リクエスト



雪が降っていた。
譲介はひとり、診療所に居残って、数Ⅲのテキストを広げていた。天候の確認のために付けているラジオの音が流れ、台所からは煮炊きの音が聞こえて来る。
視界の端には、勉強の合間に食べなさいと言われているのど飴とチョコレート。
今日一日は、留守居役だ。先生は電車に乗っていつもの大学へ行き、麻上さんと村井さんは診察に出ている。
今年の始めまで通っていた予備校の講師の声を思い出しながら練習問題を解いていると、窓からは音もなく降る雪の景色が見えた。
これが一也が見てきた景色か、と譲介は思った。
最初に、あいつからナイフを取り戻してやるつもりでこの診療所を訪れた時には、ただ古ぼけた家だと思っていた。暮らしてみて気づいたことだが、この診療所は、建付けが悪く、冬には隙間風がぴゅうと入ってくることがある。その代わりに暖かなストーブがあり、冬になっても色んな人がK先生を頼って診療のためにやって来た。
先月は、足首を捻挫してしまった男性が、そのまま二週間、生活に支障がない程度に回復するまで泊まりで入院していた。数日から一か月程度なら入院も可能だと聞いた時には、へえ、と思ったが、考えてみれば、昔から村で唯一の診療所だったのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれなかった。
入院患者の名は、佐治さんと言った。共に食事を取ることはほとんどなかったが、譲介は、早起きの彼と朝に夕に、たびたび洗面所で顔を合わせ、挨拶をした。
時折、勉強の進みはどうだ、とも聞かれたが、譲介だけが毎日カレーを食べ続けていることについては何も言われなかった。話し好き、というほどではないが、世間話で入院中の無聊を慰めようと言う人の気持ちは、譲介も短期の入院を経験したことがあるので分からなくもない。
勉強の合間に、突進して来た猪を避けそこなって足をくじいたという話と、猟銃の使い方の話を聞いた。
佐治さんは、見たところ、イシさんや村井さんと年頃はそう変わらないように見えるのに、妙に気やすく話せる人だった。君のことも話してくれ、と言われて、譲介は、自分の生い立ちを、ぽつりぽつりと彼に話していた。佐治さんは聞き方がいいのか、譲介は、自分でも思ってもみない己の心の中を見つめ直すことになった。かつての自分を拾って、共に暮らしてくれた人への恨み言など、言うべきではないだろうと思っていたのに、かさぶたになっていない傷口から膿を出すように、色々な思いが口を突いて出て来た。公言すべきではないだろうと思っている辺りは伏せて、模索しながら話したはずだが、それでも。
話し過ぎたと思い、ばつが悪くなると、譲介は代わりに佐治さんの話を聞いた。
先生の診察を横で見ていると、問診に限らず、相手の話を傾聴し、言いたいことに耳を澄ませることには技術がいるのだと思っていた。けれど、佐治さんと話しているとなぜか、自然にそれが出来ている、と思うことが出来た。
いつぶりのことだろう。
かつての自分は確かに、このような生活をしていたこともあった。
色も、匂いも、音も、すべてがぼやけてしまった思い出の中で。子どもだった譲介は、母に身体を預け、たしかに、絵本を読み聞かせる声に耳を澄ませていたのだ。
去年の今頃は、時々家に来る来客の応対や、同居していた人の看護人見習いのような生活をしながら、ガヤガヤとうるさい高校に通って暮らしていた。数年前は、もっと多くの他人と一緒に寝起きをしていた。保護者の言葉以外は、誰の話もまともに聞かず、ただ受験に合格し、大学と言う次のステップに進むことだけを考えて。
大学受験を今年も帝都一本に絞ると診療所の皆に伝えた時、もし受験に失敗すれば次の年もここにいられる、と思ってしまった。
大学に受かれば、今の生活を手放して、またあの騒々しい学生生活に戻ることになる。
ここを離れたら、また、あの頃のすさんだ自分に戻ってしまうのではないか。譲介が懸念しているのは、まさにそのことだった。


カレーが出来たぞ、とイシさんの声がする。
譲介は物思いに沈んでいた意識を浮上させた。
開いたノートの新しいページは真っ白で、まだ何も書かれていない。
時計を見る。麻上さんと村井さんはもうあと三十分もしたら戻って来るだろう。
いつもは、あの二人が帰って来てからの給仕になるのに、とは思ったけれど、考えてみれば、今日は特別だ。イシさんも雪が吹雪く前に家に戻る必要がある。
いつものカレー皿に載せられたカレーが、暖かい湯気を立てていて、譲介はその匂いに抗えない。
譲介は、患者さんの待合用に入れたポットから新しい茶を汲んで、食卓についた。
食卓にある椅子は、診療所にいるメンバーの数よりも多い。それも、入院患者や、村の人との酒盛りを多く受け入れていた頃の名残なのだろう。
そんなことを考えながら口にしたカレーに入っていた肉は、豚や牛コマより大きく、ちょっと硬さがある。「今日のカレー、いつもとは肉が違うみたいッスけど、いつものスーパー以外のところで買ったんスか。」と譲介が聞くと、これか、とイシさんは言った。
「佐治んとこから来た猪肉のカレーだ。退院祝いってんで、でっけえのを持って来よった。まだ塊の半分が冷蔵庫に眠ってるわ。」
葱を片手にしたイシさんがそう言ったので、譲介は驚いた。
ベッドに腰かけて足首をぶらぶらさせていた彼と話していたのは、ついこの間のことだというのに。足はもうすっかり良くなったのだろうか。
知った人の顔を思い浮かべて食べた猪肉カレーは、なぜか、さっきより美味しく感じられた。
「猪の肉って、こういうのなんスね。」と譲介はスプーンを動かす。
「少し残して夕飯にしろ。だが、今の時期は鍋の方が美味ぇぞ。」と夕飯用の野菜を切りながらイシさんが言うので、譲介は張り合って「カレーの方が絶対に美味いです。」と言った。
「おかわりはあるぞ。」というイシさんの合いの手に「カレー皿にまだ半分残ってますよ。」と、譲介は苦笑する。
食事中の自分が笑っていることに気付いた譲介は、無心で動かしていたスプーンの手を止めた。
作り立てのカレーを食べ、カレーを作った人に美味いという。
当たり前のこと過ぎて気付いていないふりをしていたが、受験に合格すれば、このカレーとも、イシさんとも、K先生や村の人たちともお別れになってしまうのだ。
(僕は結局、またひとりで放り出されるのか。)
出て行くのは自分の意思であるのには違いないのに、譲介はふと、そんなことを思った。
帝都大は東京にある。
きっとこの猪肉のカレーよりもずっとスパイシーでずっと美味いカレーを、新宿かどこかで食べることが出来るだろう。けれど、そこにはイシさんも先生も、麻上さんも村井さんもいない。
何より、こんな風に、自分を安心した気持ちにしてくれる料理は他のどこにもない。
譲介は、台所で立ち働く人の背中を見つめた。
葱を切り終わって、次は大根を切っている。
夕食は、おそらくは猪肉の鍋。
普段の診療所の皆で鍋を囲む。村井さん、麻上さん、いつものバスの時間に間に合えば、先生も一緒だ。その輪の中に、譲介もカレーを食べながら参加する。
最初は違和感を感じることもあったけれど、今はもう気にならない。
「イシさん……僕は、大学に、行かなきゃならないでしょうか。」
口をついて出た言葉だった。
譲介は、今のは冗談です、と言おうとしたが、イシさんは、何言ってるだか、と言わんばかりの顔をこちらに向けているのが分かったので、言い直すことを止めた。
「すいません。先生が僕をここに住まわせてくれているのも、ドクターTETSUの代わりにこうして僕を預かってくれているのも、大学に合格するまでの短い間の限定だから、というのは分かっちゃいるんですが。」と譲介が言葉を濁すと、イシさんは、口をつぐんだまま、譲介に「こっちゃ来い。」と手招きした。
流しのまな板の上に、半分に切られた太い大根が乗っている。
「手に持って、その切り口さ見てみぃ。」と言われて、譲介は半分に切られた大根に手を伸ばした。白い大根と違って、切り口の部分は半透明に見える。
「瑞々しいじゃろ。」と言われ、譲介は首を傾げた。
大根の断面より人間の断面図の方を見慣れてしまった譲介にはイシさんの言う「瑞々しさ」の違いが全く分からないが、イシさんに、これがいい大根なんじゃ、と言われてみれば、確かにそうかもしれない、と思う。
「雪に埋まった下から掘り出すと、こういう瑞々しい大根が出来る。鍋や煮物に入れりゃあ、そりゃあ柔らか~くなるんじゃ。」と言って、イシさんは譲介の手から大根を取り上げ、まな板の上に戻した。
それから、こちらに背を向け、いつものように皮を桂むきにする。それから輪切り。
リズミカルな包丁の音が再開した。
夕飯の支度を手伝え、と言われるでもなくただ放置されて、譲介はぼんやりと、自分より一回り小さなひとの、大きな背中を眺めた。
麻上さんと村井さんのために火を入れたままのカレーが、弱火にあぶられてくつくつと煮える音がする。
(せっかくの佐治さんの肉が、固くならないだろうか。)
譲介は頭の隅でそう考えながら、「あのぉ、イシさん……。」と目の前の背中に問いかける。
「冬の大根は、冷たい雪に埋まってこそ美味くなるでな。……おめぇも一遍、ここに埋まってみるか?」
「……え!?」
うっかり大きな声が出てしまった。
母が蒸発して以来、行く先々で、顔は良いが生意気だとか、その目付きが気に食わないと散々に言われてきたが、流石に、お前は大根だ地面に埋まってみろ、と言われたことはなかった。
いくらなんでも大根というのは。
比喩にしたってたとえが酷いが、イシさんはごく真面目な顔で話を続けていく。
「先生も大学は出てないんじゃ。おめぇがここにこのままいたいと言うんなら、口ではどう言っても、拒みはせんじゃろて。」
「まさか。」と譲介は反射で口にはしたが、これまでにドクターTETSUから聞かされたK一族の話が脳裏に浮かんでくる。
そもそも、あの人自身、金と強力なコネで闇医者として世渡りしている人だ。
先生が、一族の人脈やその他の権力者の繋がりか何かで医師免許を取得していたとしても、全くの不可能ではないかもしれない、と納得してしまう自分がいた。
「もしかして、先生の大学の卒業証書が医師免許の横に見当たらないのって……。」
「元々ないからに決まっとるじゃろ。」
続くイシさんの言葉に、譲介は目を丸くした。
いや、もしも、大学に行かずに医師免許を取得する道がどこかに開けているとしても、譲介がK先生の境地に達するには、あと三十年研鑽を積んだところで難しいだろう。先生は、譲介があさひ学園で他の子どもを脅していた年には、もう既に何件かの手術をこなしていたと聞いている。センスと、年季、それに基礎体力が違う。
一か八かで同じ道を行けるか模索しながらここで生きていくよりは、大学に入って医師免許を取ってここに戻って来る方が理にかなっている。それが賢い道だと、譲介だって分かっているのだ。
……医師免許か、と譲介は思う。
本来ならば、それがなければ医療行為は出来ないのだ。
医療のいろはから教えてくれたあの人でさえ、免許を持っていた。
トップクラスの大学の医学部でなければ、教える方も、免許を持ってるだけのポンコツが多い、とあの人はよく腐していたけれど、今の譲介にはその三流大学ですら、入学資格すらない。
「イシさん……あの、僕は、大根じゃないですが、」
「んなこたぁ、オラだって分かっとるわ!」
いきなり怒鳴られたというのに、譲介は、イシさんのその元気な大声に、不謹慎にもアハハ、と笑ってしまった。
ですが、の後に、何を続けようとしたのか。
答えはもう、自分の中にある。
かつて、あの人に自分が見いだされた理由が、鼻っ柱の強いプライドと上昇志向、そして負けん気にあることは分かっている。
人の中にも土の中にも、埋もれたいと思ったことは、これまでの人生で一度としてないけれど。譲介は、初めて自分で選んだ師の背中を見つめながら、この美味しいカレーの前に膝を折って、世界の果てのようなこの土地に留まり続けるという道を、選んでみたい、と思った。
周囲に前ならえして進学し、二流の学校で大学生になる人生よりはずっと有益で、かつ、自分にとって後悔しない道筋になるだろう。そんな気がしていた。


「ただいま。カレーのいい匂いがするわね!」
「譲介君、ちょっとお茶を入れてくれないか。」
玄関扉が開き、寒風と共に麻上さんと村井さんが戻って来た。
ふたりが、外套にまつわりついた雪を払ってしまうと、もうすっかりいつもの診療所の空気だ。
カレーを作ってもらったからお昼にしましょう、と譲介が言うと、麻上さんが「今日のカレーなんですか、譲介君が先に食べちゃったってことは、いつもと違う味でしょう。」とイシさんに尋ねている。
イシさんは、いつものように黙々と調理を続けている。
譲介は、炊飯器の蓋を開けて、帰宅早々の二人分のライスを盛り付ける。
それから、自分の皿にはひときわ大きくご飯を盛って「僕の分も、おかわりお願いします。」と。隣のしゃっきりと伸びる背中に向かって、いつものリクエストをした。








Fuki Kirisawa 2024.02.08 out

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