水槽と海


どこか外遊びに連れてってください、と譲介はいつものように言った。

「今度は、どこ行きてぇんだよ。」
行きたい場所はもう決まってるんだろうが。
口にはしないが、白々しい言い方は止めろと言わんばかりにこちらを見た人は「冷やくれ。」と顔を逸らしてカウンターの中の店主に向かって言った。
ジンの水割り片手の譲介は、いつものように食い気味に「湘南とか、どこでもいいですけど、海が見てみたいです。」と言った。
「海……海かァ?」と年上の人は怪訝な顔をした。
それまで上機嫌で日本酒を飲んでいたその人は眉を寄せ、それきり黙ってしまった。
譲介の脳裏に、去年の秋の体育の日に合わせたイベントで軽々二百メートル走を駆け抜けて行く弟子を撮影するためにビデオカメラを借りて来る算段をしていた夏の日のTETSUの顔が思い浮かんだ。
「……行きたい理由を言ってみろ。納得したら連れてってやるよ。」
レンタカー代は折半だな、とTETSUは言う。
車?
話のスピードについて行けず、譲介は目を丸くした。
しかも理由って……。
スーツを着た譲介の前で涙ぐみながら、もうおめぇも独り立ちの年かと言われた成人式は、もう去年のことだ。
飲酒込みの夜の誘いを、未だに保護者が必要だと言わんばかりの顔で了解する年上の人への複雑な感情をとっさに処理しきれずに、譲介は、胸の中で三秒数える間に薄い水割りの氷をかき回した。
理由はデートです、とストレートに白状してしまいたい気持ちを抑えて、車ですか、と首を傾げて尋ねる。
「まさか電車で行くつもりか?」と彼は眉を上げた。
「そのつもりでしたけど。」
「泳ぎに行くのにか?」
「え? 泳ぎ?」
晴れた海を背景に、派手な海パンを着てシュノーケリングのゴーグルを額に仁王立ちしているTETSUの姿が頭に思い浮かんだ。
セクシー&キュートなどと、言った端から拳骨が飛んでくるだろう。
家の中では邪魔だと言って髪を括ってうなじを出した夏の姿は、今のところ譲介の専有物で、軽々しくよそでまで見せて欲しくはなかった。
「じゃあ何しに行くつもりなんだよ。」
「散歩とか? 僕とデートしてください、TETSUさん。」
好青年ムーブを正面に出しつつウインクすると、目を眇めてこちらを伺ったTETSUは「このクソ暑い中かぁ?」と顔を顰めた。
「日傘差して歩いてる野郎の隣で歩けるかよ。」と吐き捨てるような言い方をする年上の人に、TETSUさんて新しいものには柔軟だけど、価値観は古いよね、と笑っていた一也の顔が思い浮かぶ。
「日焼けって、それだけで疲れるんですよ。」と言うと、TETSUは握った拳を譲介の額にめり込ませるように当てて、オレがどんだけ土方のバイトしてたと思ってんだ、と言った。
これはつまり、頭の中にちゃんと脳みそ入ってるか、という仕草だ。年上の人の箍の外れたパワハラジェスチャーが酷くなる前に、譲介は水ください、とカウンターのおじさんに言った。
「TETSUさん、ちょっとお水を飲んでください。」
譲介が笑いながら、コップに触れた彼の大きな手に触れると、TETSUはふい、と顔を逸らした。
「んなこたあ、分かってンだよ。」
調子の狂うヤツだ、と言いながらTETSUは襟足を掻いた。
年上の人の横顔を見ながら、麦藁帽子を被ったらそれなりに似合う気がするけど、ヘアスタイルは崩れてしまうだろうなと譲介は思う。
「暑かったら暑いで、近くのカフェで涼んでたらいいじゃないですか。」
「荷物があんだろうが。大体、ビーサンとアロハのなりで駅ン中を移動すんのか? 革靴やヒールに踏まれたらヒサンだぞ。」とTETSUは言った。この人にしたら、確かに真っ当至極の回答だ。
とはいえ、車か。
「TETSUさん、って運転得意なんですか?」と恐る恐る聞いてみる。
役柄の上でのドクターTETSUは、左ハンドルでの運転をバッチリこなすという設定だ。譲介は、身分証に一枚ありゃいいからなァ、と言って譲介と同様に電車が主な移動手段というこの人の財布の中に、運転免許証が入ってることを知っている。
けれど、実際に車の運転をしているところは、まだ見たことがない。
「まあ、ハンドルまともに握ったのは二年……三年前か。空港に車出してくれっつってKEIのヤツに言われて迎えに行ったっきりだ。」
「空港?」
「墜落が怖えぇってんで機内で飲む口なんだよ、あいつ。電話を掛けたらたまたま親もあいつの兄貴共も出払ってて運転手代わりにオレが呼ばれたってワケだ。昔はタクシーも使ってたらしいが、運転手にメンが割れたら、話がしつけぇんだと。今時、芋づる式に家の場所がバレるってのも困りもんだしな。」
「そうなんですね。」
譲介は、ここにはいない美女の顔を思い出した。
俳優養成所で一緒になって以来の長い付き合いで、彼らが連れ立って旅行に行くような仲だったのは知っている。それでも心がざわつくのは、今でも一緒に飲みに行くということを聞いているからだ。男女の付き合いなしに、という彼の弁を信じてはいる。TETSUが知らない交友関係は自分だって皆無ではないというのに、自分が知らない彼の一面が見えるともうダメだった。心が狭すぎる。
「それって、撮影の帰りだったんですか?」
譲介の質問に、TETSUは辺りを見回して、その話はまた今度だ、と言って、カウンターから出て来た冷酒の入った透明な徳利に手を伸ばした。譲介には触れさせずに手酌をしているのは、未成年だった頃から続いているこれまでの習慣だ。
途中で話を遮った理由に、譲介は気付いた。仕事であれば、そう、彼女にはいつもの敏腕マネージャーが付いていて、運転は彼に任せるはずだ。
私的な旅行か、あるいは用事。TETSUはその理由が何か知っていて、旧い付き合いの友人への義理立てで黙秘を貫いているのだろう。そのことは譲介にも分かった。
短い沈黙を破るようにして「しっかし久しぶりだぜ。」とTETSUはひとりごちるように言った。
「ハマーⅡにゃ乗ってるが、牽引車に引っ張られるだけで運転はしてねぇからな。」
劇中を彩る黒のハマーは、彼の役柄であるドクターTETSUのトレードマークだ。迫力のある重厚なエンジン音と、丈夫でいかついフォルム。
毎度のポートレート撮影の後、撮影準備をする前ですし、少しだけなら敷地内を乗って回れますよ、と誘われたのをTETSUが丁重に断っていた様子を、譲介は隣で見てたから覚えている。エンジン音が煩いのには閉口するが、フルサイズのSUVの迫力を間近で見ると、あの車の運転が出来るなら運転免許を取ってもいいかと思うくらいだった。
「免許、まだ取ってねぇのか。」とTETSUはちらりと譲介に視線を遣った。
「パスポートしかないですね。」
それなりの年になれば、皆こぞって車なりバイクなりの免許を取っていた時代の人らしく、TETSUは異星人を見るような顔でこちらをまじまじと見つめている。そんなTETSUのことを、譲介は微笑みながら見つめ返した。
譲介にとって、好きな人に、海に連れて行ってください、と甘えることは、全く恥ずかしいことではない。早く大人になりたいと足掻いていた十代を経て、二十歳を過ぎてしまった頃から、逆に、甘えられる機会が出来ればそれに飛びつくようになった。
暫く経つと、仕方ねえな、と言わんばかりに嘆息した年上の人は、尻ポケットから出したスマートフォンを開いて何やら確認している。
出掛けるとしたらこの日、という日程を選んでいるのだろう。
大学に入ってから、譲介はTETSUを誘う日をあらかじめ決めていて、基本的には出席が必須の授業はほとんど入れていない、第二週の水曜か木曜だ。
「山に籠ってストレートに試験パスすりゃ、来月のこの日にゃなんとかイケんじゃねえか?」とカレンダーを見せられる。
仕事の予定は紙の手帳で管理している彼のカレンダーには、自分の名前が書かれた日以外の予定は、ほとんど入ってない。こんな状況じゃなければもっと素直に喜べたのに、と残念に思いながら、譲介は「……今から予約してですか?」と尋ねる。
「どっかにひとつくらい枠空いてるとこあんだろ。覚悟決めてとっとと取って来い。」と譲介の尻を叩こうとする。うーん。
「いくらTETSUさんの頼みでも、こればっかりは……マネージャーに相談しないと。」と譲介は言葉を濁す。
車の免許を取りに行きたいなら、事務所で借り切ってる教習所はあるにはあるが、今時、どこにでもスマートフォンのカメラの目がある。縦列駐車とか切り返しとか、初心者に高難度の試験でも自分はちゃんと課題をこなすことが出来るのか。何をどう失敗しても構わないという気持ちで行くことも出来るが、失敗動画が誤って流出した場合、俳優生活の後々まで尾を引くことは分かり切っている。少なくとも心の準備が必要なのだ。
一也は、幸運なことに、ドラマに出て顔が売れる少し前に教習所に通ってしまっていたので、既に免許は持っている。今年の春に中華街に遊びに行った時の帰り道では、帰りだけでもいいから運転の交代が出来たら楽なんだけど、と言っていたのを耳から素通りさせていた自分が悪いのだ。十五の時に始まったドラマが、こんな風にロングランしていくとは思わなかった、というのは確かに言い訳ではあるのだけれど。
負担にはなりたくないけれど、それでも、たまには明るい場所にふたりで出掛けてみたい。
「あの……交代で運転出来ないとダメですか?」と聞いてみると、TETSUは困ったような顔をした。
交代要員が不在だとしても、相手が譲介なら、彼はいつも、多少の無理は通してくれる。それは付き合いの長さで分かっているけれど、その都度口にして確かめないと不安だった。
「なぁに心配してんだよ。ちゃんと連れてってやるよ。」とTETSUは譲介の額をこつんと叩いた。
さっきのノックとは違って、ちゃんと力加減が出来ている。
――今のこれは、なんだか恋人っぽいな。
年上の人を見上げると、どうやら同じことを考えたらしく、一瞬だけ所在なさそうな顔をして彼は小さなお猪口を傾けた。
「しっかし湘南か……。」とTETSUは浮かない顔でため息を吐いた。
撮影中にNGシーン集として収録されそうな台詞のミスが続いたときよりもずっと深い、今日一番のため息だ。
会いたくない人でもいるんだろうか。元恋人とか。
「海なら、湘南じゃなくてもいいですけど、それでもダメですか?」
「駄目、ってことはねぇけどよ。そもそも用事がなきゃ行きたいとこでもねぇな。」
「どうしてですか。」と譲介が聞いたタイミングで、ラストオーダーです、とカウンターから店主が声を掛ける。
こいつの分の水くれ、とTETSUは返事を返す。
「……まあ理由は、今度聞かせてやるよ。」
カウンターから譲介の分の水を受け取ったTETSUはこちらにコップを置いた。
水の表面に浮かんだ氷を見ながら、今度か、と譲介は思う。
きっと、今夜は外では伏せたい話に行き着く日なのだろう。
あるいは、酔っ払いに良くある、話の堂々巡りかもしれなかった。この人ときたら、酔いが回ると本当に由緒正しい酔っぱらいになる。
彼の家で飲むなら、いつものように何でも、彼自身のことだって一晩中でも聞かせて貰えるだろうけど、それもやはり、酔いに任せての話だ。
この時期は缶や瓶のゴミを出す時間に起きられないと言うので、酒の代わりに紙パックやペットボトルのジュースやジンジャエールが出て来るばかりで、その上彼の薄着にこちらの脆い理性が耐えきれるかどうかという心配もある。まあ、譲介程度の細腕でこの人に手を出そうと思ったところで、土方で鍛えた腕力で退けられてしまうのは分かっているのだけど。
「もう一遍聞くが、おめぇは他に行きたいとこはねぇのか? この時期だ、どこ行っても混んでるだろうが、車借りるとなりゃ行き帰りの気遣いもねぇし、普段よりは楽だろ。」
遠足か修学旅行の行き先を決めるみたいに言われて、譲介は苦笑した。
「他に行きたいところって言われても。」
そもそも、海以外、となると選択肢が多すぎる。
「どこでもいいんですか?」
「二言はねえよ、……キッザニアとか言わねぇならな。」
「言いませんよ!」
最近出来たばかりの子ども用施設を例に出したTETSUは、色を変えた譲介を見て、ニヤニヤと笑っている。
そもそもあんたと会った時には僕もう十五ですよ、と反射で返せば、おうおう、でかくなったもんだと、嬉しそうにからかう彼の顔が目の前にあって。
彼の好意は弟子としての譲介に注がれているもので、自分の気持ちとは全く違っていることは分かっているけれど、譲介はそれだけで胸がいっぱいになる。
「第一、何で湘南なんだよ。」
近ければ近いほど、あなたと一緒にいられる時間がそれだけ長く取れるじゃないですか。
明らかな答えを口にはせずに、譲介は笑ってごまかした。
「人が多いとは思いますけど、行ってみたい場所ってあるでしょう。」
譲介が水のグラスを傾けていると、カップの縁もゆらゆらと揺れた。飲み屋の明かりは薄暗く、小さく丸い水面を、黄色い明かりで縁取っている。
譲介は、中学時代に一度見たきりの、黄色く丸いフラフープを潜り抜けるイルカの姿を思い出した。
「えのすいなら、行ってもいいですか?」とTETSUに聞いてみる。
「エノスイ?」
「江ノ島の、水族館です。」
湘南から近いですけど、と断りを入れ、スマートフォンでホームページを開いて見せると、TETSUは画面に映る青い風景と、譲介の顔を交互に、そしてまじまじと見つめた。
「見たいもんでもあるのか?」
「あ、はい。」
「まさかイルカのショーが見てえとか言わないだろうな、水をひっかぶるだけだぞ。」と実体験を語る年上の人を、譲介は見つめる。
「どちらかと言えば、ウミガメの方が好きですけど。TETSUさん、もしかしてここに行ったことあります?」
「江ノ島はねえな。」
「まさか、一度も?」と譲介は目を丸くする。
「悪かったな。水族館は別にそこだけじゃねえだろ。」
「普段はすみだですか?」
「品川とサンシャイン。」
都内にある水族館の名前をあげながら、昔の話だ、とTETSUは笑って、お猪口に残った酒を飲み干す。
「デートですか?」と譲介が尋ねる。
気軽な風を装えば、TETSUの返事も、同じ程度には軽く返って来る。
「どっちかっつうと、それまでの暇つぶしだな。魚を見てると、普通は腹が減って仕方がねぇもんだが、暗い水槽の中で泳ぎ回ってんのを見ても、それほど旨そうにも見えねえ。」
ひとりごとのように言って、彼は笑った。
譲介は、回遊魚のようにして、ひとり薄暗がりの水族館を泳ぐように歩くTETSUのことを想像した。
譲介と同じ年だった頃の、苦労性の演劇青年。
写真は見たことがあるから、養成所を経たばかりの頃の彼の外見は想像が付く。
恋人までいたのであればなおさら、きっと、今のようには懐に入れて貰えなかっただろう。
波だった譲介の心は、段々と落ち着いてくる。
腕時計を見て「そろそろ行くか。」と彼は立ち上がった。
日付が決まったら連絡しろ、と言って、TETSUは今夜の勘定書きを、譲介の目の前でひらりと持ち上げる。ここは年上の人に譲っておいて、水族館は僕のおごりですよ、と言うのが、この人との「正しい」付き合い方だ。
譲介、と名を呼ばれて、はい、と返事をする。
「当日、おめぇは助手席でナビだ。」
いつでもいいから、免許は取っとけよ、とTETSUは譲介の顔を覗き込んで、十五の頃からそうしているように、髪をくしゃくしゃとかき回した。
譲介は笑みを浮かべて、途中で立ち寄るのに良さそうな店を調べておきますね、と、TETSUの横に立った。
あの頃の身長差は少しだけ埋まって、その分だけ距離が近くなった。そのことに、早くこの人が気づいてくれたらいいのに。
財布から皺くちゃの五千円札を出している横で「来月は僕とデートですね。」と冗談めかして言うと、おめぇの言い方は軽すぎる、と言ってTETSUはいつものように笑った。


powered by 小説執筆ツール「notes」

269 回読まれています