わすれもの

 肩に雪虫がとまっていた。
 手で払ったら、勝手に潰れて指とコートが汚れた。舌打ちしてポケットにもう片方の手を突っ込んだところで、電子タバコを先ほどまでいた女の家に忘れたと気づいた。クソデカい溜息をつく。すれ違ったスーツの男に二度見される。
 今日の撮影の前に一度帰宅してシャワーとメイクを済ませるつもりだった。午前集合はただでさえダルいのに、出鼻をくじかれた気分だ。イライラしながらコンビニに入り、ホットスナックのコーナーから適当に買ってセルフレジで済ませる。
 冬の朝日は眩しくてうんざりする。マスクをずらしてハッシュドポテトを一口齧ると、角度の低い光に白い息が透けて消えていく。駅に向かって流れていく雑踏と真逆の方向に歩いて、自宅に着いた。
 オートロックを解除してエレベーターに乗る。七階に到着して、あくびをしながら降りると——オレの部屋の前でうじゃめが蹲っていた。
「はっ?」
 思わず間抜けな声が出る。その声に気づいたうじゃめが顔を上げた。
 オレを認識して目つきが鋭くなったうじゃめはさっと立ち上がり、「オマエ、電話出ろよっ!」と言った。あ? 電話? レンタルしたモバイルバッテリーに繋いで放置していたiPhoneの存在を思い出して取り出すと、うじゃめからの着信履歴が鬼のように残されていた。
「あー……」
 通知欄から窺えるLINEの文面から、オレの遅刻を憂慮したうじゃめが迎えに来たようだ。
 頼んでねーよ、と言おうとしたところで、別の部屋からゴミ袋を携えた住人が出てきた。廊下で言い合いをしているオレたちをぎょっとしたように見て、そそくさとステーションの方に歩いて行く。
 舌打ちをして、部屋の鍵を開ける。文句を言い足りなそうなうじゃめを押し込んで、後ろ手にドアを閉めた。
「あのさぁ、集合が午前なのは知ってたから。だからコッチも考えて準備してっからさー、余計なことしないでくんねぇ?」
「どうせ今から風呂入ったりして結局遅刻するだろ、りょうたんは」
 心当たりはあるので、すぐに言い返せなくて言いたいことが喉の奥に詰まる。言葉にできない不快感がぐるぐると胸の中を渦巻いていっぱいになっていくこの感覚が、いつも我慢できなくて、なんでこんなに苦しいのかがわからなくて悲しい。拳でドアをがん、と叩いてスニーカーを脱いで部屋に上がる。オイ、とかなんとかうじゃめが焦ったように後ろで言っているのを全部無視して、コートを床に脱ぎ捨てる。干しっぱなしのタオルを毟り取って洗面所に向かった。
 ピアスとカラコンを雑に外し、ヘアバンドを着けてクレンジングを手のひらに出す。心を虚無らせることに集中する。
 ……。……。
 ぬるま湯で流し、タオルで拭いてから顔を上げると、後ろにうじゃめが立っているのが鏡に映っていた。
「何お前、オレがちゃんと時間通りに準備できるよう見張ってるつもり?」
「そうだけど」
 過干渉もここまで来ると馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。
「お前がママなのはチーくんだけにしとけっつの」
「は? 千尋は今関係ないだろ」
「ハイハイ」
 本当に何もわかってなさそうな表情に胸がちくりとして、シャワーの準備をする。どこまでも着いてこようとするので、「中で動画とか見んなよ、マジで時間無ぇから!」と捲し立てるうじゃめを制して浴室に向かった。
 体温より熱いシャワーに打たれて、冷えた身体がぬるくなっていく。
 このままずっと濡れていられたらいいのにと思った。髪が少しずつ束になって頬に張りつく感覚も、瞼の上を雨のように湯が滑っていく感覚もそのままに、じっとオレの身体を見下ろした。
 何度目かの整形をしたとき、変わっていく顔に期待と同時に、初めから諦めを抱いていると気づいて、オレの魂はとっくにほぼ死にかけているのかもしれないと思った。
 それに、……それでも、……アイツらがいるから。勝手に悪い方向に転がり出しそうな心(なんか昔のボカロを思い出した)にブレーキをかけて、濡れた髪を触った。
 いつもなかなか出来ない気持ちの切り替えが今日は珍しく出来た。マジプロいわ。
 でも、それはうじゃめが近くにいるからかもしれないと思った。
 磨りガラス越しに、脱衣所の床に座るうじゃめの赤と白の輪郭だけが見える。健気だなー、とぼんやり考える。ちゃんと把握しているわけじゃないけど、公言しているプロフィールの身長は盛ってると思う。だって小せぇから。
 小せぇ身体で走り回って、メンバーのことを一番に支えようとしているこの男は、冬の太陽みたいに眩しい。眩しいと、考えたくないことをしまいこんだ奥の方まで無邪気な明るさが届きそうで、怖い。
 だから、近くにいるのに、はっきりとシルエットが見えないその距離の曖昧さが、今は心地よく感じた。
「なぁ、寝てる!?」
「うおっ。……寝てねーよ、うっせぇなマジで」

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