20240718レイチュリ

 傷ついた顔を、見た、ような、気が、した。
 
 仕事が終わってピアポイントに戻ってきた後のことだ。教授も事後処理があるためピアポイントに行くとのことで、ではそこで二人で打ち上げなんてどうかと言う話になった。店に行くのは堅苦しいからアベンチュリンの部屋で、そう言い出したのはどちらだっただろうか。
 アベンチュリンは上機嫌のまま酒を注ぐ。レイシオの所望したブランデーと、いつぞや見よう見まねで作った名前も知らないショートカクテル。互いの健闘をたたえてグラスを触れ合わせると、涼やかな音が鳴った。
 互いに雄弁な方だ。アルコールのせいもあり、軽口も回る。
「今回こそダメかと思った!案外どうにかなるものだね」
「本当にな。君にとっては悲しむべきことかもしれないが」
「ふふ。でも人はいつか死ぬ。そうだろう?」
「ああ、もちろん。僕も、君も」
「教授がただの人のように死ぬところは想像つかないなあ!それにもし死んだら、葬式もすごく大きなものになるんだろうね。なにせ博識学会の逸材だ」
「君のほうは……死体の欠片も残らなさそうだな」
「そうだろうとも。それだけのことが起こらない限り、僕は死なないだろうね」
 そんな軽口の応酬。少々話題は重いけれど、まあ酒の席なんてその程度だろう。
「まあ僕の死体なんて無くなっても困らないだろうけど」
 アベンチュリンは本当に上機嫌で、だからこそ普段は言わないようなことが口から出てから滑り落ちてきた。他人からしてみれば、言われても困るだろうと思いあまり言わない本音だ。
 でも、レイシオなら良いかと思ったのだ。どうせ怒るかして、それを自分の軽口で流して、また次の話題になるのだろうと。その目算が間違っていたことを、アベンチュリンはすぐに知ることになる。
「……ああ」
 レイシオの低い声が、まさか肯定した。アベンチュリンは正直驚いた。そういうことを言うなと言われるのかと思ったのだ。彼は厳格だし、間違ったことは言うなと言うだろうと思っていた。だから肯定された瞬間に、どんな顔をしているのだろうとのぞき込んでしまった。
 レッドブラウンの瞳が揺れていた。傷ついた、ような顔を。アベンチュリンは、透明な水晶に、細いヒビがゆっくりと入っていく様を想像した。
「君は、まあそう言うだろうな」
 はあと溜息を吐かれる。それはこちらの愚かさを嘆くものではなく、ただむなしいとでもいうようで。
「だが、少なくとも僕は君の訃報を聞いて偲びたいと思うし、死体があれば君の望む方法で葬りたいとも思うが」
「……君は優しいね」
「そんなことはない。これは自分のためだ。基本的に死人に対して生きている人間が行うことは、行う側のためにすることだ。別に形式はなんだっていい。時期だって」
 彼の言ってることは理解できる。しかしアベンチュリンにはそれよりも気になることがあった。
「僕は、君にとってそれらが必要になるような間柄なのかい?」
 少しだけ、声が震えた。しかし多分レイシオは気付いていないだろう。自分は隠すのが上手だし、レイシオがアベンチュリンの嘘に気付いたことはない。理詰めで、嘘であるだろうと仮定出来るだけだ。
 案の定、アベンチュリンの様子に気付く様子がないまま、レイシオは酒のグラスを傾ける。
「関係性は別に関係ないだろう。これは、僕が、君を、どう思っているかだ」
 熱烈だ。酒の熱に浮かされた視線が、こちらを見る。
「だから、君も。僕の葬式では好きにすると良い」
 どちらが先に死ぬか分からないのに、そんなことを言う。この男は、どういうつもりなのだろう。どう答えればよいのか分からず、アベンチュリンもグラスを傾ける。
「……君の葬式に出ず、君を偲んでも?」
「もちろん」
「……」
 教授はお優しいことだ、そう答えてベラベラと適当な言葉を振り撒いて、それでお開きにしたってよかった。
 酒のせいだ。そう言い訳して一歩踏み込んだ。
「……教授は?」
 レイシオの視線がこちらを向くのが分かる。いつだって、彼の視線は明瞭だ。視線に温度があったら、きっと何度も燃えていただろう。
「君が死んだら、ということを聞いているのか」
「ああ。……別に答えたくなかったら答えなくても良い。ただの世間話だからね」
 茶化して言うと、レイシオは少し考えるような表情をする。
「葬式があれば参列する。墓があれば、一度くらい顔を出そう」
「それだけ?」
「欲深いな。過ぎたる欲は身を滅ぼすぞ」
「それ、僕の欲かなあ」
 笑って言うと、レイシオは瞼を二回閉じた。
「……椅子を、買うだろう」
 突拍子もない話だ。アベンチュリンは次の言葉を待った。
「君の不在を忘れないように」
 穏やかなレイシオの声に従って、アベンチュリンは想像する。研究室に置いてある真新しい椅子を。日々が重なって、馴染んでいく様子を。
「素敵だね」
「素敵なものか」
 レイシオは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「君には長生きしてもらわないと困る」
「困るかあ……じゃあ頑張ろうかな」
「ああ、そうしてくれ」
 レイシオはグラスを傾ける。時間はゆっくりと流れていく。

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