稽古


五月の晴れた日のことだった。
真面目にお稽古という気持ちになった訳でもないが、春の陽気に釣られて自宅へと戻れば、年下の妹弟子がいるのである。
あの子の隣にはオヤジと草々というむさくるしい顔がいるとは分かっていても、足を運ばずにはいられなかった。
抱きたいとかモノにしたいとか、これまで出会ったいい女に対してオレが抱いて来たような通りいっぺんのべたべたの下心とは違う、なんとなしにこの子に叱られたいような、一生懸命なところを眺めていたいような気持ちになるのだ。
枝折戸をくぐる前から聞こえて来たべべんべんべんと景気の良い三味線の音に釣られて、ふらふらと稽古場に立ち寄った。


「喜代美ちゃん、ほんまに上達したな。」
なんやこないだ聞いた時よりだいぶ音が凛々しい気がするけど、興が乗った日のお三味線なんてそんなもんやろ。
正面玄関から入っていくのが面倒で、まあええか、ここオレんちやし、と縁側の石を靴脱ぎの代わりにして稽古場に顔を出した。
「小草若兄さん、こんにちは!」
「喜代美ちゃ~ん、おはようさん!」
「お久しぶりです、小草若兄さん。」お前もおったんかい、四草。
「お前はほんま、会うたびに嫌みか、四草。」
「そうかて、こないだ来たの、一週間前の話やないですか。うちの平兵衛なら顔も忘れますよ。」
お前は、いちいち烏を引き合いに出すな。
「売れっ子は忙しいんや。」
「忙しいのはそれでもいいですけど、稽古場に入るのに挨拶くらいしたらどうです。」
「今したったやないか。」
「若狭にでしょう。」
お前みたいなヤツになんで爽やかに挨拶せんならんねん、と思ったら、奥にいる草原兄さんと目が合った。手には、見覚えのある三味線。
兄さん、あの三味線まだ持ってたんか。
あっ、もしかしてさっきの三味線の音……。
そう思ったところで、仏の顔を思わせる笑顔でにっこりと微笑まれた。
「おまえら、顔合わせる度に角突き合わせんのやめえ。……おい、小草若、オレもおるで。」
「おはようございます。」と膝を付いて挨拶すると「もうおはよう、て時間と違うやろ。」と挨拶の代わりにお叱りがやって来る。
(……兄さんかて、なんでそんなとこにおるんですか。ちゃんと若狭の隣におってください。)とは流石に口には出されへんので、「すんません。」と謝る。
「小草若、ちょっとこっち来ぃ。」
「……はい。」
ずずいと膝を勧めると、射程距離に入ったところで、ぺしっと頭を叩かれる。
「師匠と兄弟子がその場におらへんからって、下のもんの前でたるんどってええと思うなよ。」
兄さん痛いです。
そういえば、この場にいるはずのもう一人がいない。
オヤジ、稽古は兄さんに任せて今日はまだ寝てんのか、と思ったけど障子の奥に人がいる気配もない。
「師匠、今日どっか行ってはるんですか?」
一門が復活したとは言っても、この売れっ子小草若ちゃん以外の徒然亭一門が高座に上がるのは、今はまだ寝床寄席に限っての話や。マネージャーがいるわけでもなし、テレビの仕事もラジオの仕事もようせん。
「なんや、今日、高槻の方で柳宝師匠の『らくだ』が掛かるらしくてな、こっそり聞きに行きたいいうので、草々連れてお忍びで。」
お忍びって、六十過ぎたじいさんがあんみつ姫の真似してどないするねん。
まあ、柳宝師匠のらくだなら、這ってでも見に行きたい気持ちはちょっと分かるけどな。
それやったら、なんで草々贔屓するみたいにして、一人しか連れていかんのや……。
「全員で行かへんかったんですか?」
「おい、小草若、師匠のなさることにそう角出すもんやないで。」
「高槻の方やと交通費掛かるでぇ、草原兄さんが私と四草兄さんの稽古見る役になる、言うて残ってくれなったんです。」
「こいつは寝床寄席までにまた稽古続けるのが先ですし、僕は、他の師匠の芸は興味ないですから。」
今更わざわざ言わんかて、そのくらいのこと、知ってるわ!
「柳宝師匠のらくだなら、オレはあの頃に散々、稽古付けてもらったからな。もう十分や。」と兄さんは言った。自分も聞きたかったやろうに……。
草々のヤツ、何兄さんに甘えてんねん。
そう思ったが、腹立たしい気持ちは、半分はただの嫉妬やということも分かっている。
兄さんが、こういう時にオレには何の連絡もなかったことも、忙しいと思ってのことや。
……それでも。
黒い蛇がオレの腹の中にとぐろを巻いていて、いつでも叫びたくなる。
なんぼ、オレは徒然亭小草若やで、と言っても、売れっ子『タレント』では何の意味もない。そのことを、何かあるたびに、こないして思い知らされるのや。
その物思いを断ち切るようにして「稽古続けててええですか?」と四草が言った。
「四草、お前今何やってんのや。」
「七度狐です。」
「七度狐て。聞いてたら腹減ってくるヤツやないか……。」
東の旅の一編で、発端以外ならオヤジが好きなヤツや。
枕も旅の話が多く、オレが生まれる前におかんとふたりで四国に行った話とか、普段、枕のネタに詰まった時に出て来る、弟子やらおかみさんについての内輪の噺とは全く毛色の違う話が聴けて楽しかった。
しみじみしてるとこで「小草若兄さん、泥鰌汁とかニシンとか高野豆腐とか、そんなん旨いもんと違うとか言ってませんでしたっけ。」と四草が入れんでもいい合いの手を入れて来た。
オレが食いたいのはマッタケとか木の芽和えの話じゃ!
ニシンとか高野豆腐とか、京都まで足延ばしたらそこらで食えるもんとちゃうで。それに。
「……まあ、蟹に比べたらなあ。」と思わせぶりにちらっと喜代美ちゃんを見ると「もう無理です……あれは入門のときだけの特別やでぇ!」と顔の前で手を振っている。
浴衣姿、かわええなあ。
オレも入門したときはこない……なわけないな。
「ははは。オレ何にも言ってないで。」
「小草若兄さんは目がうるさいんですよ。」と四草。
「そうやで、小草若、蟹が食いたい、あの日の蟹鍋が恋しい。……そないな目で見られたら若狭も困ってしまうで。まあオレもあの蟹はまた食いたいけどな。」
「兄さん……自分かて言うてますやん。」しかも、えらい情感の籠った声で。
「寝床寄席、次からは木戸銭上げる言う訳にはいきませんか。僕らに三年のブランクがあると言っても、この先、いつまでもそば付きのお試しでは立ち行かないでしょう。」と四草が言った。
「そうですねえ、あの椅子の数なら、ひとりもう千円も取れば、また蟹が食べられるんと違いますか?」と可愛い妹弟子がぽんと手を打った。
喜代美ちゃん、そういうとこだけ底抜けに計算早いな~。
「その辺りは熊五郎さんに相談やな。っと、脱線してしもた。ほな、続きやるで~。」
パンパン、と手を打つと、兄さんは小拍子でなく、三味線を手にしている。
まあお囃子も他所に任せるわけにはいかんのが今の徒然亭か……ってそれでは四草の仕草の稽古までは出来へんのと違うか?
「兄さん、四草に仕草も教えたらんとあかんのでは……。」
「いや、それはそれで、三味線の手ぇ止めてやるからな。ここんとこ、稽古を真面目にやってるから、四草も大体この話の仕草は頭に入ってるし。」と言うその草原兄さんの横で、小生意気な四番弟子はこのくらい出来て当然です、という顔で澄ましている。
「はあ。」
すんませんな、大学出の頭いい弟子と違って、物覚えの悪い弟子で。
「……あ、小草若、お前来たなら丁度ええ。オレが四草見るから、三味線はお前が若狭に教えたってくれ。」
「……ええ?」
いや、喜代美ちゃんに教えられるのなら何でもええと言えば何でもええですけど。
「三味線、もう練習してませんけど。」
「嵌めもんは、まあ格好付くとこまで持っていけたら、今はそれでええねん。お前は基礎ちゃんと出来てるからな。ほれ。」
そう言って、兄さんから三味線が渡される。
やっぱこれ、兄さんの入門十周年にみんなで贈った、あの三味線か。
象牙の撥は予算的に無理やったのよねえ、と今は輸入禁止やし、と言っていたおかんの顔を思い出した。
「……分かりました。」
指輪を外して撥を持ち、ベベンベンベンとかき鳴らす。
四草が、「おいおいオヤッサン、そこのすり鉢に入ってるのんは何や? これはイカの木の芽和えじゃ。」と言い出した。丁度はめもんの入る直前辺りか。
七度狐か。
昔オヤジのやっとるとこ聞いたなあ、と思いながらスタンバっていると「小草若兄さん、三味線弾きなさるんですね。」と喜代美ちゃんが小声で尋ねて来た。
「ああ、まあなあ、……オレ、昔はお囃子さんになりたかったんや。落語家やのうて。」
「え、なんでですか?」
「お囃子さんなら、おかんみたいにずっとオヤジの興業にくっついていけるやろ。」
うっかり本音が出てしまって、喜代美ちゃんが、(え?)という顔で目を剥いた。
「いや、まあ下座だけで食べてはいけんから、三味線のおっしょさんに習って、本業はそっちにしよか、とか考えてたこともあったんや。誰ぞ、付いた師匠の名前継いでお弟子さん取っても、素人さんのお稽古しながらなら、ちゃんと月謝が入って来るやろ。うちのおかみさんは、昔からノーギャラでオヤジの下座やってて、やりくりで苦労してたからな。金は天下の回り物、オヤジの下座は誰かに任せて自分はよそで下座やった方が懐にいくらか入るの分かってたのに、他の人には任せたないて依怙地でなあ。」
って、オレは何を言い訳しとるんや。
今日はなんか口が軽くなってしもた、と思っていると、兄さんと目が合った。
「懐かしいなあ、おかみさんの話。……まあ、今の小草若の言うことももっともやで、若狭。落語家で食っていく、いうのはお前が思ってるより、ずっと厳しい道や。収入も不安定やしな。」と若狭に言った後、オレの方に向き直って「それにしてもなあ~。お前はほんとに、昔は師匠にベタベタやったもんな。下座と落語家なら、落語家の方がまだ向いてるで。」と草原兄さんは苦笑した。
「昔の話ですって。……兄さん、こっちの話に入らんと、先に四草のお稽古見たってください。」
「はは、お前照れんでもええやろ。」
て、四草、お前なにこっちじっと見てんねん。

真面目に稽古せんかい、コラ。

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