最後の火(Ifつきりん)


何か思うところがあっても、気付かないフリをして目を背けていればどうにかなると、藤島凛は本気で思っていた。
何かを変えようだとか、変わろうだとか、自分がそんなことを思ってしまうと全てが壊れてしまう。壊れてしまった。二度あることは三度ある、という諺くらい、学が足りない凛でも知っていた。だから凛は、響に長かった髪を切り落として貰ったその時にもう変化を望まずに生きて行こうと心に決めていた。

だって今が一番幸せだから。
懐っこい自身に構ってくれる人達がいて、仕事も楽しくて、一人で眠るのが嫌いという年齢不相応な我儘に辟易とすることなく付き合ってくれる面々がいて、時に夜更かしを楽しめる時間も出来て。これ以上ないと思うくらい幸せだったのだ、間違いなく。
もしかしたら幸せ過ぎて少し気が緩んでいたのかもしれない。何の因果か、凛は椎名月子と火遊びに高じることになった。最初は本当に火遊びだった。ただ気が合った人と遊んでいるだけだから、今までと変わらないし、これからも変わることはないと思っていた。

大好きだと胸を張って言える恩人に薄暗い感情を抱くようになったことも、対等と思えていた友人に後ろめたい感情を抱くようになったことも、頭の裏で何かがずっと早鐘を打つようになったことも。気付かないフリをして目を背けていれば、気付いたとしても、それだけで済ませてしまえば。それは変わったことにはならないと思っていた。

その時は唐突にやってきた。否、凛本人からすれば唐突であっても、実はずっと凛が無自覚のところでじわじわと引っ張られていたものが、遂に限界値を迎えただけの話だった。

糸が切れた音がした瞬間、脳裏に響いていた心音が止まった。

それは本当に些細な切っ掛け。
昼食を兼ねて喫茶店へ顔を出していた凛が、勤務していた月子をなんとなく視線で追ってしまって、その先。窓際の席へ座る客に品を差し出す時、窓から差す太陽の光できらりとその髪が紫に反射したのを捉えた。ただそれだけ。
ただそれだけの瞬間に、凛の中の糸が切れた。月ちゃんの髪、日に当たって綺麗だな。ただそう思った。張り詰め過ぎたものほど切れやすいのだと、諭してくれる人なんて誰もいなかった。張り詰めていたことなんて、凛本人も気付いていなかったのだから。

とあるホテルの一室に入り込んだ瞬間、凛は月子の手荷物を下ろさせる間もなくその身をベッドへ押し倒した。
普段なら他愛もない話をして、それこそ言葉遊びのような着地点がふわふわとした会話を楽しんでから進む行為の筈で。右手に愛用するミニバッグのショルダーストラップを離せないまま思わず被さってくる凛に視線を向けた。普段なら間接照明すら消した部屋で、慣れた目ではその表情は却って分かりやすいはずなのに、部屋の明かりそのものが点いていると逆光と垂れる髪で凛の表情は窺えなかった。

「…どうしたの?」

押し倒すだけ押し倒して動きを止めている凛を訝しく思った月子は、敢えて優しい声色を作って左手で凛の表情を隠す前髪を避けた。右手のショルダーストラップを握ったままなのは、わざとだった。避けられた前髪から出てきた表情は、とても見慣れたものだった。本当によく見慣れた、柔らかい、音にするならふにゃりとした笑顔を浮かべていた。月子は思わず咄嗟に頬に寄せていた左手に力を入れたが、先手を打ったのは凛だった。

「今日の僕はちょっと意地悪な気分なの」
「…最近の凛は、結構意地悪じゃない?」
「そうかな、…そぉかも」

同じ笑顔の筈なのに途端に柔らかさを失ったように眉根を寄せて笑う凛は、月子の硬く握られた右手首をそっと自身の右手で掴むと、そのまま指先で月子の指先をくすぐった。見慣れた顔色になった凛の言動に月子は少しだけ安心したのかもしれない。くすぐられるがままにゆっくりと右手を開いた月子の手中からするりと凛はストラップを奪い取って鞄ごと抜き取れば、それをそのままベッドの下に優しく落とす。トサッ、と地に落ちた音が耳に届くと、月子は諦めたようにぎゅっと右手を握り直し凛の右手を絡めとった。中指に嵌る冷ややかなリングの硬質な温度にももう随分慣れた。ふはっ、と息だけで凛は笑った。張り詰めた空気ではない筈なのに、1つ1つの微かな音がやたらと大きく響いているように感じているのは、きっとお互い様だろう。

「ねぇお姉さん、変なこと言っていい?」
「なに? 難しいことはいやだよ」
「えー、どうだろ」

提案してきた割に妙に内容を焦らす様子の凛に月子はわざと膨れっ面を作って見せた。それを見た凛は今度こそ声を上げてそのカオ可愛いと笑った。いつものような戯れ、いつものような火遊びの空気感だったように思う。凛は一旦上体を上げると、サイドテーブルに置かれた照明のスイッチをカチッ、カチッと数回押す。段々と見慣れた暗さに――ならなかった。部屋の照明は確かに全て落ちている。ただサイドテーブルに置かれたランプが煌々と光っているのだ。
別に、照明を全て落とすことをルールとしたことはなかった。ただいつも、当たり前のように凛は全ての照明を落とすから。その1つの光源を落とさないことに月子は疑問を覚えた。本当にただの、意地悪なのか。戯れのつもりなのか。ランプに反射して途端に鈍く緑色掛かった凛の黒髪が、月子を何とも言えない居心地の悪さへ追い詰める。それは心地だけでなく、再び上体を落とした凛に物理的な距離としても詰められた。

「俺ね、本当は躾の成ってない悪い子だったんだよ」

「月ちゃん、大好き」

この気持ちを謝るつもりはない。
だから早く、俺を嫌いになって。

凛はそう祈りを込めて、月子の唇に歯を立てた。

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