家出


「はい、お父ちゃん、これ。」
帰るなり、おかえり、と寄って来た子どもに玄関先で車の鍵を渡された。
ボタンひとつでドアの開閉が出来るという最先端の車だが、背中に替えのタイヤを乗せられる辺りが古いような気がする。
草若兄さんの趣味で途方もない金をかけて買うた車は、ブームが去って諸々のタレント活動が終わりを迎えた途端に手放すことになった。それほど高く売れた訳とは違うけど、子どもがあれカッコええなあ、という四輪駆動の新車をちょっと手出ししたくらいで買えるほどには戻って来たわけだ。
「米かトイレットペーパーでも切れたんか?」
「ちゃうけど。」
「シャンプーとか洗剤?」
「それもちゃう。ていうか、いい加減買い物から離れて欲しいんやけど。」
「ほな、なんで僕が仕事して帰って来た早々に、運転せなあかんねん。」
歩いて買い物行くよりずっと簡単やと思うてるかもしれへんけど、大人は疲れるんやぞと言う顔で子どもを見ると、「僕やのうて、先にあっち見てや。」と子どもが奥の部屋のテーブルの上を指さした。
正確には、テーブルの上に置かれた紙切れのようだった。
目が悪いわけでもないが、書かれた字を読むには近づくしかない。
どうせ家に帰ったなら茶の一杯でも飲まなやっとられんぞ、と言って狭い家のキッチンスペースまで移動して、冷蔵庫から麦茶のボトルを出すと、さっき目に付いたその書置きにはひとこと、実家に帰らせていただきます、とあった。

……実家?

日暮亭の外観の巨大な箸を思い浮かべている僕の横で「そういうわけで、今日は僕と二人やから。外に食べに行こう、て話。」
子どもはしれっとした顔で、棚からグラスをふたつ出した。
「おい、なんやこれ。」
「それな、今日は小浜に行って来るて意味やと思うで。オチコのおばあちゃんとことちゃう?」
ちゃう?やないぞ……。
ほんま、草若兄さんが、寝顔は世界一可愛いと言うただけのことはあって、寝顔以外はまあ……年相応になってきたちゅうか……。
「オチコのとこのおばちゃんが、大人も、気持ちのジェットコースターみたいなもんがあるから、落ち着くまでちょっと待ってあげなあかんよ、て言うてたから、そういうもんやと思って、お父ちゃんも堪忍したって。」
堪忍て、お前はいくつやねん。
もっと腹立てたらんかい、とは思うが、突拍子もない行動に走る大人を見ていると子どもが大人になるのは良くあることだった。
正直、腹を立てるよりは呆れているのだと思う。
「……草々おじさんも、夫婦喧嘩になったら小浜に行くてオチコが言うてたし、草若ちゃんときょうだいふたりして、行動がそっくりやねんな?」
兄弟そっくり、か。
「喧嘩はしてへんぞ。ただ焼き鯖が食べたなっただけかもしれへんやろ。」
まだ、という言葉は抜けているが、本当にまだのはずや。
「……僕、何も言うてへんけど。」
口が滑ったことに気が付いても後の祭りや。
子どもがこちらを見て、ほんまに喧嘩したんとちゃうやろな、という疑惑の目を向けて来るのがいたたまれない。
慌ててコップに注いだ麦茶を飲み干すと、この頃の僕が嫌ってた『誤魔化す大人』の一丁上がりや。
このところはずっと仕事で忙しいにしてて、手も出してへんかったな、と思い出した。
最近してへんな、と思うと、なんや今からでも抱きたいような気がして来るから不思議なもんや。
まあこの時間なら、ホテルに居るならともかく、若狭の実家で泊まってるなら無理やな。
「明日も仕事あるし、お前もガッコやろ。今から小浜は無理や。」
「そんなん分かってるて。けど、こういうときは、草若ちゃんに怒ったり、なんで出てってしもたんやろ、て解決策を考える前に、まず腹ごしらえせなあかんやろ。僕が作るのでもええけど、明日の朝に今日の残り食べること考えたら、今日の夕飯は食べたいもんスーパーで買って来るか、外で済ますんもええんとちゃうかと思って、そんで車の鍵渡したんや。牛乳も足りてへんし。」
「……それを順序だてて話せばええやろ。」
「ゆっくり話してたら、道路混んで来る時間になってまうやん。」と子どもは顔を上げて掛け時計を見上げた。
「四時半か。」
確かに、そろそろ道路は混んで来るし、この辺のスーパーと飲食店は同じ方向になる。
「何が食べたい?」
「お父ちゃん、そろそろきつねうどん以外のもの食べるようにしたったらええと思うで。」
……ホンマに生意気になって来たな。
きつねうどんでええのと違うか、近いし、と言うたところで相手は食べ盛りだと思って遠慮したところで、そもそもの相手に遠慮がない。
「……お前の弁当に持たせた残り、ちゃんと食べとるわ。」
「それはまあそうか。」
いつもありがとう、と子どもはおまけのように付け加える。
「あのなあ、隣町の、あの靴屋のあるとこの近くに越前そば食べさせるお店出来たらしいって、オチコのおばちゃん言うてた。」
「店の名前は。」
「覚えてる。」
「ほな、そこにするか?」
「僕、こないだの焼き鯖寿司食べたいな。あれ、ほんまに美味しかった。」
「店にあったらな。」
ふたりで美味しいもん食べて、出掛けた草若ちゃん悔しがらせたったらええと思うよ、と言って子どもは楽しそうに笑っている。

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