桜の木
「きれいだね」
敷き詰められた花びらを踏んで、渡辺登は言った。見上げる先には満開の桜が咲き誇っている。
「ええ」
一歩後ろを歩きながら、椿忠太は一言だけ首肯した。元来口数が少ないのもあるが、あまりの美しさに表す言葉が見つからないせいでもあった。
群れるような桜並木が、見渡す限り、どこまでも、どこまでも続いている。噎せ返るような一色の世界の中を、登は迷いなく奥へ進んでいく。降り積もった花びらがふかふかと弾んで、足音を吸収してしまう。
登の高い上背から目を逸らして、忠太も梢を見上げた。いくら見上げれど、桜で覆い尽くされて空が見えない。足元は花びらで埋まっている。上を見ても下を見ても桜色だ。天地がわからなくなりそうだった。
どれほど歩いただろうか。不意に登が立ち止まり、すん、と鼻先を鳴らした。
桜の花に匂いはないはずだが、これほど視界いっぱいに咲いていると、香りが立ち込めていてもおかしくないのでは、と感じられてくる。
「いい匂いだ」
果たして、登がうっとりとした声で呟いた。隣に立ってみると、彼は目を閉じて香りの世界に浸っていた。
「君もこの匂いは好きだろう?」
質問の形をしていながら、それは断定だった。その頃には、同じ花の香りが忠太の鼻先へ漂ってきていた。
「そうですね、なんとも蠱惑的な匂いです」
花の香りというにはあまりにも儚い、しかしいつまでも身を浸していたくなる、快い香りだった。ほのかで控えめな、それでいて人の胸を惹きつけてやまない、陶然とするような。
「そう、蠱惑的だ。囚われたら、二度と戻ってこれないくらい」
にわかに登は速足で歩き始めた。その後ろを忠太は大股についていく。足音はやはり聞こえない。足跡も、舞い上がる花びらにすぐ隠されてしまう。ともすれば花吹雪に霞みそうな師の後ろ姿を、忠太は必死に追いかける。
「登さん、どこまで行かれるのですか。私たちは今どこにいるのですか。この先には何が待っているのですか。登さん!」
「君、この場所が怖いかい? ここを知る前の自分に戻りたいかい?」
ほとんど駆け足になりながら、登が尋ねた。
耳元で嘲笑がさざめいた。同門の門下生たちが、忠太の描いた絵を破り捨てて嗤っていた。
『お前、へたくそだな。とっとと辞めちまえよ』
この世界に来てから、苦しいことばかりだった。槍や刀ばかり握っていた手はなかなか絵筆に慣れなかった。自分は一体いつ芽が出るのだろうと恐怖で寝付けない夜もあった。
『こんなに一生懸命な人は見たことがない。君は伸びるよ。私が保証する』
絵に憧れる心を否定しないでいてくれたのは、登だけ。
「元の場所に帰っても構わない。それも選択の一つだ。でも私は進むよ」
登がぴたりと足を止める。忠太は膝に手をつき、肩で息をしていた。振り返った登は、ばさりと羽ばたくように両腕を広げた。
「だって、ほら、この世にはこんなにも美しいものがあると、知ってしまったから!」
一陣の風が轟き、舞い散った花びらがごうっと渦巻いた。桜の嵐を背にした瞳が、星のように輝いている。揺れているのは情熱の炎。またたくのは心からのときめき。
忠太は息を整えて、背筋を伸ばした。ふっと肩の力を抜いて、登が右手を差し出した。指先に墨の染みがある。絵筆を持つ手に特有のたこが、いくつも出来ていた。
「おいで。絵の世界を、共に歩もうよ」
その例えようもなく美しい手を、忠太は静かに取った。繋いだ手の甲に、花弁が一枚ひらりと舞い降りた。
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