バカップル・イン・ジ・アフタヌーン

 ――ああ、ニキも本気で怒ることがあるンだなァと燐音は他人事のように思った。
「ちゃんとお互いの非を認めて謝って! 反省して仲直りするまで絶っっ対出てきちゃ駄目っすからね、わかった⁉」
 ばん、と目と鼻の先で防音の重たい扉が閉じられる。部屋の中に取り残された燐音とHiMERUは、無言で顔を見合わせた。



 事の発端は数時間前に遡る。再来週に控えたアルバムレコ発ライブのセトリを相談しがてらダンスレッスンをする予定だった『Crazy:B』は、いつも通りシナモンに集合していた。「今日の部屋は何番やったっけ?」というこはくの問いに「今確認する〜」とスマホをすいすい操作しながら答えた燐音の顔が、さっと青褪めた。
「り、んねはん……?」
「――まさか天城」
「お、おう……わりィ、やったわ」
 馴染みのテーブル席は一瞬にして不穏な空気に包まれた。レッスン室の予約が見事に漏れていたことに、燐音はこの時ようやく気付いたのである。ESビル内の施設は当然のように満室。他を当たらねばならない。
 それから手分けして複数の貸しスタジオに電話をかけ、空きを確認し、汗をかきながらバタバタと移動をし、ようやくレッスンに取っ掛かることができた。その矢先のこと。
「――こんな初歩的なミスをするなんて呆れてものも言えないのですよ……あなたらしくもない。少々疲れているのでは?」
「あァ? 俺らしいって何だよ」
「ほら。気が立っていますよね、レッスンになど参加せず休んでいたらどうです?」
「てめェこそンな言い方しかできねェワケ?」
「……何が言いたいのですか」
「最近多忙で調子崩してるっぽいリーダー様が心配なのです〜、ってなんで言えないのかねェ」
「は? 誰がそんなこと……」
「昨日もさァ、晩メシねェならねェで連絡のひとつくらい寄越して欲しかったンだけど?」
「それとこれとは今関係ないでしょう⁉ 遅くなるなら食事はどうするか連絡するようにといつも言っているはずですが」
 売り言葉に買い言葉。言い合いを始めたふたりはあっという間にヒートアップして、ニキとこはくには手がつけられなくなってしまった。互いに頭の回転が速く弁も立つこのカップルは、一度舌戦に火がつくとどうしようもなくブレーキが効かなくなるきらいがある。こうなってはもうレッスンどころではない。その結果の強硬手段が、冒頭のニキの台詞だった。



「……出て行っちまったなァ」
「――桜河、呆れていましたね」
「だなァ」
 こはくならば拳骨を振るって無理矢理黙らせることも可能であるはずだが、それすらも無益と判断されたのだろうか。HiMERUは少しだけ焦っていた。歳下で可愛い後輩の彼に愛想を尽かされるのは、正直、きつい。
 もっと言うと今日はここ最近ではたいへん貴重な、全体練習の日でもあった。有難い話だが、各々個性的な『Crazy:B』のメンバーはソロの仕事にも恵まれている。やっと捻出した四人揃う機会が、今回。やるべきことは怒涛のようにあると言うのに、よりによってこの状況下で、仲間の大切な時間をドブに捨てさせてしまったのだ。燐音と……自分のせいで。HiMERUは俯いて黙ったまま拳を握り締めた。
「きゃはは、こりゃあさしずめ『仲直りするまで出られない部屋』っつーワケかァ」
「……」
「メルメル『出られない部屋』って知ってる?」
 燐音が手持ち無沙汰にぽんぽんとステップを踏みながら問い掛ける。こはくの苦手なチャールストン。
「え、ああ……聞いたことはありますよ。セック……性交渉をしないと出られないとか何とか」
「ぶはは、性交渉って! 学者先生かおめェは、ブフッ、何照れてンの」
「うるさいな、どうでもいいだろ。……なんかそういう、条件をクリアして脱出する部屋があるそうですね。眉唾物ですが」
 それが何か? 言いかけて、HiMERUははたと動きを止めた。そういうことか。
「――成程。天城……」
「んん、ハイ」
 先程のが余程面白かったのだろうか、隣の男は未だにやけ笑いを引っ込められずにいる。笑っている場合か。我々は一刻も早く、この部屋から出なければならないのだ。
 HiMERUは一度深く息を吐いて、ゆっくりと吸い、キリッと表情を引き締めて言い放った。

「セックスしましょう」
「コラコラ〜!」

 おもむろに深呼吸をしたかと思えば、こいつは何を言い出すのか。そのお綺麗な顔に真正面から見つめられて思わずときめきそうになる胸を押さえ付け(この顔にじっと見られてときめかない奴がいるか? いやいない)、燐音は吠えた。
「おめェ自分が何言ってっかわかってる?」
 そして思い出してみろ。今は真っ昼間で、ここはダンススタジオで、部屋の外にはニキとこはくがいるということを。
「だって『セックスしないと出られない部屋』って」
「言ってねェなァ〜そうは言ってねェっしょ俺っちは。『仲直りしないと出られない部屋』と言いマシタ」
「ふむ……ですが、同じことでは? 手っ取り早く仲直りしたことを示すにはやはりセックスをするべきです」
「……おまえ稀にヤベエ阿呆ンなる時あるよな。たまにゃ良いけど今はやめてHiMERUクン」
「HiMERUはいつでも正気なのです」
「正気の奴が他人のパンツを脱がせにかかるンじゃねェ〜‼」
 足元でもたもたと絡まるボトムスに足を取られた燐音の、下着のゴムにまで手を掛けてHiMERUは嫣然と微笑んだ。
「HiMERU相手に不覚を取りましたね、天城? 大人しくいただかれなさい」
「ウ〜ンツッコミが追い付かねェっしょ。俺っちバラエティだとツッコまれる方が性に合ってンだけど」
「……何をぶつぶつ言っているんです? あなたはいつも突っ込む側でしょう、ほら」
「キャー‼」
 てめェのそれはちんこの話だろ馬鹿! という渾身のツッコミは、多感な時期の女子みたいな悲鳴に上書きされてしまった。脚の間にちょんと座ったHiMERUが燐音のボクサーパンツをひと思いにずり下げたのだ。
「バッ、てめコラッ……あっ♡」
「ふふ、燐音の、まだふにふにで可愛い」
「……さいっあく……」
 ニキ。こはくちゃん。スタジオのスタッフのおに〜さんでも良い。誰かこのアホを止めてくれ。強姦まがいに服を脱がされ床に押し倒されて、勃ってもねェちんこをいじいじされてるカワイソウな俺っちを助けて。
 燐音は胸中でさめざめと泣いた。しかしどれだけ助けを望めどここは防音のレッスンルーム。二枚の分厚い扉により外界から隔絶されたこの部屋は、さながら真空だ。身じろぐ度に互いが身に着けている化繊の練習着が擦れてしゃかしゃかと音を立てる以外、全くの無音だった。
「……舐めます、ね」
「ッん……ぁ、」
 ここ二週間ほど本当に忙しかった。とにかく死ぬほど忙しくて、二週間触り合いすらもできなかった恋人から与えられる待ち望んだ刺激に、燐音の中心はいとも簡単に芯を持って上を向いた。傍から見れば相当クレイジーな状況だと言うのに素直なことだ。
「はむ、んぅ、ん、はぁ」
「……、」
 いやいや、〝はむ〟って口に出す奴がいるかよ。いたわここに。しかもちゃんと可愛いわ。なんでだよ。
 久しぶりだからか、HiMERUの拙い口淫にもしっかり反応してしまう。小さな舌先が先端の窪みを抉るように蠢くと、この頓痴気なシチュエーションに頭は置いてけぼりなのに、快楽に従順な身体は腰を突き出して悦ぶ。悔しいが気持ちいい。
「っは、メルメル……、奥まで、咥えて」
「んぷ、う……むぐ、こう、れふか?」
「うあ……そーそ、手も、動かして」
 彼の右手を取り竿の根元へ導く。そこを握らせた上から自らの手で包み上下に動かせば、まるで挿入しているかのような錯覚に囚われた。静かな部屋に響くぴちゃ、ぷちゅ、という湿った音に否が応でも高められていく。
「っ、わり、でる」
「うう……? んひゃ、」
 抜かなければと思ったがひと足遅かった。真っ白い光がちかちかと弾けて視界を埋めて、襲い来る強い快感に眉根を寄せて感じ入っている間に、燐音は呆気なく吐精してしまっていた。あろうことかHiMERUの、顔面に。
「ウッワ、やべェ〜ッ」
「……?」
 動揺する燐音を余所にその股座に屈み込んだまま、半ば呆然としたHiMERUがぺたぺたと自らの頬に触れた。次いで指に纏わり付く欲望の残滓をまじまじと眺める。そこでようやく己の所業を顧みたのだろうか。先刻まで顔色ひとつ変えずに燐音を襲っていた美しい男は、ズサーッと効果音がつきそうな勢いで猛烈に後退りをした。口元を覆って激しく瞬く彼の端正な顔は耳の先まで真っ赤で、乱れ散らかった淡い色の髪にも白濁が飛んでいる。有り体に言えば非常にそそる反応である。一度射精して小ぢんまりとしていた燐音の下半身は、再びずくりと質量を増した。
 ……ま、いっか。後のことは後で考えればいいっしょ。
 爆発しそうな興奮の前にあらゆる事象は無力。燐音は脳内のスイッチを『理性』から『本能』の側へとぱちりと倒して、壁を背にして座り込むHiMERUへにじり寄った。
「メールメル♡ 続き、するっしょ?」
「あっ、りん、燐音、まって」
「ン〜、待たねェ♡ 誘ったのはおまえだもんなァ、要?」
 清々しいほどの笑みを浮かべて迫る燐音の手にはコンドームの包みとローションのミニボトルが握られている。
「おめェのバッグ漁ったらあったンだけど〜、これ」
「そっ、れは、あんたが所構わず盛るからっ……!」
「きゃはは♪ そうだったなァ〜。わりィわりィ、しばらく抱いてやれなくて寂しかったっしょ? 今からたァ〜ぷり愛してやっから、仲直りしよーな♡」
 獲物に狙いを定めた男は碧の瞳を眇めて獰猛に笑い、ねっとりと舌なめずりをして見せた。あ、やばい、とHiMERUが考える隙すらも与えぬよう、がっちりと手首を捕まえる。怯えて震えた喉が「ひっ」と引き攣った音を発する前に唇同士を合わせてしまえば、後は容易い。HiMERUの恥じらいも恐怖も何もかもうやむやにして制圧するべく、燐音は彼のTシャツの下へ侵攻を開始した。



 ガチャと軽快な音を立て防音扉が開く。床を見ていたニキがそちらへ視線をずらすと、燐音とHiMERUが連れ立って部屋から出てくるところだった。
「ごら、遅いんじゃ。ほんまに仲直りしたんやろなぬしら」
「したした! ご覧のと〜り〝仲良し〟っしょ♪」
 ジト目で睨み付けるこはくにウインクを返す燐音は、HiMERUの肩を抱いている。よくよく見れば彼はぎりぎりと力を込めて無理くり隣の男を引き寄せているし、引き寄せられている方の彼も肩を掴む手をぎゅうぎゅう抓っている。
 ――うん、いつも通り……かな……?
 些細な違和感を感じたけれど、本人が大丈夫と言うならそうなのだろう。ただでさえレッスンで腹が減る上に、身内の痴話喧嘩など見せられようものなら、二倍も三倍も体力を持っていかれてしまう。
「ほーんと勘弁してほしいっすよふたりとも。喧嘩するなら僕らがいないとこでお願いするっす! ねっこはくちゃん」
「まったくやわ。わしとニキはんにもごめんなさいしいや」
「ハイハイごめんって」
「――ごめんなさい。ご面倒おかけしました」
「うん。じゃ、さくっとセトリ決めてさくっとレッスンして、みんなで美味しいご飯食べよ」
 ニキは朗らかに笑い、扉の開け放たれたレッスンルームに向かいながら何気なく、本当に何気なくすれ違いざまにHiMERUの背をとんと叩いた。すると、
「っん……♡」
 HiMERUが鼻にかかった甘い声を漏らしたのだ。聞き間違いだと信じたいニキは、しかしその肩を抱いたままの燐音とバッチリ目が合ったことで全てを理解せざるを得なかった。助けを求めるようにこはくを見るも、彼は気付いていないようだし、歳下のあの子にうちのバカップルがレッスン室でセックスしてたぞ、なんて言えるわけがない。
 そして燐音の視線から逃げるように扉の中に駆け込んだニキは、いよいよ叫び声を上げることとなる。

「イカ臭いっす‼」

 ああ、あのひと達ふたりしてどっか宇宙空間とかに閉じ込められて、二度と出て来られなくなっちゃえばいいのに。
 胸の内で盛大に悪態をついてから、ニキはこの現実から目を逸らすべく、夕飯の献立を考える頭へとさっさと切り替えた。





(燐ひめ利き小説企画お題『出られない部屋』)

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