望むままくれてやる

 午後三時、星奏館の共有スペース。HiMERUはぶら下げていた小さな四角い箱を慎重にテーブルの上に置き、ほうと息をついた。

 朝一からの雑誌の撮影を終え帰り支度を整えていた時、スタイリストから声を掛けられた。「HiMERUくん、ケーキ持って帰らない?」と。
 彼女が口にしたのは、所属するサークルでも度々話題にのぼる有名パティスリーの名前。宝石のように煌びやかなスイーツはまさに芸術品で、どうしても一度お目にかかりたいと思っていたのだ。HiMERUは浮き足立つ心を外向けの柔和な笑みの下に隠してそのうちのひとつを選び取り、そっと抱えて帰ったのだった。

 運ぶ間に崩れていやしないかとびくびくしながら箱の中を覗いてみる。瑞々しい無花果と繊細な細工の施されたショコラがトップを飾り、金箔がささやかかつ上品に彩りを添えるチョコレートタルトがお目見えする。思わずうっとりとため息が零れた。はあ、朝から仕事頑張ってよかった。
 うがいをして手を洗って、……せっかくだしコーヒーを淹れようか。浮かれ気分を抑えきれない唇が僅かに弛む。お湯を沸かして、それから、キッチンに豆を取りに行かなければ。HiMERUは先程まで大事に抱えていたケーキを、つい無防備にテーブルに置いたまま、その場を離れた。



「あっ、おかえりなさい☆」
「遅いよ〜。あんまり俺たちを待たせちゃだめだめ!」
 マグカップを手にいそいそと共有スペースへ戻ったHiMERUを迎えたのは『2wink』のふたりだった。派手なメイクに衣装、三角の耳のついた帽子を身に着けたキュートな黒猫たち。両手にお菓子の詰まったバスケットを抱えた双子は、こちらを見るなり満面の笑みで手を振った。ひなたの掌に収まる家庭用のビデオカメラを認めたHiMERUは思いっきり顔を顰めた。明らかに何かある。
「──ひなた。何の真似です?」
「はいHiMERUさん早速NG〜! カメラの前だよ〜? アイドルなら笑って笑って!」
「……。わかりました、何かの企画なのですね。ならば致し方ないのです」
 おおかた副所長の差し金だろう。にこり、一瞬で仕事用の笑顔にすげ替えたHiMERUに双子が拳を握って歓声を上げる。
「さすがHiMERUさん、アイドルの鑑ですね。大神先輩ならこうはいかないですよ」
「企画だろうが何だろうがブチギレちゃうもんね〜あのひと。オッケーそれじゃあいくよゆうたくん!」
「うん。せ〜の、」
「「Trick or treat☆ お菓子をくれなきゃいたずらしちゃうぞ!」」
「──、……!」
 ここでHiMERUはあることに気が付いた。テーブルの上に置いておいたチョコレートタルトが、人質に取られている。にやにやと笑うゆうたが後ろ手にケーキの箱を持っている。スマートフォンの画面を見る。今日は十月三十一日、ハロウィンである。謀られた。
「──HiMERUに、そのケーキを差し出せと……?」
「そういうこと! 迷ってる暇はないよ〜、〝いたずら〟されてもいいの?」
「……いたずらですか……」
「さあさあ、早くどっちか選んでください♪」
 カメラは回り続けている。ずっと食べたかったケーキ、いたずらをされる自分、そして撮れ高。大学を飛び級卒業したインテリの脳味噌は、ちゃかちゃかと動いて最適解を弾き出した。
「──どうぞ。いたずら、受けて立ちます。その代わり……ゆうた、ケーキを返すのです。今すぐに」
 二匹の黒猫は瓜ふたつの顔を見合わせてにんまりと笑みを深めた。



「ンで、菓子のために〝いたずら〟を選んだワケだ? プライドはねェのかよHiMERUさんよォ〜?」
「きゃ〜かわいいっ! セクシィ〜♡」
 ゆうたに連れられ、あれよあれよと着替えとメイクをさせられて共有スペースへ戻れば、今度は天城とひなたのガキ大将コンビがぷすぷす笑いながら待ち構えていた。
「うるさい天城、殺すぞ」
「いやカメラ回ってるっしょ。口の利き方に気ィつけろや」
「そう言う燐音先輩は〜?」
「俺っちは可愛いヒナの言うこと聞いて、お医者さんのコスプレした」
「や〜ん可愛いだなんてHiMERUさんの前で困りますぅ〜♡」
「コスプレじゃなくて仮装ですけどね。で、HiMERUさんにはゾンビナースになってもらいました! なんでも着こなしますね、さっすが一流アイドルです♪」
「……」
「メルメル顔〜」
 おだてられたところで解せないものは解せない。撮れ高のためと、それから少しだけ、すこーしだけスイーツのために身体を張るところまでは良い。けれど何故女装? HiMERUが女装? 天城は男の衣装なのに?
「納得いかないのです……」
「ん? 似合ってンよミニスカナース」
「割に合わないのですよ」
「俺っちは役得♡」
 首から聴診器を提げてリムレスの丸眼鏡をかけた天城が、血糊がべったりとわざとらしく塗られた白衣を翻して──ハロウィンというかただの胡散臭いヤブ医者ではないか──こちらへ歩み寄る。よくよく見ると腰に回された腕にはご丁寧に継ぎ接ぎのボディペイントが施されていて、芸が細かい……じゃなくて。
「あんたの仕業か!」
「おっ、当たり。バレちまったか」
 事務所の企画などではない。HiMERUが寮に戻るタイミングで双子を差し向けることが出来るのは、ユニットメンバーの動向を子細に把握しているこの男くらいのものだ。よく考えればわかることなのに。
「ご褒美に目が眩んで判断力が鈍ったかァ?」
「くっ……」
 その通りなのでぐうの音も出ない。HiMERUとしたことが。
「じゃっ燐音先輩、お菓子ありがと! カメラは返すね〜」
「おう、サンキューおめェら♪」
 ぱたぱたと去っていく使い魔たちににこやかに手を振るヤブ医者。この野郎後輩を買収しやがったな。
「回りくどいことを……。HiMERUが困るところを見て嘲笑いたかったのなら」
「違ェって。だって俺っちがストレートに頼んでも絶対着てくれねェもんおまえ」
「……へ?」
「だからァ〜ナースさん見たくて。あいつらの頼みなら無下にはしねェっしょ?」
 おめェが歳下のオネダリに弱いの知ってンだよこっちは。
 そんなことを少し拗ねた様子で、でも好奇心に瞳をキラキラさせて言うものだから。HiMERUはぽかんと口を開けて固まってしまった。
「──はあ。呆れた」
下らない私利私欲のために後輩を巻き込むだなんて──妙なところで慎重なこの男らしいと言えばらしいのだが。それはそれとして、仲間達と大手を振って季節イベントにはしゃぐなんてことは、きっと生きてきて初めてなのだ。この大人のふりをするのがやたら上手な子供は。
 HiMERUはひとつ咳払いをしてから天城のネクタイに手をかけた。たまには良いだろう、こういうのも。ぐいと引っ張ると突然のことに男の身体が傾く。共有スペースに誰もいないのを良いことに、その耳元に唇を寄せ、囁きを落とす。
「HiMERUにも甘ぁいお菓子をくれるのなら……、もてなしてあげても良いのですよ?」
 ──それとも、いたずらをされたいですか?
 わざと掠れさせた声を吹き込めば天城は「どっちも」と食い気味の返答を寄越した。その強欲さは嫌いではない。
「ならば全部ものにして見せなさい、ドクター?」
 挑発めいた視線はぎらりと皮膚を焼くような眼光に見返される。ケーキは……後程天城に買いに行かせれば良いか。
 お祭り騒ぎの空気に呑まれて、HiMERUもとっくに合理的な判断が出来なくなっているのだった。



 かつては『Crazy:B』の仮宿として誂えられていた旧館の一室、二段ベッドの下段に座ったHiMERUの足元の床に腰を下ろした天城は、ビデオカメラを片手に満足げに破顔した。
「いやァ〜あいつらわかってンな。センス良いわ。任せて安心の『2wink』です〜ってねェ」
「彼らのチョイスなのですか。あなた達が結託すると碌なことがありませんね」
「ンなことねェっしょ」
 すすすと大きな手が脚を這う。シアーなストッキング(こちらも継ぎ接ぎ柄である)に覆われたつま先を掬い、キスを落としてからふくらはぎを辿り、膝、太腿。薄い繊維越しに触れられる感覚にどうにも慣れないHiMERUは小さく身じろいだ。
「こ〜ら、足閉じねェの」
「だ、って擽ったい……」
「擽ったくしてンだもーん」
 閉じた太腿の間に滑り込んだ手がそこをこじ開けにかかる。ただでさえ短い丈のタイトワンピースは、座るとギリギリ下着が見えない程度の位置にまでずり上がってしまう。かなり心許ない。
「ハイご開帳〜っと。なんだパンツは男物か」
「最低ですね」
 馬鹿か。そんな下世話なことまであの後輩達にやらせるつもりか。
「〝最高〟の間違いっしょ?」
「っとに碌でもないなあんた……」
「おっと、やっぱやめだなんて言わねェよな? 誘ったのはそっちだぜ美人看護師さん」
「……わかってますよ。HiMERUは一度言ったことを覆すような真似はしないのです」
「お利口〜」
 じゃあ、と天城が日常会話の延長かのように言う。
「脱いで♡」
「は?」
「ハイハイ、HiMERUクンのストリップショーまでさん、にい、いち、」
「ちょ、ちょっと待」
「CUE」
 掌を上に向けてドウゾと促す天城。何がドウゾなのか。もう一方の手で構えたビデオカメラの、レンズの横にある赤いランプがちかっと点灯する。撮られていることを意識してHiMERUはきゅっとスカートを握った。
 ──何故だろう、カメラのレンズにじっと見つめられると、こんな時ですら身体が勝手に動いてしまう。自分は思うよりもずっと、骨の髄までアイドルなのかもしれない(あくまで一時的な『HiMERU』の代わりでしかないのに、おかしな話だ)。
「くっそ……二度とやりませんからね」
「二度とない一回を俺っちにくれるなんて光栄で泣いちまいそう〜」
「言ってろ」
 とん、つま先で天城の胸を軽く押すと、大した抵抗もなく傾いた上体が床に倒れていった。膝立ちになってその身体を跨ぐように乗り上げる。脚を開いているせいでやっぱりずり上がってしまうワンピースの裾をつまんで、わざと焦れったいくらいの動作でたくし上げる。ガーターベルトの着け方なんて今日初めて知った。ちなみに色は真っ白なナース服によく映える赤だ。
 スカートの下から覗くグレーのボクサーパンツを見て萎えるならそれで良いと思った。こんな馬鹿げたことはさっさと終わりにしようと。しかしHiMERUの希望的観測は成らず、この何とも間抜けながら倒錯的な景色に、天城はますますのめり込んでいるらしかった。
(どうかしてる……俺も、こいつも)
 ワンピースが落ちてこないよう口に咥えたら、ストッキングを留めている金具をぱちん、ぱちんと小気味よい音をさせながら外していく。次いで力の入れ方を誤ればうっかり破いてしまいそうな薄い生地を掴んだ。「おっ♪」とオッサンみたいな歓声が上がったが無視を決めこみ、途中脱ぎづらかったためベッドの縁に座り直して、わざとゆっくりと片脚ずつ引き抜く。全て脱ぎ去ると生白い脚があらわになった。
「美脚の看護師さん、次は?」
「ん……」
 するり。半身を起こした天城の、行儀の悪い手が太腿を撫で上げた。その先を覚え込まされた身体が期待に震え、兆し始めた先端から溢れ出た先走りがボクサーに滲む。グレーの生地は染みが目立っていけない。こんな格好でカメラを向けられて興奮しているなどと、早々に認めるのは癪だ。あらぬところに注がれている天城の視線から逃げるように、HiMERUは両脚を小さく畳んだ。
 いっそ脱いでしまった方が恥ずかしくないかもしれない。思い切って下着に手を掛けてするすると下ろしていく。目線は煽るように、レンズの更に向こうにいる男に刺したまま。左脚を抜く。次に右脚──を抜く前に、ちょっとした〝いたずら〟を思い付いた。
「──ほら、天城」
 脱いだボクサーを足首にぶら下げたまま、右脚を高く持ち上げる。カメラを手にした天城の頭上まで。ちょいとつま先を振れば軽い布はぱさりと落ちる。顔面でHiMERUの下着を受け止めた男は「ぶっ⁉」と小さく呻いた。どうだ、少しは驚いたか。
「……てめェ〜メルメル……スゥ〜〜〜〜」
「吸うな」
「ジョーダン」
「タチが悪い……」
 ケラケラと笑って眼鏡に引っ掛かっていたそれをひょいとつまみ、天城はどこかへ放った。ついでに録画をしていたはずのビデオカメラも。
「そっちから言い出しておいて。もう飽きたのですか」
「い〜や飽きやしねェしずっと見てたいくらいだけどさ……カメラ越しじゃないあんたも見たくなったっつーか」
「ちゃんと触りたくなった?」
「触りて〜……し、キスしてェ」
 いたずらを仕掛けた結果、どうやら更に興奮させただけらしい。了承を得る前に距離を詰めてきた彼に、性急に唇を奪われる。その拍子に頭の上のナースキャップがずれて落ちた。
 丸いガラス越しの碧色が近付いて、かしゃん、金属のテンプルが擦れる軽い音がした。「これ距離感掴みづれェな、眼鏡」なんて不平を言いながらも角度を変えて繰り返し口付ける。
「んん、ふ……、あれもこれもって、欲しがりすぎなのですよ」
「きゃは、強欲なモンで♡」
 軽薄に笑った男は唇をぺろりとひと舐めしてから、懲りずにまた顔を寄せてくる。無遠慮に舌を突っ込んだかと思えばHiMERUの口内を好き勝手に荒らし始めた。嚥下し損ねた唾液が口の端から零れるのを、服が汚れる、と拭いかけて、コスプレなら汚しても構わないかと思い直しそのままにした。
 ちゅっちゅっと舌先を何度も吸われる感覚に翻弄されている間に、天城の指がスタンドカラーのワンピースの襟に掛かった。キスをしながらひとつひとつボタンを外していく恋人を、器用なものだなといやに冷静な脳味噌で分析する。
「欲深い男は嫌いかよ?」
 唇の触れそうな距離でこちらを見つめてくる瞳は深い色をしており、真意は読み取れない。
「──いいえ」
 HiMERUは目を逸らさずに続けた。
「我々のリーダーならば、その程度の欲深さと野心はあって然るべきです。アイドルとして、頂上の景色を見もせずに終わる気はないのでしょう?」
 まあ、俺ひとりでだって掴み取って見せますけどね。アイドルとしての名声だけじゃない、欲しいものは全て。
 言えば天城は鼻を鳴らして「可愛くねー」と吐き捨てた。
「どっちが強欲だよ、なァおい」
「おや、嫌でしたか?」
「ん〜ん、俺好みでサイコー」
 不意打ちのように脇腹をなぞる大きな手。汗ばんで熱いそれは、言葉以上に明瞭に「HiMERUが欲しい」と訴える。
「俺っちが強欲でいられンのは」
「んぅ、……?」
「おまえが与えてくれるから。俺っちが望む時に側にいて、望むものをくれるから」
「……」
「だから俺っちも、おまえの望むことをしてやりてェの」
「……はは」
 思わず笑ってしまった。そんな風に切羽詰まって、欲しくて欲しくて堪らないみたいな顔をしながら何を言うのか。
 天城の中心が熱を持って苦しそうにしていることをHiMERUはとっくに知っていたし、それでもHiMERUが「よし」と言うまで律儀に「待て」をし続けることもわかっている。こう見えて真面目な男だ。
「そこまで言うのなら……欲しがってあげましょう」
 もうHiMERUからの〝おもてなし〟は存分に与えたはず。次はこっちがお菓子をもらう番だ。
 ベッドに寝転んだHiMERUは瞳を蠱惑的に細め、両手を広げて男を誘った。
「さあ、たっぷり甘やかしてくださいね──天城?」
 欲しいものは自分の手で掴み取る。それはこの男に関しても例外ではなくて。
 天城燐音という男の心も身体も手に入れなければ気が済まないのだ、HiMERUだってひとりの男であり、人一倍欲深いから。
 ねえ、もう俺を手放せないでしょう、たくさん甘い蜜を吸わせてあげましたもんね? この蜜の味を覚えてしまったのなら、お気の毒さま。これからも離れられやしませんよ。
 覆いかぶさってきた天城の広い背中に手を回しながら、HiMERUはうっとりと微笑む。
 強欲なあんたの望み通り何だってくれてやる、気の済むまでくれてやるから。だから頂に立つ時には、今みたいに隣にいて。そんな祈りのようなものを抱いてしまうくらいには、もう天城のいないステージは考えられないのだ。
 捕らわれてしまっているのは、さてどちらなのか。少なくとも今、HiMERUにとってそんなことはどうだってよかった。





(2020年ハロウィンネタサルベージ)

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