と僕の肩を叩いた。
「さて、譲介君の初給与式も終わったことだし、ぱあっとおそば茹でますか~!」と麻上さんも立ち上がった。

手の中にある薄い封筒を見つめる。

来年の自分はどう変わっているのだろう。

そんなことをぼんやり考えていると、「譲介君、封筒ちゃっちゃと自分の部屋に置いてきてこっちを手伝って。」と声が掛かる。
譲介は「はい!」と返事をして、暖かい部屋で腕まくりをした。

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