大江戸転生主従パロ 手を放す 14 ~目覚め~


横書き
https://notes.underxheaven.com/preview/63a8e94181c2686018cbd82ce85bf9e5
縦書き
https://notes.underxheaven.com/preview/tate/63a8e94181c2686018cbd82ce85bf9e5






 利吉が目を開けたのは、六日目の朝だった。

 最初に見えたのは板張りの壁だった。見たことがない木目。低い天井。見慣れた屋敷の漆喰ではなく、どこかの──町屋の部屋の中だった。
 次に聞こえたのは雨の音だった。軒先を打つ細い雨音が部屋の中に薄く響いている。薬の匂いがする。膏薬と、生薬を煎じた匂い。それから、かすかに墨の匂い。
 目を動かすと、視界の端に人影があった。枕元に座っている。膝の上に紙を広げ、筆を持っている。けれども筆は止まっていた。紙の上には何も書かれておらず、ただ座って、紙を見つめているだけだった。
 利吉は、その横顔を知っていた。会いたくて会いたくて、心が千切れてしまいそうな人の横顔だった。
「……若……」
 声は掠れていた。喉の奥が焼けるように痛み、息を吸うたびに胸の内側が軋む。それでも声は出た。止まっていた筆が落ち、畳の上で竹軸が転がる小さな音が雨音の隙間に響いた。土井が利吉の顔を見た。目が合なり、どこか泣きそうな顔をされたような気がした。
「──利吉くん」
 土井の声も掠れていた。利吉の声とは違う掠れ方だった。何日も眠らなかった人間の声のようだと利吉は思いかけ、思い上がるなと自分自身を叱咤した。
「……目が覚めたのか。痛みはどれくらいある? 熱は」
 利吉は答えようとして、右腕に力を入れた。身体を起こそうとしたのだ。その瞬間──肘から先に走った痛みに息が詰まった。鋭いものではない。鈍く、深く、腕の芯まで食い込むような熱さが一拍遅れて全身に広がる。視界が白く明滅し、利吉は歯を食いしばったまま枕に沈んだ。
「動かなくていい」
 土井の手が、利吉の肩をそっと押さえた。
「右腕は、まだ動かしてはいけないと……伊作がそう言っていた」
「伊作……。善法寺くんですか」
「ああ。ここは伊作の診療所だ」
 小さく息を吐いて、利吉はゆっくりと土井の顔に視線を戻した。土井の顔色は悪かった。目の下に濃い隈があり、頬がこけている。髪も乱れたままで、いつもの穏やかな身なりとは似ても似つかない。まるで何日も同じ着物を着て、この場所を動かなかったような姿だった。
「若は……なぜ、こちらに」
「なぜ? 君が怪我をしたと聞いたから」
 当たり前だろう、と言いかけて、土井は口を閉じた。利吉は思わず土井の目を見つめた。土井の表情には安堵がある。けれどもそれだけではなかった。安堵の下に、別の何かが沈んでいる。深い場所に押し込められたまま、時折水面を揺らすように土井の目の奥を震わせるもの。利吉はそれが何であるかを読もうとして、読めないままに視線を外した。
 自分の右腕を見ると、白い布が肘から先を覆い、指先だけがわずかに見えていた。爪は黒ずみ、指を動かそうとしてまた痛みが走った。今度は声を出さなかった。奥歯を噛み締めて耐え、天井を見上げる。
「……ご迷惑を、おかけしました」
「迷惑?」
「若のお留守に──屋敷の守りを預かっておきながら、この体たらくです」
 利吉の声は平坦だった。感情を削ぎ落とした声。忍が主に報告を上げる時の声だ。けれどもその奥に消沈がある。利吉は小さく謝罪した。
「こんな様を見せてしまい……申し訳ありません」
 土井は何も言えなかった。
 言いたいことは喉の奥まで来ている。迷惑ではない。君が生きていてくれただけで十分だ。身体のことなど二の次だ。腕が動かなくても構わない。忍でなくなっても構わない。ただ──生きていてさえくれれば。
 けれどもそれを口にすれば、利吉の忍としての矜持を踏みにじることになる。傷を負った身体で主の前に伏す利吉にとって、「忍でなくてもいい」という言葉は慰めではない。それはお前の働きは要らないと言われるのと同じではないか。
 土井は咄嗟に言葉が見つからなかった。たとえ見つかっても、それはここでは出せないものだ。似たようなことが前世でもあったことを思い出す。泰平の世に向かい、忍稼業も廃業か、と話をしていた彼の姿。あの時も自分は言えなかった。何者でもいいからただ傍にいてほしいのだと──百年経っても、言えないままの言葉が残っている。
「……迷惑などではないよ」
 たったそれだけを言うのが、土井に許された精一杯だった。利吉は天井を見たまま小さく息をついた。沈黙が落ち、雨音だけが部屋を満たした。
 土井は膝の上の紙を畳んで脇に寄せ、姿勢を直した。安堵と感傷に浸っているばかりではいけない。聞くべきことは山ほどあった。
「……利吉くん。一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「あの夜、君はなぜ、蔵の近くにいたんだ」
 利吉の目が、天井から土井の方へ動いた。
「……棚卸しを命じられていたからです」
「棚卸し?」
「はい。若がご視察に出られる前、若殿から蔵の台帳を整えておくようにとのお達しがあったそうです。それを受けて留守居役から、棚卸しの実務を命じられました」
「留守居役から、直接君に?」
「はい。若が出発された後、すぐに」
 土井は黙って聞いていた。利吉の言葉の一つ一つを、頭の中で積み重ねる。留守居役を取り纏めているのは家老だ。ここでも家老の影がちらつく。若殿の指示を受けた形とは言え、しかし実務の担当を利吉に指名したのは家老の判断に違いない。
「棚卸しには何日かかった」
「二日です。初日に献上品と布物の確認を。二日目に帳面と櫛の箱を主に見ました」
「蔵の鍵は?」
「私が預かりました。留守居役から受け取って、棚卸しが終わった後に返しました」
「──返した相手は」
「留守居役の、直の家来です」
 土井は頷いた。表情は変わらない。けれども利吉は、若の目のどこかが僅かに動いたのを見た。けれどもそれが何を意味するのかは分からない。土井は静かに言った。
「あの夜のことも聞かせてくれるか。覚えている範囲でいい」
「あの夜は……」
 利吉は目を閉じた。火事の夜のことを辿り直しているのだろう。しばらくして彼は目を開け、なにかを数えるように記憶を綴った。
「……夕餉の頃、若殿様が供の者を連れて蔵に入るのを見ました。帳面を確かめに行かれたのだと思います。私は夜の見回りの支度をして、蔵筋の外縁を歩きました」
「見回りは、命じられたものか」
「いいえ。私の独断です」
 利吉の声にわずかな硬さが混じった。越権だという自覚がある声だ。
「……このところ、町で蔵を狙った付け火が続いていると聞いていました。寺子屋の──食満くんと善法寺くんから、先生の屋敷にも念のため警戒をと伝えられて。家老殿に進言しましたが退けられました」
「退けられた?」
「はい。考え過ぎだと言われました。起きているのは町屋の付け火で、大名屋敷が狙われる理由がないと」
 土井は何も言わなかった。利吉は続けた。
「それでも気になって、独りで見回りをしていました。あの夜──風が変わった時、油の匂いがしました。そしてその中に、甘い匂いが混じっていました」
「甘い匂い……」
「白檀と丁子です。蔵の棚卸しの時に嗅いだ匂いと同じでした。防虫香の匂いです。それが油に混じって、風に乗って届いていました。理由は分かりかねますが」
 利吉は一度息を整えた。右腕が痛むのだろう、左手で布団を握り締めている。
「見に行くと、北の蔵の扉際が燃えていました。外から油を引いて着けた火です。けれども同時に、西の蔵──私が棚卸しをした蔵の通気口からも煙が出ていました。中から燃えていたんです。北は囮で、西が本命だったようです」
「……それで、蔵に」
「はい。中から助けを呼ぶ声がしたので、楔を外して扉を開けました。若殿様は帳面棚の手前で倒れておられました。ただ、扉が──」
 利吉の声は、そこで一度途切れた。天井を見つめたまましばらく動かない。言い方を考えている様子だった。利吉は暫し逡巡し、小さく言った。
「……若殿のお供の方が、蔵の中で声を上げていたので中に人がいると分かったのですが──扉は外から楔で封じられていました。上下に二本」
「外から、封じられていた?」
「はい。外からです」
 二人の間に、重い沈黙が落ちた。
 外から楔を打つのは、中の人間を閉じ込めるためだ。利吉がそこまで口にしなくても、土井にはそれが分かった。分かって、膝の上の拳を指が白くなるまで握り締めた。
「……ありがとう。もう、休んでくれ」
「若──」
「それ以上は、いい。今は身体を治すことだけを考えてくれ」
 土井は立ち上がった。利吉の布団の端を直し、水差しを枕元に寄せる。若君の顔ではない。土井家に生まれた者としての、家に対する責任のある表情をしていた。
「伊作に、君が目覚めたことを伝えてくる。容態を伝えて、食べられるようなら粥でも食べてくれ」
「……はい」
 利吉は土井の背中を見ていた。襖に手をかける若君の指先は微かに震えているように見えた。けれども利吉がもう一度それを確かめる前に襖は閉まった。
 静かになった部屋に、再び雨音が戻ってきた。利吉は天井の木目を見つめたまま左手で布団の端を握り直した。若が座っていた場所の畳だけが、ほんの少しだけ温かさを残していた。


***


 仙蔵が伊作の診療所を訪れたのは、その日の夕刻だった。
 芝居の衣装ではなく、地味な着流しに笠を被っている。千両役者が町を歩けば顔が割れる。仙蔵は裏口から入り、土間で伊作に一言断ってから奥の間に入った。利吉は別室で眠っている。伊作が膏薬を替えた後で、薬湯を飲ませて寝かせたところだと言う。
「──土井先生。少しお時間をいただけますか」
 仙蔵は障子を閉め、土井と向かい合った。

 幼馴染六人の中で、仙蔵だけが土井の正体を知っている。本当は寺子屋の先生でも商家の四男でもなく、西の大名の末弟であること。利吉が側近の忍であること。そして──土井が仙蔵と同じく、前世からの記憶を有した者であること。
 仙蔵は笠を脇に置き、懐から折りたたんだ紙を出した。
「昨日、永楽屋で皆と情報を突き合わせました。伊作から先生のお耳に入っていますか」
「いや。まだ聞いていない」
「では手短にお伝えします」
 仙蔵は紙を広げた。文次郎の走り書きを写したものらしい。店名と数字の列が並んでいる。
「今、文次郎が油の流通を調べています。この一月、小さな店に大量の油が流れている。どの店も実態に合わない量を仕入れていて、その仕入れには請け人──掛け売りの保証人がついている。請け人を辿れば、金の出元に行き着くだろうと文次郎は踏んでいます」
「辿らないといけない程度には、誤魔化している、と言うことか」
「はい。そしてもう一つ。これは私の方で掴んだ話です」
 仙蔵は声を落とした。
「先日、贔屓筋の旗本家に招かれた折に、道具方の者と話す機会がありました。大名家への納入を扱う連中です。その中の一人が──最近、ある屋敷への油の納入が別名義で増えていると漏らしました」
「別名義で?」
「ええ。屋敷の正規の発注ではなく、留守居役の家臣が個人の名で急がせたと。急ぎの理由は聞かされなかったらしいですが、量は通常の二倍以上だったそうです」
 仙蔵が言わんとすることに思い当たったのだろう。土井は仙蔵の目を見たまま、微動だにしない。
「先生。──その屋敷は、土井家です」
 仙蔵の言葉が、硬さを帯びてその場に落ちた。静かな部屋に雨音だけが響いている。仙蔵は懐から扇子を取り出し、床の上の紙を指しながら続けた。
「留守居役の家臣が油を別名義で手配した時期が、文次郎が追っている小さな店への油の流れと一致しています。おそらく同じ筋です。町の放火に使われた油と、先生のお屋敷に流れ込んだ油が、同じ金脈から出ている」
「……つまり、うちの内部の者だと」
「はい。内部に手引きした者がいる筈です。おそらく、留守居役の周辺です」
 土井の表情は変わらなかった。変わらないまま、膝の上の指先がわずかに白くなった。仙蔵はそれを見ていた。前世の師よりもほんの少し、この若君は分かりやすい、思いながら言葉を続ける。
「それと土井先生。──もう一つ、申し上げなければならないことがあります」
「言ってくれ」
「永楽屋で、私は燃えかすの匂いを嗅ぎました。火事場にはいつも、油に混じって甘い匂いが残されているのです。この正体は防虫香です。白檀と丁子に樟脳を混ぜた、先生のお屋敷の蔵で使われているものと同じ調合です」
「利吉くんも言っていたな。火事のときに匂いがしたと」
「はい。犯人はその匂いを、わざと現場に残しています。油の匂いだけなら足はつきません。しかし特殊な匂いを混ぜれば、その匂いを纏っている者──蔵に出入りした者に疑いが向きます。これは犯人の匂いではなく、犯人が残したい匂いです。犯人は、蔵に出入りしていた者に放火の罪を意図的に着せるつもりです」
 土井は相変わらず動かなかった。けれども仙蔵の言葉が、先刻利吉から聞いた話と重なっていくのを止められなかった。仕組まれていたのだ。全て。そう考えると、忍であるにも関わらず利吉が匂いを纏っていたという不自然さにも合点が行く。土井が口を開かないままでいると、仙蔵が落ち着かなさげに扇子を微かに開きながら問うてきた。彼にしても、あまり振りたい話ではないのだろう。
「先生。お聞きしたいのですが、最近、お屋敷の蔵に出入りしていた者は誰ですか」
「……利吉くんだ」
「利吉さんが」
「ああ。蔵の棚卸しを命じられていたそうだ。留守居役の家老から」
 仙蔵の扇子が、膝の上で止まった。
「……御家老から、利吉さんに直接?」
「そうだ。若殿が蔵の台帳を整えておくようにと指示を出したらしいが、その実務を利吉くんに振ったのは、家老の判断だ」
「わざわざ若君付きの忍に頼まずとも、他にも適任はいそうですが」
「ああ。だが家老は利吉くんを指名した。それも私が視察に出た直後に」
 沈黙が落ちた。仙蔵の目が細くなる。考えている顔だ。舞台の上で相手の腹を読む時と同じ──静かで、鋭い目。
「先生。その御家老は、先生と利吉さんの御噂をご存じなのですか」
「……知っているだろうな。屋敷の中に知らない者はいない」
「でしょうね。この頃では私の元にまで漏れ聞こえて来るくらいですし。それで、利吉さんの護衛の任が外されたのは」
「それは母と兄の判断だ。だが──実務の手配は家老が差配している」
「他に、御家老の目立った動きは?」
「そうだな、後は、縁談が──」
 土井は言葉を切った。言葉を切って、膝の上の拳を見た。
「……母から、利吉くんに縁談を勧められたんだ。けれども話を持ち込んだのは……家老だと聞いている」
 仙蔵は扇子を畳の上に置いた。
「見えてきましたね」
「……ああ」
「利吉さんの護衛を外し、縁談を勧め、蔵の棚卸しに回した。利吉さんを先生から引き離しながら、同時に蔵との接点を作っている。屋敷の者から見れば、利吉さんは主君に遠ざけられた忍です」
 仙蔵の声は抑えられていたが、一語ごとに重さが増していった。土井は半ば独り言のように呟く。
「『主君に捨てられた忍が、腹いせに蔵へ火を放った』──そういう筋書きだろうな。あるいは──」
 土井は淡々と続けた。
「あるいは、もっと悪質な筋書きもあり得る。『家を焼けば混乱に乗じて若君を攫える。忍ならそのくらいの知恵は持っている』──そう伝えれば、屋敷の者は信じるだろうな。ただでさえ、利吉くんを疑う輩はもう出てきている」
 土井の声は低かった。低く、静かだった。仙蔵はその声に目を細める。
「台所で、下男たちが話していた。利吉くんが犯人かもしれないと。匂いのことも。噂は──もう十分に広まっている」
 仙蔵は土井の目を見た。
「先生。蔵の帳面には、何が記されていたのですか」
「……領地からの献上品の台帳だ。物資の出入りと、発注の記録。利吉くんの報告では、二日目に帳面棚を確認している」
「もしかしたら、その帳面を燃やしたかった者がいるのではないでしょうか。そしてその罪を、蔵に出入りしていた利吉さんに着せようとした。帳面を消したがる理由は、むしろ先生の方がお分かりになるのでは」
 土井は目を閉じた。
 視察で見てきた村々のことが蘇る。領地の産物。献上品の質と量。それと帳面の数字を突き合わせれば、横流しや水増しの痕跡は見えるだろう。若殿の総点検と自分の視察報告が揃った瞬間に、家老の不正は露見する。だから自分が帰る前に帳面を焼いたのではないか。
 そして利吉に罪を着せた。護衛を外され、縁談を勧められ、蔵の雑務に回されて──あの孤独な日々の中で膝を抱えていたであろう利吉の苦しみを、犯行動機に読み替えて利用しようとした。
(──許さない)
 土井は目を開けた。静かな声で仙蔵に問う。
「仙蔵。町方の方の証拠は出るのか」
「文次郎が金の筋を追っています。請け人の名が判れば、家老の周辺に繋がるかもしれません。けれども、時がかかるかもしれません」
「あまり時間がない。利吉くんは今、証人を保護する名目で屋敷預かりになっている。だが細部は家老と詰めるよう兄に言われた。つまり家老は利吉くんの動きを把握できる立場にある」
「……厄介ですね」
「それだけじゃない」
 土井は声を落とした。
「利吉くんは、蔵の中で何が起きていたかを知っている唯一の人間だ。家老にとっては口を封じたい相手になる」
 仙蔵の目が鋭くなった。
「御家老に、この場所は知られていますか」
「知っているだろうな。母の口添えで伊作に預けた時、対応したのは他ならぬ家老だ」
 仙蔵は扇子の骨を指先で弾いた。小さな音が鳴り、彼の懸念がその場に伝わる。
「……留三郎と伊作は信頼できます。けれども診療所は武家屋敷ではない。夜に一人二人忍び込むのは難しくない状況です」
「分かっている。彼のことは私が守る。役目としてでも、私情としてでも。利吉くんの傍は離れない」
 土井の声は静かだった。静かで、揺るぎがなかった。仙蔵は土井の目を見た。百年分の彼の想いが、この穏やかな目の奥に凝縮されているのだろう。仙蔵はそれを知っている。前世の記憶を持つ者として、土井がどれほどの時間を過ごしてきたかを。
 だからこそ──仙蔵は首を振った。
「土井先生。お気持ちは分かります。けれど、先生はお屋敷の方におられた方がいい」
「仙蔵」
「先生がここにいれば、御家老は屋敷の中で自由に動けます。噂を育て、証拠を消し、次の手を打つことができる。利吉さんの傍を守ることも大事ですが、屋敷の中で御家老の動きを封じられるのは先生だけです」
 土井は言い返そうとして、できなかった。仙蔵の言葉はもっともだ。利吉の傍にいたいという衝動と、屋敷の内側から家老を追い詰めなければならないという理屈は真っ向からぶつかる。仙蔵には土井の葛藤が見えた。
「──私が承りますよ。忍務として」
 ふと、仙蔵の声が変わった。
 それは、それまでの千両役者の声ではなかった。柔らかさが消え、低く、短く、無駄のない凛とした声になる。土井はその声を知っていた。前世で──戦の只中で、炮烙火矢を手にしていた頃の仙蔵の声だ。
「千両役者の立花仙蔵は、善法寺伊作の旧知です。原因不明の障りにより、しばらく療養するがよいと伊作からも言われて、診療所に留まることにした──と、そういうことに致しましょう。幸い千秋楽も終えておりますので」
 仙蔵は扇子を懐に仕舞い、背筋を正した。座った姿勢のまま、気配が変わる。役者の華やかさが消え、そこにいるのは──かつて忍だった人間のそれだった。
「身体はあの頃のようには参りませんが、目も耳も鈍ってはおりません。夜分に人が近づけば分かります。ですからどうぞご安心を」
 土井は黙って仙蔵を見つめた。あの頃、という言葉の意味を正確に理解できるのは、この部屋にいる二人だけだった。
「それに──忍はともかく、千両役者を害するのは犯人も避けたいところでしょう。私も伊達に贔屓を抱えておりませんので」
 仙蔵の口の端がわずかに上がる。忍の顔の中に、役者の顔がほんの一瞬だけ覗く。
「町奉行所の与力の高階殿には、私の芝居を十年来ご覧いただいております。万が一にも千両役者の療養先で不始末があれば、奉行所も黙ってはいられない。──そういう盾の使い方もございます」
 土井は仙蔵の目を見た。前世の記憶を共有する者同士の、言葉にしなくても通じる視線だった。仙蔵は利吉のことを──利吉の魂のことを、土井と同じ深さで分かっている。
「すまない。……頼む、仙蔵」
「ええ。お任せください」
 仙蔵は立ち上がり、笠を手に取った。
「贔屓筋を動かして、道具方の証言を固める件も並行して進めます。文次郎の金の線が出元に届くまでの間、判断の材料を揃えましょう。先生は屋敷の中で、御家老の足場を崩してください」
「ああ」
「──土井先生」
 最後に障子に手をかけて、仙蔵は振り返った。
「利吉さんは先生がおられない間も、先生を守ろうとして蔵に飛び込んだのでしょう。先生の家族を──若君の大切なものを守ろうとした。それは、役目だけでできることではないと思います。……幸福なことですね」
 土井は答えなかった。
 仙蔵は笠を被り、裏口から雨の中に消えた。



 翌朝、伊作の診療所の裏手の庭園に、見慣れない足跡が残っていた。
 薬草を取りに裏庭に出た時に、伊作はその足跡に気づいた。雨上がりの土に草履の跡が二つ。裏塀のそばに立ち、しばらくそこに留まっていた形跡がある。塀の向こうは路地だ。そこから診療所の中を窺うことは──できなくはない。
 伊作は足跡をしばらく見つめ、それから奥の間に戻った。仙蔵は利吉の隣の部屋で横になっていたが、伊作の足音を聞いてすでに起きていた。
「仙蔵。少し、見てもらいたいものがあるんだけど」
 伊作は仙蔵を裏庭に案内し、足跡を示した。仙蔵は足跡を見て、それから顔を上げた。塀の高さ、路地の幅、診療所の窓の位置を忍の目で測る。これは素人の痕跡ではない。仙蔵はひとりごちた。
「……早いな」
「え?」
「いや。伊作、今夜から裏口の戸締りを二重にしてくれるか。留三郎にも声をかけておいた方がいい」
「うん。留三郎には夜の見回りを頼んでみる」
 伊作は頷いた。それから仙蔵の顔を見て、小さく首を傾けた。
「仙蔵。君、昨日からちょっと顔つきが違うね」
「そうか?」
「役者の顔じゃない。もっと──何と言うか」
 仙蔵は薄く笑った。けれども、目は笑ってはいなかった。
「利吉さんは僕の患者だ。患者を守るのは医者の仕事だ。けれど僕一人では心許ないから──頼りにしてる」
 伊作は穏やかに笑っていたが、その目の奥には町医者の静かな覚悟があった。仙蔵は裏塀の足跡をもう一度見下ろして、屋敷に戻った若君の行く末を思った。

powered by 小説執筆ツール「arei」

169 回読まれています