カウントダウン


ロスアンゼルスの冬は暖かい。
夜ともなればそれなりの寒さが忍び寄って来るとはいえ、ヨセミテの辺りまで行かない限りは凍えるような寒さに遭遇することもない。
十二月の夜だというのに十度を下回ることもないので、早朝にも夜更けにも、呼気が白くけぶるほどの寒さは感じられず、村にいた頃のスキーウェアのようなヤッケや防寒具はほとんど不要だった。あの頃のように、外から帰って来るとほとんどしもやけになりかけている足先を気にすることもなければ、深夜に寒さに目覚め、風呂に入り損ねていたことを思い出して、外気温とほとんど変わらない廊下を震えながらシャワーを浴びに行く必要もない。
ただ、こんな風にして冬の過ごしやすい気温を享受できる代わりに、日本の寒い冬以上に不便だと思うことが全くないではない、と僕は思う。
指先を暖めるコーヒーカップの有難さは変わらないけれど、今日みたいな夜は、コンビニの保温機に並んでいたカレーまんや、カレー以外のものが食べられるようになってから囲んだ冬の食卓――年越しそばのことを思い出す。村からの定期便はいつもまちまちで、クリスマスに遅れないようにとイシさんが送ってくれたいつものカレーは、ボクシングデイにはすっかり食べ終えてしまっていた。
酸っぱいブドウの例を持ち出すまでもなく、食べられないと思うほど食べたくなるというのは人間の性だ。村にいた頃は、台所に行けばイシさんが作ってくれた食事が冷蔵庫の中にあって、冷凍庫に入れてある塩むすびを解凍して、いつでも好きな時間にカレーを食べることも出来たが、ここでは、そういう訳には行かない。
財団の本拠地であるロスにいて、クエイド大学の学生であることに対して、普段から多少の余禄はあるとは言え、僕の外見がいわゆるカラードであることを考えれば、夜が更けたこの時間は特に、思い立ってコンビニや深夜営業の雑貨店に買い出しに行くことは難しかった。今から財団本部の地下駐車場に行って車をピックアップ出来ないこともないけど、朝倉先生に譲ってもらった真っ赤なカマロも万能じゃない。
机の中を探り、引き出しの中から、暫く前に買い足しておいたジンジャークッキーの買い置きを引っ張り出す。小さな引き出しを埋め尽くすほどだったクッキーは、ほとんど半分になってしまっている。
クリスマスの時期が終わりに近づくにつれて、ショッピングモールではこうした商品のセールが始まる。朝倉先生がカレーの定期便の通い箱を戻す時に、何かしら送ってみたらどうかというので、セールになっていたブランケットを、診療所に常駐するみんなの分を購入して、人数分入れて贈った。村井さんと先生にはグレイに近い落ち着いた色を、イシさんと麻上さんには明るい暖色を。そうして、ひざ掛けに出来るような大きさのものを選んだ。麻上さんはともかく、普段忙しく立ち働くことの多い他の皆は、使ってくれるタイミングがあるかどうかというところだけれど、こういうのは気持ちだ。そう割り切って、いつもは一筆箋の礼状で済ませるところを、個別のカードを添えて送って貰った。
長くあそこで過ごしたせいか、手紙を書くことに対して、照れやてらいがなくなったのは良かったと思う。腹が減ったら食え、というイシさんの短い一筆箋や、横罫線の引かれたレポート用紙の上に縦書きにされた、留守を頼むという先生の字は今でも忘れられない。それから、
……今夜は、ほんとうに里心がついてるらしい。
空腹に思考を中断させた僕は、手にしてから丸々一分は経過したクッキーの、クリスマスらしいパッケージを開け、湯気の立つコーヒーと一緒に腹に納めた。
狭い部屋の中に置けるコーヒーメーカーは、これも朝倉家からいただいたお下がりで、使い始めてから二年目になるが、容量が大きくお役立ちだ。それでも、一日寮の部屋にこもりきりでいると、この時間にはすっかり空になってしまう。
後は、明日の朝までの飲み物をどうするかと言うところだった。新しくコーヒーを淹れるにせよ、ウォーターサーバの水で朝まで辛抱するにせよ、いつものマグカップはそろそろ洗いに行く頃合いだった。
人の声のさざめきに混じって、パン、パン、という音が聞こえて来る。
新年のカウントダウンの花火が始まったのだ。
学生生活を謳歌するにはフラタニティに入るといい、と朝倉先生には言われたけれど、周囲からの勧誘を断り続けてもう二年になる。そもそも、朝倉先生その人こそ、僕がヨセミテの熊Tシャツを景品に貰うようなお楽しみ抽選会のある会に参加できるような暇を作れなくしている張本人なのだった。
明日までにブラックタイを準備しておいてくれるかい、あるいは、パスポートを出せるところに入れておいてくれるかな、と言う先生からのメッセージがいつ飛び込んで来るとも分からない、そう思えば、ぎりぎりでレポートを提出するという贅沢すら、ほとんどコネ入学のような留学生には許されていないのだった。僕が友人と知人のあいのこのような顔見知りを増やしている間に、同じ寮の留学生たちは、すっかりいくつかのグループに分かれてしまった。
小さなコミュニティだ。大抵は、同じ国から来たとか、趣味が似ているとか、あるいは同じ寮に暮らしているとか、そうした割り振りでグループが「決まる」。
見る人が見れば心臓に近い場所にあると分かるこの身体の手術跡を見せびらかしたい訳でもないので、シャワーを浴びた後の半裸を好まずにローブを着て寮の廊下を闊歩しているうちに顔が売れたのか、寮の中でも同じようにフラタニティには属さずにいる学生たちから誘われるようになった。
国籍はまちまちで、時折これがアメリカ風の付き合いだと言って、近くにマンションを借りて寮を出て行った一人の部屋で定期的に開催される、お決まりの(かどうかは分からないが)ヒーロー映画鑑賞会や、振舞い料理の会にお呼ばれする。集いの回数が多くないのと、時間がない時は、隣の部屋に住む同期に融通してもらった辛ラーメンのカップを持って行くだけでもお構いなしにしてくれるところが有難かったが、こういう日には、どこにも属していない、医師の卵として、まるきりの学生にもなりきれない不安定な立場の自分を持て余す。
まあ、いつもと同じで集中が解けてしまったタイミングが、休憩のタイミングだ。
カップの底に残っていたコーヒーを飲み干し、腰かけていた椅子から漸くのことで立ち上がった。
ゆっくりと伸びをして、窓辺に立って外を見る。
本棚の真横にあるのでほとんど掃除もしない窓辺の枠には埃が溜まっていた。掃除をする日を決めてもほとんど守れなかったこの一年に思いを馳せつつ眉を顰め、外の夕闇に目を向けると、明るい花火の光が見えた。
誰が持ち込んだのか、今夜は爆竹の音まで聞こえて来る。
何かを成し遂げたような気持ちもないと言うのに、皆で食卓を囲む年越しそばも、大掃除もない年末を駆け抜けてしまい、イシさんが作ってくれるひよこ豆カレーのない一月がやって来るらしい。
一日一日はひどく長く感じられるのに、一年という時間は、あっという間に過ぎてしまうのが不思議だった。
花火の音を漫然と聞いていると、ふと、人生が逆回転ならいいのに、と思う。
ホームシックになった初めの年には、朝倉先生とバラ色のシャンパンを飲んだ。村を離れる前に食べたエスニックな豆カレーに、健康のおまじないだからと言って少しづつ食べさせられた田作りや黒豆がひどく懐かしかった。あの頃の賑やかさは、今思えば幻のようだ。
そういえば、もっと昔の学生だった頃には、あの人が焼いた餅を食べているさし向かいで、僕はレトルトのカレーを咀嚼していた。思い出の巻き戻しは、コマ送りが行き過ぎてしまったようで、思い出したいかどうかは分からない思い出までもが記憶に戻って来る。
高校生の頃の思い出といえば、村にいる間に努めて忘れようとした努力が今になって結実したのか、保護者だった人と過ごしていた時間よりも、一也と顔を突き合わせていがみ合っていた日々の方が強く記憶に残っている。とはいえ、普段は不在がちだった彼がいた、出会って二年目の冬の正月のことは、忘れられはしない。
あの日は、彼と僕のどちらが電源を入れたのか、テレビではずっと駅伝が流れていた。
大方のことに面白みを見出す癖があるあの人が、いつになくつまらさなさそうな顔をして箱根の山を下る選手を眺めていた。僕がチャンネル変えましょうか、と言うと、そのまま映しとけ、と言って、どこから買って来たのか、テーブルに置けるカセットコンロで焼いた餅を醤油に浸して、海苔を巻いたものを咀嚼していた。あとは、コンビニで買って来た緑茶とほうじ茶のティーバックがいくつかあって、彼は億劫そうな顔をして、僕に飲むか、と聞いて来た。僕はあの人が急須で入れたお茶を飲んで、蜜柑を買ってくりゃ良かった、と珍しくぼやく声を聞いていた。
彼が正月のために準備したものと言えばそのくらいで、暮らしていたマンションの玄関には確かに注連縄や鏡餅があったが、それは通いの業者が置いて行ったものらしく、どの部屋にあっても、休みが終わって学校が始まる頃にはなくなっていた。
あの人はいつも、買って来たティーバックがなくなると、餅はコーヒーで流し込んでいた。ああいう時には無表情になるから分からなかったけど、普段は準備のない緑茶やほうじ茶を、わざわざ買って来てまで飲んでいたのだ、今思えば、やせ我慢だった可能性もあった。
一緒にいた、ほんの一年とちょっとで彼に甘やかされ慣れてしまったあの頃の僕は大したものぐさになっていて、何度かそういう機会はあったと言うのに、なくなったティーバックを買い足しに買い物に行きましょう、という一言を、ついぞ言わずにいた。
彼に仕事がなく僕の学校が休みになる時期は、寝るから外でメシでも食って来いと言って金を持たされて部屋から追い出されることも多かったので、拗ねるような気持ちもあったのだろう。
あの日、二年参りは行きそびれたがその辺りの神社に行きたいなら車を出してやる、と訊かれもしたが、確かあの誘いも、一度断って以来、彼は二度と口に出すことはなかった。
次の年からは、食事を終えれば早々に部屋に籠って勉強をすることになったので、彼が入れてくれたお茶を飲むことも、それきりなかったはずだ。
もしまた一緒に暮らすことになれば、とそこまで考えて、僕は笑ってしまった。
今ここにあの人がいてくれたところで、二十代になったばかりの頃よりもずっと余裕がない学生ひとり、あの人のために何かが出来るとも思えなかった。
それにきっと、おめぇの新しい暮らしに、役立たずの年寄りが必要か、とあの人は聞くだろう。
ただの他人ではなく、大事な恩人で、あの頃の僕のことをちゃんと子ども扱いしていた特別な人だ、とは思うが、当のあの人を前にして、そんな風に正論を持ち出して対話が出来る自分でいられるかは疑問だった。


明るい部屋の中にいても、闇夜に光る花火が眩しく見える。
窓の外では、一人でも、誰かが隣にいても、皆同じように顔を上げて、空を彩る花火を眺めていた。僕は、この視界の先に映る、酔っぱらって酒の缶を片手に肩を組んでいる友人同士や手を繋いだカップルを、多少は羨ましく思っているのかもしれなかった。
何より、こうして昔のことを思い出すということが、人恋しくなっている証拠だった。
単純な結論で、しかも、あまりに明白。孤独と気鬱に効く特効薬は、基本的には身体を動かすことだ。あるいは、身体を無理に動かさないこと。
今夜はきっと、前者の方だろう。
パソコンと医学書からほんのちょっと顔を上げて、人の輪の中に入れば、それで気が済むはずだ。それに、爆竹を鳴らした学生がいるということは、音を聴きつけた警備員がやって来て、散り散りにされる可能性も高い。行くなら今だ。
人がいるところを外れて大通りまで流すことはせず、Uターンして部屋に戻ればいい、と心に決めて、クリスマスの買い出しのついでに新調したダウンジャケットを羽織って、スマートフォンと小銭入りの財布を持って外に出た。
驚いたことに、寮の暖かい部屋から見下ろしていた喧騒に近づくほどに、夜の冷気が肌を刺した。ここの暖かさに慣れてしまったせいだ。慌ててジャケットの前のチャックを上げる。
去年も、こんな風だったんだろうか。
辺りを見渡すと、そわそわと時計やスマートフォンを気にしている様子の人が多い。
カウントダウンが始まるのだ。
「TEN、NINE………。」
どこかにいる主催者がマイクを持って最初の音頭を取ると、人々が数を唱和する。このまま歩けば、いつか食べ物のある場所に行き着くだろうという目算で人を避けて歩いているうちに、誰かと肩がぶつかった。
色濃い髪を長く伸ばした女の子と目が合った。初めて見た相手だ。
青か緑かもわからない、色素の薄い目。こちらの視線を感じたのか、相手も僕から目を離さない。
「THREE、TWO、……。」
これは、と僕は思う。
カウントダウンがゼロになった瞬間、周りにいる人間ならだれでもキスをしていい。
去年は部屋で寝ていたからすっかり忘れていた。
「HAPPY NEW YEAR!」と首根っこを掴まれて、しまった、と思う。

(………モテるじゃねえか、ええ、譲介?)


「………っ、ねえ、ちょっと!」
非難の声に我に返る。
うっかり、口より足が先に出てしまった。
「ごめん!」
こちらではほとんど使っていないSORRYを口にしながら、僕は走った。
いや、正しくは逃げたのだ。
彼の気配が近くに感じられるような、年越しの夜の猥雑な空気から。
グラスが転がっているテーブルとパンチが入った大きな入れ物の乗ったテーブルの間を、目もくれずに走った。
ポットローストを食べつけてしまって、思いもよらず贅肉が付いてしまった身体は酷く重く感じられて、漸く人のいない外れた場所に出て、息を吐いた。
膝に手を置いて、乱れた息を整える。
走ることを忘れた膝が笑っていた。
「何で今出てくるんだ、あの人……。」
額に滲む汗を拭いながら顔を上げると、少し離れた場所で、新年おめでとう、と笑顔で言い交わす人たちの姿が見えた。
二時間前に、気晴らしにカウントダウンに行かないかと誘ってくれた同級生の姿も見える。
皆幸せそうだ。
そう思った。
僕には、このくらいの距離があるほうが、丁度いい。
そうも思った。
机の引き出しの、山と積まれたジンジャークッキーの下には、あの人に宛てて書いたクリスマスカードが置いてある。あさひ学園に宛てて送れば見ることもあるかもしれないとは思ったけれど、結局、出さず仕舞いになってしまった。最後のクッキーの袋を開けてしまったら、時季外れになったシーズングリーティングを折り畳んでその中に入れて、次のゴミの日に捨ててしまおう。


息が整うのを待って、食べものが置いてあったらしい場所にやっとの思いでたどり着くと、ほとんど、パンチすらなくなっていた。
「まさか今頃食べられるものを探しに来たのか、ジョー?」とその場にいてグラスを隅に寄せていた同級生に呆れた顔で訊かれて「そうだよ。」と笑いながら答える。名前は、そう、確かアダムだ。
「何かある?」
「ちょっと遅かったな。」
アダムは、芝生の上のテーブルを手で指し示す。
兵どもが夢の跡と言うにはまだ早いといった荒れようで、蹂躙されたテーブルの上は、一時間経っても片付きそうにない。
「パンチに入ってた果物はどう?」
「忠告するけど、止めておいた方がいい。」と言われて、苦笑した。
「多分そうだろうなと思った。部屋にいてレポートを書いてたんだけど、腹が減っちゃってさ。」
「分かるよ。」と頷く相手に、「新年おめでとう。」と言った。
「君もな。新年おめでとう、ジョー。飲めなかったパンチの分、今年の君にいいことがあるように願うよ。」
「今年じゃなくてもいいよ。試験の年に今年の分も一緒に祈っててくれたら。」
そりゃそうだ、と笑う相手と別れて、自分の部屋へと戻る。
ダウンジャケットを着たまま、ベッドの上に飛び込んで、目を瞑る。僕は瞼の裏に、さっき見たばかりの花火の色を映しながら、忙しい日々の中で忘れかけている、かつて保護者だった人の声を思い出そうとする。

――譲介、おめぇ、二年参りに行きてぇか。

家にいます、というあの日と同じ言葉を、今なら否定の意味ではなく答えられるだろう。
僕は、あなたと一緒に、家にいます。

カウントダウンの花火は終わったばかりで、寮の廊下には、まだ人の気配がする。
扉の外の気配が夜本来の静けさを取り戻して行くのを感じながら、僕はゆっくりと眠りに落ちて行った。







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