猫は意外とよく見てる


 ふと南泉が目覚めると、五歩だか六歩だか先で山鳥毛と姫鶴が縁側に座るところだった。足音で起こされたのかもしれない。心の中で、げっと猫が毛玉を吐き出すような声を出す。彼らはこちらに背を向けているので表情は分からないが、春の午睡を貪っていた様を見られたのは確実だろう。いやだってぽかぽか暖かいし午前中は畑当番に精を出したし、昼餉を食って腹がくちくなったら日差しの差し込む空き部屋でうとうとするのも致し方ない。井草の香りがまた眠気を誘うのだ。どうする。飛び起きて謝るか、様子をうかがうか、どうする南泉一文字……
 自問自答していると、軽い足音が聞こえてきたので南泉はすっと目を瞑った。良い感じに状況を打破する刀が来てくれないかと思っていたら、「お頭さーん、姫鶴さーん」と声がする。堀川だった。めちゃくちゃ強くて良い奴だが、サボっていない限り寝ている己にちょっかいをかけるタイプではない。何となれば寝ている南泉に気付いたようで、ひそめた声で「はい、おやつです」と二振りに話している。お頭も「子猫の分はあるだろうか」と囁き返しているのでますます起きづらい。堀川は南泉含めて食いっぱぐれた連中のおやつは台所に残っているとだけ告げると軽やかな足取りで去っていった。
 足音が遠ざかるにつれ、静けさがその場を満たしだす。沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。春の静寂には生き物の気配がある。そよ風が葉を揺らし、鴬がそこここで鳴いている。たとえ聞こえずともそこらじゅうで息遣いが感じ取れる。山鳥毛と姫鶴もその静けさを破るつもりはないようだった。タイミングを失った南泉は再び薄目を開けてお頭と姫鶴の兄貴の背中を観察し始めた。大変よろしくないしバレたら怒られるだけでは済まなそうが、ほんのちょっとの好奇心もありつつ、何よりすぐ目の前の雰囲気はとてもではないが己が乱せるものではなかった。
 二振りの目の前では祢々切丸三振り分ほどの山桜の巨木が春爛漫とばかりに枝いっぱいに花を咲かせていた。風が吹くたびにざわざわと巨体をゆするように揺れている。紅が濃く出る品種の上に若葉が赤いことと相まって、燃えるように咲き誇る桜だった。
 そよかぜに乗って湯呑みの湯気が細くたなびく。三色団子の串が二本乗った皿と湯呑みをふたりはぞれぞれ傍に置いていた。相手が座っていない方の側にだ。以前は上杉の刀たちだったり、一文字の刀たちで集っているときにしか一緒にいるところは見なかったが、最近この二振りが連れ立って歩くところを見かけるようになっていた。
 南泉は姫鶴とお頭に同じ家という由縁があること自体は知っていたが、ふたりの仲がどうして微妙な感じなのかは全く聞き及んでいなかった。ただ日光の兄貴は兄貴にしては珍しいことに奥歯に物の挟まったような態度であるし、お頭も姫鶴については何も言わない。御前は「あいつら拗らせてるからな」としか言わないし、姫鶴に突撃するなんて命が九つあっても足りはしない。姫鶴の兄貴は普段は眠り猫みたいだが、怒らせると日光より怖い説がある。それでまあ南泉は完璧なお頭にも人間臭いところがあるもんだなあと思い(それをぽろっと鯰尾にこぼしたら、山鳥毛さんに無茶苦茶夢見てますね! と爆笑された)、思っているうちに二振りは多少歩み寄るようになっていたのだった。そう、少なくとも今みたいに隣あって団子を食って茶をすする程度の仲にはなっていた。
 先に団子に手をつけ、食べきったのも姫鶴だった。皿に串を転がし、返す手で湯呑みを取る。息を吹きかけるふーっという音がかすかに聞こえる。確かに湯気は絶えることなく、いかにも熱そうだった。
 山鳥毛は姫鶴を一顧だにすることなく(横目で見ていたのなら南泉には分からない)、しばし動くことはなかったが、姫鶴が茶を冷ます段になって不意に湯呑みと串を手に取った。動いた拍子にスカジャンが肩から落ちたが気にする様子はない。姫鶴も上着の方をちらりと見るだけで何も言わなかった。山鳥毛の背中の真後ろで白い上着がぐしゃっと折り重なった。お頭も雑なところがあるんだよなあと思う。
 会話はない。ときどき陶器の擦れる音がするだけだ。風に揺れるのは先端の枝だけで幹は不動だった。
 審神者の趣味で本丸に植わっている桜は、目の前のものも含めて全て山桜だ。品種も敷地内でてんでばらばらで、だから春になるとそろそろあの木が花をつけそうだ、次はあの木、まだこの木は花をつけないなどと開花情報がしきりに囁かれる。

──世の中にたえて桜のなかりせば

ぽつりと漏らしたのは去年の山鳥毛だった。まだ一文字派が南泉と山鳥毛の二振りきりだった頃だ。本丸裏の斜面に群生している桜が一斉に花をつけたので、花見にかこつけた夜宴を催していた。山鳥毛は勧められた酒を断らないので、かぱかぱ杯を空けて肌はうっすら赤かった。
「春の心はのどけからまし?」
ちらりと隣をうかがえばショットグラスを煽る山鳥毛の目が楽しそうに細められていた。誰だよウォッカ持ち込んだやつ。
「口に出ていたか」
「酔ってんじゃねえっすか?」
南泉も酒が入って良い気持ちで、くつろいだ声音で答えていた。
「全くだな」
小さく笑って水を含む。ついと手を伸ばし、頭上の枝を此方に引き寄せる。白い花弁が山鳥毛の手を彩る。
「きれいだな」
「っす」
お頭とふたりきりというのは大層緊張するが、この頃は他愛のない会話を何度か繰り返したおかげで少なくとも居心地の悪さを感じることはなくなっていた。
「……きれいっす」
「ああ、本当に」
「俺、桜は白いのがいっとう好きだ、にゃ」
うーん締まらない。がっくり肩を落としていると、頭上からばさっと音がする。山鳥毛が枝から手を離したのだ。見上げれば枝が余韻に細かく震えていて、ひらひらと落ちる花びらが南泉に振ってきた。
 木が痛むと怒る長谷部に山鳥毛が謝っていたが、南泉はただ舞い落ちる白い欠片を見守っていた。ぼんぼりの光に花びらはうっすら照り、自ら発光しているようだった。
「きれいっす」
「そうか。私も桜は白が好きだ」
南泉は今度は小さく頷いた。
 お頭と姫鶴の兄貴の間に何があったのか南泉は知らないし、知ろうとも思わない。うっすら察せられるものがあったとしてもだ。あのふたりのことだから南泉に詳らかに語る日は来ないだろう。
 姫鶴が顕現したのはこの冬のことで、春になって本丸内がしきりに花の話で持ちきりになると、他の新刃同様目を丸くさせていた。この本丸は桜が好きな奴とそれをだしにして飲みたい奴と花も酒も両方好きな奴で成り立っている。
 内番帰りに姫鶴と連れ立って歩いていたら、通りすがりざま大般若に今夜どうかと誘われた。水路沿いの桜が散り始めたのだそうだ。桑名情報によると明日は雨とのことだから、きっと今夜がその樹で花見ができる最後だろう。姫鶴は少しの間だけ考えて、「おれ、パス」と言った。
「南くんは行きたかったら行ってきたら?」
この兄貴、結構突き放した言い方をする。そこが気楽なところもあるが。俺も断ろっかなと思ったら「さよりをな、網でこう、じゅーっとやろうと思ってるんだがなあ……」と来た。どうして桜の散り際を鑑賞する横で魚を焼くのだ。とはいえ南泉は食い気が圧倒的に勝つ方の男士なので行くと即答した。姫鶴はそれでもなおやんわりと固辞していた。
「毎年こんな感じなわけ?」
大般若と別れると姫鶴はぽつりと言った。
「そっすね……にゃ」
「どんだけ桜好きなんだよ」
「嫌いな奴もいなくね?」
「あーそういうこと言うんだ。おれ梅派だから」
「えっ!」
「今のは適当だけど。でも梅とか桃の方がいいじゃん。実ぃつけるし」
姫鶴の部屋の前まで来ると兄貴は自室の障子をすぱんと開けた。
「南くんもお茶飲む?」
「いただきます……」
部屋の隅に積まれた座布団を引っ張り出してその上に座る。姫鶴はやるとなったら機敏に動くのでてきぱきと茶の用意をする。
「姫鶴の兄貴はさ、桜嫌いか、にゃ?」
姫鶴は急須に湯を注ぎつつも、一瞬だけ南泉に目をやった。
「ううん、好きだよ。お堀に咲いてたんだよね。南くんは?」
「すぐ近くの庭に咲いてた」
「ふーん、そうなんだ」
姫鶴の相槌はぶっきらぼうなようでいて、その実ちゃんと聞いてくれている。茶葉が蒸れるのをふたりで待った。
「桜の時期はさ、夜中まで騒がしくてお花見するどころじゃなかった」
「あー……」
「そーゆーのも好きだったけどね」
「姫鶴の兄貴はどんな桜が好きっすか?」
姫鶴はんー、と考え込んで答えた。
「血の色みたいな真っ赤なの」

 山鳥毛は湯呑みに手を伸ばし、持ち上げ、また盆に戻した。空だったらしい。皿には裸になった二本の串があるだけだ。山鳥毛はずいぶんゆっくり食べていた。お団子を一つ食べては串を片手に動きが止まり、また一つ食べては動きが止まる。姫鶴は南泉がもたもたしていると「おれが食っていい?」と言い出すくせに、山鳥毛には全くなんにもちょっかいをかけなかった。ただ隣にいた。茶を飲むだけのからくり人形のように。
 山鳥毛の腕が床につき、ぐっと力が込められる。立ち上がる間際の動作に南泉はすぐさま目を閉じた。瞼の裏の闇は薄ぼんやりし、赤い桜の残像が見える。床が軋む音に耳をそばだてる。するりとお頭の上着から衣擦れがする。
「淹れるか?」
それが山鳥毛がこの場所で初めて姫鶴にかけた言葉だった。
「んー別にぃ……」
そうかと答える声と足を踏み出す気配を感じ取る。そのまま立ち去るつもりらしい。
 山鳥毛が一歩二歩進んだどころで、またきしりと音がした。音の柔らかさからして廊下に手をついたのだろう。足の裏が踏み締める音はもっと腹に響くものだ。きし、ぎし、という床の軋みに続いてかちゃりと盆と陶器が擦れる音がした。また足音。姫鶴は山鳥毛の後を追っていた。山鳥毛は歩調を緩めつつも止まらない。一歩、二歩、三歩とふたり分の足音が静かに床を滑り、四歩目でふたりの歩調はぴたりと合った。ふたり分の重さを乗せた足音が遠ざかっていく。
 音が完全に聞こえなくなるのを待って、南泉は寝返りを打った。くわっと猫のように欠伸をして。

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