月の裏側

 『ノー残業デー』なんて銘打たれた水曜日。ことうちの場合は社員のためと言うより、ワーカホリックのきらいのある副所長への配慮なのだろう。毎週この日はコズプロ事務所がさっさと空になる。
 月のない夜だ。照明が落とされ、時折ブウンと空調が唸る以外はひたすら静かな暗闇の中に、燐音はいた。明日が提出期限の書類をうっかり事務所に忘れ、取りに戻ったのだ。
(メールで済ましてくれりゃあ良いものを……今時わざわざ、紙で提出する意味はあんのかね)
 ニキあたりに取りに行かせようかとも思ったが、バイトが忙しいとかで生意気にも断られた。それで仕方なく自ら足を運んだわけだが、燐音が電気もつけず未だ暗い室内でじっとしているのには、理由があった。
「……。誰かいる、なァ」
 微かに人の気配がある。
 はじめは『ノー残業』のルールを破ってまで仕事をしたい茨だろうと考えた。けれど副所長デスクは空席、オフィスに人の姿はない。
 では会議室かと足を向けてみれば大当たり、数センチ開いた扉の隙間から明かりが細く漏れていた。こんな夜更けに一体誰だ。時間も時間だ、不審者である可能性も捨てきれない。背中に緊張が走る。
 ──もし後輩だったらもう遅いからそこまでにしとけと促して、一緒に寮に帰ろう。嫌な仮定をポジティブな想像に置き換えながらそっと扉に手を掛けて──動きを止めた。
(メルメル……? あいつ何やってンだ?)
 突き刺すような蛍光灯の白さと共に目に飛び込んできたのは、見慣れた勿忘草色だった。会議室のデスクにノートPCを広げ、イヤホンを着けて何かの映像に見入るHiMERUは、こちらに気付く素振りを見せない。他人の視線に敏感な彼がそれだけ集中しているのだ。そうでなくても何をしているか気になると言うのに、余計に好奇心を擽られた。
 足音を殺してその背に忍び寄る。むかし、故郷の森で弟とウサギを捕まえて遊んだ時みたいに、そうっと、そうっと。見えた、と思った瞬間、不意に画面が暗転した。真っ黒い液晶越しに金色の瞳と目が合った燐音は、その場に硬直した。
「っ⁉ なんっ……あんた何して……!」
「いやァ〜こっちの台詞っしょ……」
 ガタンと椅子を引っくり返して立ち上がったHiMERUに、驚かせて悪かったと眉尻を下げて見せる。悪意が無いことを見て取ったのか、彼は深く息を吐き出すと肩の力を抜いた。
「──まったく。驚かさないでください」
「悪ィって。まさか人がいるとは思わなくて、俺っちも驚いたンだよ」
 派手に倒れた椅子を起こしてやり、自分も隣に腰を下ろす。ここで会ったのも何かの縁だろうし(こいつは嫌がるかもしれないが)、この流れで何も聞かないというのもおかしな話だ。
 何をしていたのかと尋ねようとして、ふと手元に落とした視線が開かれたままのノートを捉えた。走り書きだが真面目な気質の滲み出る文字でびっしりと何かが綴られている。
「何だァ……? 〝間奏 ステップに気を取られるあまり指先の意識が疎かに。しっかり伸ばす〟……〝サビ前のポージング、顔の角度矯正〟……〝Bメロ 腕はもう三十度上に。天城の動きを参考に〟──」
「わーーーーっ‼」
「うおっびっくりした!」
 燐音の手から物凄い勢いでノートを引ったくったHiMERUは、耳まで真っ赤になって取り乱していた。珍しく年相応の顔をして──言っちゃ悪いがちょっと、可愛い。思わず笑いそうになるのを慌てて堪えた。
「……見ました?」
「見たねェ」
「忘れてください」
「なァんでよ」
 良いじゃん別に、こないだのライブの録画を見返して改善点をピックアップしてたンだろ。地味な作業だが必要な事だ。リーダーとして、こつこつ頑張って偉いぞって褒めてやってもいい。
 言えば、HiMERUは燐音の眼差しから逃れるように顔を背けてしまった。
「──HiMERUに、泥臭い努力なんて似合いません。何事もはじめから完璧にこなす、そういうアイドルであるべきなのです」
「そりゃ理想論っしょ? 隠れて努力することの何が悪ィンだよ」
「……」
「むしろここに来たのが俺っちで良かったじゃねェか。こはくちゃんなんかには余計見られたくねェだろうし」
「違う、あんただから嫌なんだ……!」
 はて、と燐音は首を傾げた。自分に知られて困る理由が見当たらない。
「……なんで?」
「──っ、あんたは、努力してるところなんて一ミリだって見せたことないでしょう、HiMERU達に」
「うん……?」
「でも知ってます、あなたが影でどれだけ練習しているか。そうでないとあのパフォーマンスは出来ません、から」
 複雑な脚さばきを軽々こなして、ファンを煽りながらステージを駆け回って、そのくせ息ひとつ乱さずに『Crazy:B』のヴォーカルの柱を担って見せるのだ。
「センスだけで出来ることではないのですよ、あなたのやっていることは。HiMERUには解るのです……本気でアイドルをやっているから。だから『俺』も、あなたみたいに──」
 目を逸らしたまま気まずそうに話すHiMERUに、今度こそ燐音は吹き出した。
 〝俺だから嫌〟って。つまりちょっとでも俺に憧れてくれたってことかよ? 自惚れていいンかな、なァ、HiMERU。
「ふは、お見通しかァ。俺っちもカッコ悪ィな」
「そ、んなことは」
「誰にも言うなよ」
 ぽふ、腕を伸ばして彼の頭に触れる。珍しく無抵抗でいるのをいいことに、そのままナデナデと手を動かした。
「おまえだけ知っててくれりゃ良いよ」
 むしろ知っててくれてサンキュな。心の底から出た言葉だった。
 燐音は嬉しかったのだ。死ぬほど頑張っても目もくれられず死にたかったあの頃を乗り越えて、今。自分と同じようにアイドルに全てを賭けている男に努力を見出してもらえたことが、燐音には嬉しく、誇らしかった。
「まだやんの?」
「邪魔が入りましたので、今日はこのあたりで」
「まァたそーいうこと言う」
 ノートにずらずらと書かれた改善点を見る通り、HiMERUのダンスにはまだまだ伸びる余地がある。それは喜ぶべきことで、自分なら伸ばす過程すら楽しませてやれる。燐音にはその自信があった。
「良い機会だ、俺っちがマンツーで特訓してやんよ♪ ほら、ダンスルーム行こうぜ」
「は⁉ 勝手に決めないでくださ……痛っ、この馬鹿力!」
「どういたしまして〜」
 今夜は気分が良い。書類を忘れたのは失態だったが、それも運命の女神さまのお導きか、良い縁を引き寄せることが出来た。高め合える相棒が隣にいれば尚のこと、良い夜になる。
 機嫌よく笑い、思いつきのままその手を取った。





(台詞お題「おまえだから嫌なんだ」)

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