傷口と傷跡

 はいこれ、と軽く手渡されたものと、手渡してきた人物を交互に視認して、はぁ? と首を傾げる。目の前のこいつは、いつもと変わらぬ伊達眼鏡の向こう側で人好きのする瞳をにこやかに細めていた。楽しそうだ。何が楽しいのかさっぱりわからないけれど、こいつは大体いつもそうだ。こんな作られた世界の中でも。理解できない。
「何」
「何って、ピアッサー」
「物くらいわかる」
「あ、そうなんだ。見たことあるならよかった」
 何がよかったのかわからないが、こいつはぱあっと嬉しそうに笑った。それと反比例して、自分の眉間に皴が寄るのがわかる。
「使い方わかる?」
「こんな単純なやつ、わからない方がおかしいと思うけど」
 てのひらの中にすっぽりと納まるサイズの小さな仕掛けに視線を落とす。単純な機構だ。押さえればその先が押し出されてその先の皮膚を破り肉に穴が開く。ただそれだけ。
「だよな。手伝ってほしいんだけど」
「自分でやれよ」
「無理。変な場所に開けたくない」
「はぁ?」
 こいつの自室であるルブランの屋根裏部屋、未だにほんの少しだけ埃っぽい空気が開け放たれた窓から押し流されていく。一月の冷えた空気が、ストーブで暖められたぬるい空気を薄めていった。
 頼みたいことがあると言葉少なにメッセージを送ってきたから、内容を聞いたうえで鼻で笑ってやろうとわざわざ出向いてやれば、こいつは自室のテーブルの上に消毒液と鏡とピアッサーを準備してようこそ、と出迎えてきたのだ。
 手の上に乗せられた小さな機構は、ただそこに存在している。
「お仲間に頼め」
「誰も捕まんなくて」
「つまらない嘘をつくなよ」
「あはは」
 今のやり取りになんの笑いどころがあったのか自分には理解できない。不愉快だ。こいつが考えていることが手に取るようにわかる時もあれば、こうやって全くわからない時もある。不愉快なのに、気付けば目が勝手にこいつを追う。理由がさっぱりわからないし、そんな挙動をする自分の脳も理解しがたい。
 ピアッサーを押し付け返して帰ろうと思ったのに、こいつは俺のコートの端を握って離さない。
「いいじゃん。お前に手伝ってほしいんだって」
「………僕だって暇じゃないんだけど」
「なんにも企んでないってば」
 今は利害関係の一致してる仲間でしょ、と笑うこいつの声はやはり楽しそうだ。太いフレームと飾りガラスの向こう、長めの前髪に隠れそうな黒い目がじっとこちらを覗き込む。そんなに時間かかんないからさと言われて、はぁ、と大きな溜息を吐くしかなかった。
 そういえばこいつは言い出したら引かない大馬鹿だった。自分の命をぽいと軽く天秤の片方に放り投げるような、そんな挙動をするやつ。
 それが、仲間への大いなる信頼で成されていることも知っている。俺が持つことができなかったもの。持とうと思わなかったもの。見てこなかったもの。
 なぁ頼むよ、と畳みかけられて渋々肩の力を抜いた。意地を張っている方が馬鹿に思えてくる。無言でマフラーを解いてコートを脱ぐ。適当に椅子の背に引っ掛けて、手袋をぽいとコートの上に放り投げた。
「このあたりでお願い」
 にこにこと椅子に座って、こいつは自分の左耳を指す。自分で既に印を付けたらしく、左の耳朶にちょんと小さな黒い点が書いてあった。準備されていた消毒液を手に取る。両手に塗り広げれば、気化熱であっという間に手が冷えた。さっさとこいつの希望を済ませて帰った方がいい、そう自分を納得させるしかなかった。こいつの思い通りになってやるのは癪だったけれど。
 ピアッサーを握る。眼鏡を外して横を向き、ん、と委ねてくる姿に再び眉が寄りそうになった。どうしてこいつは、こんなにも自分を信頼してくるのだろう。自分は、こいつに信頼など預けていないのに。
 至近距離、丸腰。自分が害されるものを何も持っていないことを前提にした距離だ。もしこの瞬間、俺がナイフを取り出せばあっという間にこいつの首を掻き切ることができる。なんならサイレンサー付きの銃でもいい。あの時尋問室で打ち抜いたように、今度はこいつの側頭部から打ち抜けば、実際こいつは呆気なく死ぬ。
 一度殺されかけた人間に対して許す距離ではないことだけはわかる。その距離を許す、こいつの気持ちがわからない。わからない。わからなくて、苛々する。
 そしてこの距離を受け入れてしまっている自分にも苛つく。ぐちゃぐちゃに絡まった感情と事実の糸を一つずつ丁寧に解いていけば、その奥の答えに辿りつくことは簡単だ。けれど、それをしてしまうのは自分のプライドが許さなかった。答えを得てしまえば、自分はそれを否定することができなくなるだろうから。
 自分は自分がわからない。わかっている場所もあるけれど、わからない場所もある。それがどうにも不愉快だ。しかもこいつが絡んでくると、なおさらわからない場所が増えてしまう。
 嫌だ、悔しい。妬ましい、不愉快だ。ぐちゃぐちゃに絡まる感情が邪魔をする。
 どうしてお前は、俺にこんな距離を許すんだ、蓮。
 ピアッサーを構える。そっと彼の耳朶を挟み、針の先を印の上に合わせる。一息の後に、思い切り握り締めてやった。ばちん、と小さな機械音と共に彼の耳朶に針が貫通した。生理的な反応であろうが、彼の体が一瞬びくりと強張ったことに少しだけ溜飲が下がった。
「ほら」
 これでいいだろ、と使い終わったピアッサーを机の上に置く。もう一度手を消毒していれば、彼はまじまじと鏡でピアスの場所を確認していた。うん、と嬉しそうに頷く姿が視界の端に見える。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 あれだけ異世界でやり合ってお互い傷つきボロボロになったというのに、もうそれぞれの体には何一つ傷は残っていない。今自分が空けたピアスホールだけが蓮のからだに残る真新しい傷だ。きっとこのまま残り続ける傷跡。意図して塞ごうと思わなければ、ずっとそのまま。
 眉が寄る。こいつの思っていることを考えたくない。
 用事は終わったとばかりに再び手袋を付けなおしコートを羽織る。まだあいつは鏡の中の自分の姿を確認していた。ちょんと指先で嵌ったピアスに触れている。こいつが片方だけピアスを開けたがった理由はわからない。意味も知らない。調べるつもりもない。左側の耳朶だけを飾る金のピアスが、ほんの少しの光を集めてきらめいた。
「明智」
 マフラーを巻こうとしていれば名を呼ばれる。何、と振り向くと、存外に強い力で顎を掴まれた。そのままお互いの唇が触れる。一瞬だけの触れ合いは熱も感情も何も残すことはなく、すぐに離れていく。
「ありがとう」
 囁く声は低く掠れていて、眼鏡を通さない彼の瞳は嬉しさを滲ませていることが分かった。
「そう」
 彼の手を振り払う。マフラーをしっかりと巻いて、鞄を手に取る。
「またな、明智」
 ひらりと手が振られる。それを確認して階段に足を向けた。俺は、こいつのこういうところが本当に大嫌いだと思った。

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