なんとなく



「あれどないすんねん……。」
「どないもこないも、草若ちゃんがしてることに僕からは口出されへんし、本人が飽きるまでは好きにさせるしかないんとちゃう?」
子どもが父の日に買うてきたスカルプなんちゃらシャンプーとヘアブラシは草若兄さんのお気に入りになったらしく、明らかに洗面台の前で鏡を見る時間が増えた。
その上、子どもが勇んで買って来たそのお高いシャンプーは妙な匂いがして、風呂上がりのこちらの「その気」が減退する代物でもあった。
客商売に身だしなみは大事というのは確かにそうだとしても、こちらとしては、そもそもトンチキな悪目立ちする服を着て登場するのがアイデンティティの人間が、今更、そこまで細かいこと気にしてどないすんねん、という気もするわけで。
「……お父ちゃん、腹ん中で思てることあるなら、正直に自分の気持ち伝えたらええやん。」
「お前が言うたらんと、兄さん聞かへんやろ。」
兄さんの生え際が元通りになろうがそうでなかろうが、こっちはどうでもええねん、と言うと、子どもは大きくため息を吐いた。
それがほんまなら、それこそ自分の口から言うことに意義があるんやで、と言わんばかりの顔つきである。
「あんなあ、草若ちゃんの親やった師匠さんて、今の草若ちゃんと同んなじくらいの年で奥さんに死なれて、落語嫌になって引退してたんやろ。」
「誰から聞いたんや、そんなこと。」
「いや、なんやみんなの話し聞いてたら、そういうことなんかな、て。」
「……。」
実際のとこは、一門がマネージメントを委託していた天狗の会長に見限られて、仕事がのうなってしもたせいで、進退窮まったというのが正しい話やが、大人の生臭い話は子どもにはまだ伝えられていないようだ。
ただし、干されてた、という事実を抜きにしたところで、あの頃の師匠がおかみさんが亡くなる前と同じように仕事が出来ていたかというと怪しい話でもあるから、言われてみれば、結果的にはそれで合うているような気がしないでもない。
「草若ちゃんのお母ちゃんて、いわゆる美人とはちゃうけど、なんや写真で見ると落ち着いてて、格好ええ人やった気がするな。」
「まあ美人やったで、……落ち着いてるときは。」
師匠、どないしよ、と言って傷ついた平兵衛を手の中に入れておろおろしていたおかみさんの顔が、なんとなく思い出された。
買い物行って帰って来たら、一緒に飯作って味見してもろて、みたいな内弟子修行中の日常のひとコマみたいなもんは、毎日の話しやったのに、今ではほとんど記憶の端っこからも消えている。

――寒くなったし、カラスもここに連れてきたらええんとちゃう?

雪の降る日におかみさんにそないに言われて、僕はなんと返事をしたのだったか。
冬場に平兵衛と一緒に稽古に出ていた記憶はないので、おそらく、部屋に置いていったのだろう。一度か二度は、あの頃に付き合っていた女に平兵衛を預けて、地方である師匠の仕事について行ったこともあったはずだ。

「おかみさん、何かあるとおろおろしてるとこもよう見たし、そういう時に意地張ってまう草若兄さんとは全然違てたな。」
「そらまあ、……うん。でも、草若ちゃん顔には出されへんけど、ほんまはお腹の中でオロオロしてることもあるんとちゃう?」
ああやっていつでも突っ張ってるとこ止めてみたら、親子で似てるとこあるかも、と分かったような顔で腕組みした。
「まあ、そうかもしれへんな。」
「オロオロする前に僕らが気ぃ付いてあげんと。お父ちゃんも、草若ちゃんが膝乗ってくるの邪険にしたらあかんよ。」
「……。」
こういうとき分かった、と言えばええんか?

「……ふたりして何でそんなとこで立ってるねん。歯磨きしたいなら言わんと伝わらへんぞ。」
「うん!」
鏡から振り返った兄弟子は、記憶の中の、何かに困っている時のおかみさんに似ているように見えた。
「大丈夫ですよ。」
「……何がや?」
「なんとなく。」
言いたなっただけです、というと、そうか、と言ってその人は笑った。

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