イベントスチルは得られない
暑い日だった。飛行術の授業に出るのが億劫になるくらいには日差しが強く、夏の訪れを感じる日であった。
おそらくこの暑さのせいもあるのだろう。トレイの近くにいたイグニハイド生が、箒のコントロールを失った。顔色が悪いのはイグニハイド寮生だからかと呑気に考えていたのが敗因だった。おそらく本人も何が起こっているのか分からないのだろう。ふらふらと空中に浮いた後、上半身を箒に密着させるようにした彼が強く箒を握りしめた、その瞬間に、箒が勢いよく空中を駆け出した。
おそらく魔力のコントロールが出来ていない。トレイは呆気に取られた後、ペアを組んでいたリリアにバルガスを呼ぶよう指示をした。リリアを頼らなかったのはトレイのわがままだ。死にかけてさほど時間の経たないリリアに無茶をさせることは避けたかった。相手は紛いなりにもナイトレイブンカレッジ三年生で、しかも暴走状態にある。
リリアが箒で走り去ったのを確認し、トレイは周囲の生徒に避難するよう呼びかけた。合同授業ではあるが運動場のこの区画にトレイ以外の寮長・副寮長はおらず、またバルガスもいなければ指示を取るのはトレイ以外にいなかった。
猛スピードで空を駆け抜ける箒を見る。箒に乗ったイグニハイド生が胃の腑の中のものを吐き出した。偶然彼が乗る箒以外に被害はなかったものの、しっかりと箒にくっつけていたはずのイグニハイド生の上半身が、その後から揺れるようになったのが気になった。
「トレイ、あれ、気絶してないか!?」
同じクラスのディアソムニア寮生の言葉に舌打ちをこぼす。トレイが思い出すのは暴走したカリムの絨毯を止めた時のこと。
あの時は絨毯に乗っていたカリムの協力があった。さらに絨毯はカリムに抗議しながらも、カリムやトレイを傷付けたいわけではなかった。しかし今回は術者の協力が望めず、箒は魔力が注がれるまま暴走を続けている。失敗すればただでは済まない。
それでもトレイは箒に跨った。
「もし失敗したらあとは頼む」
「トレイ!?」
叫ぶ級友の声を無視して、トレイは箒で空に舞い上がった。相手の不規則な軌道の行き先を予測して、マジカルペンを構えながらイグニハイド生が乗る箒を追いかける。
あと十メートル。
五、四、三、二。
一。
『薔薇を塗ろう!』
イグニハイド生の乗る箒を追い越した瞬間、方向転換を決めたトレイは手を伸ばし、すれ違いざまに彼の腋に手を入れ箒から引き剥がす。同時にユニーク魔法で衝撃を音に塗り替えた。
「ッ……!」
音とは。
振動である。
故に衝撃を音に変えることは光や熱への変換よりも容易いが、音は時に固体をも破壊するものである。
見誤った。と思った時には遅かった。
ぐわん。と脳が揺れた感覚がして、それでもトレイはイグニハイド生を抱えたまま、運動場の隅へと降り立った。
足が地面についた瞬間、イグニハイド生を地に転がしていた。もはや相手の意識がないことを気にしてはいられない。トレイの耳朶を生ぬるい液体が流れる感覚があり、ハッとして触れれば指が赤く染まっていた。
「あ……」
鼓膜が破れたのだと気付いたのは、視界が揺れてからだった。
咄嗟に足に力を入れるがもはや地面がどこにあるのかわからない。目を凝らすが物の輪郭が溶けてゆく。立っていられず、魔法を使おうにも詠唱がうまく出来ない。ハーツラビュル寮に入寮した時でも感じなかった内臓がひっくり返る感覚がした。
「ぅ……ぐっ……」
ゴポリ。と喉から迫り上がってきたものを地面にぶちまける。消化しきれていない食物がざらざらと喉を通っていく感覚に身震いがする。決して味わいたくない胃液の味が口いっぱいに広がって、舌が勝手に垂れ下がる。
「ぇっ……」
目元が熱い。痛みすら感じる。ひっ。と一度しゃくりあげてしまえばもう止まらなかった。
──俺なら出来ると過信してこのザマか。
そう思った瞬間に、トレイの背中に触れるものがあった。
「ッ……」
思わず振り返り、その動作にすら眩暈がする。
それでも背中に触れた手のひらの温度と、涙で滲んだ視界に映る緑の光に覚えがあった。
「ぇ、おな」
と名前を口にした瞬間、魔法を使われた気配がし、トレイの意識は闇に沈んだ。
「失礼しまーす……」
イデアが保健室の扉を開ければ、ひとつ舌打ちの音がした。不快さを隠しもしない音に、ここにいるのは体調不良のイグニハイド生とトレイ氏だけなのでは!? とイデアがびくついていれば、ベッドの目隠し用カーテンの向こうから、思いもよらぬ男が姿を現した。
「随分と遅いお出ましだなァ。引きこもりってのはそんなに忙しいものなのか?」
現れたのはレオナだった。不機嫌さを隠しもしないレオナにイデアは両手を胸の前で握りしめ、警戒するコノハズクのように縮み上がった。
「ヒッ! レオナ氏一体なんでここに!? 拙者リドル氏に首をはねられるものだと覚悟してきたんですが!?」
「今日の飛行術はA組とE組の合同授業だったんだよ。リドルはトレイの提出書類を代わりに出す為にバルガスのとこだ。俺は見張りでね。女王様に首をはねて欲しかったならそう伝えるが?」
レオナがトレイのベッドを指差しながら答えるので、イデアはブンブンと音がしそうなほど首を横に振った。
「拙者そういう特殊プレイに興味はないんすわ!! イグニハイド生は勤勉とはいえ、経験していないものは書けないタイプのオタクじゃないですし」
「お前らのとこの勤勉の精神は女王様に首をはねられるのも経験に入るのか……?」
「あ、気にするのそこなんで? まあ良いですけど、うちの寮生はどこに……?」
「隣のベッドだ」
レオナはトレイの隣のベッドを指差した。こちらもトレイのベッドと同じくカーテンが閉められている。
「魔法で治療済みだが起きる気配はなかったな。もう健康体らしいが、お前らの寮の慢性的な寝不足はなんとかしろ。いつか取り返しのつかない事故が起きても、俺はトレイみたいに対処はしないからな」
「あ、はい。……でもその辺りは寮生の自主性に任せてまして……」
「イデア」
「ヒィッ! ポケスリが流行ってこれでもマシになったんですぞ!?」
該当のイグニハイド生がインストールしてるかは別として。と内心で呟いて、イデアはトボトボとベッドに近寄り、カーテンを開けた。そこでは連絡を受けた寮生がよだれを垂らして眠っている。
流石のイデアも少しばかりイラついた。
「アクアショット! あ、極小で」
「えあ!?」
魔法で冷気を集めて寮生の顔にぶつければ、ぶつけられた寮生は飛び跳ねるように起き上がった。
「つっめた! え!? 寮長!?」
「はーい寮長です。拙者、キミのせいでこんなとこまで来る羽目になってんの。責任感じてるならさっさと起きてバルガス先生のとこ行ってくれない?」
「は、はい!」
転がるようにベッドから抜け出すと、イグニハイド生は慌てて保健室を出て行った。
「……あれだけ元気に動けるなら拙者来る必要なかったんでは?」
「健康なやつがいつまでもベッドを占領してるわけにもいかないからな。寮の不始末は寮長が付けろってことだろ。用が済んだならさっさと帰れ」
「えー……。ソシャゲのイベント中なんで帰りますけど」
絶対に生身でここ来る必要なかったでしょ。と呟きながらも、イデアは保健室から退散した。
一時的なものとはいえ、ライオンの縄張りで反復横跳びするような真似はしたくなかったからだ。
「イデア先輩」
「あ、リドル氏」
そして鏡舎へと続く廊下を歩いていれば、イデアは前から歩いてきたリドルに声をかけられた。
「今、バルガス先生のところにイグニハイド生が来ていましたよ。一緒に行かなくて良かったんですか?」
「あー。元気そうだったんで、拙者を置いて先に行け。って言ったんですわ。リドル氏は保健室に?」
「ええ。トレイは起きていましたか?」
「さあ。レオナ氏としか喋ってないんで」
「レオナ先輩、まだ居てくれたんですね」リドルが僅かに驚いたような顔をして、しかし小さく首を横に振った。「いえ、あの二人の関係を思えば驚くようなことではないんですが」
「拙者はいまだに、そうはならんやろ。が脳内再生余裕っすわ」
トレイとレオナが恋仲になったのは周知の事実だ。二人はそのことを否定も肯定もせず、しかし明らかに以前と態度を変えていた。
「レオナ氏がマレウス氏のユニーク魔法の中でトレイ氏の好感度上げ下げしてたのは見てましたけど。あ、でもマレウス氏の夢自体が参加者全員の特殊イベントっぽかったんで、レオナ氏かトレイ氏、もしくは両方がイベント内イベント踏んで特殊スチル解放した可能性はありますな」
「すみません、何を言ってるかわからないのですが……」
「あ、さーせん……」
イデアはそっとリドルから視線を逸らした。
「今のはただの例えなんで忘れてもろて……。何が起こるか分かんないよね。って言いたくて……」
「ああ、それなら分かります。確かに、そうかもしれないですね」
リドルは納得したように頷いた。一年前までならば見れなかったような表情をしている。そしてそれはレオナも同じことだと、イデアは知っている。
保健室から出て行く際、小さくレオナを呼ぶ声がした。それに思わず振り向いたイデアが見たのは、おそらくトレイの他には誰にも見られるはずのなかったレオナの表情だ。
「はー。リア充眩しいっすわ」
さっさと忘れよう。と思いながらイデアは言った。
「それより、早くトレイ氏のところに行った方がいいのでは? もう門限の時間近いんですし」
「ああ、そうですね。外泊許可証を渡さないと」
「トレイ氏あそこに泊まるので?」
「いいえ、サバナクロー寮です」
「え?」
思いもよらぬ言葉にイデアは目を丸くした。それに対してなんでもないことのようにリドルは告げる。
「魔法で治療をしたとはいえ鼓膜が破れていましたし、頭にも強い衝撃を受けたので今晩は誰かと一緒にいた方が良いだろう。とレオナ先輩に言われまして。最初はハーツラビュルでと思ったのですが、寮生はなにかとトレイに頼る癖がついてしまっていますし、トレイも僕に気を使うからと」
「あ、……そっ、かぁ……」
イデアの脳裏に、元気よくベッドを飛び出していったイグニハイド生の姿がよぎる。
──原因の彼があれだけ元気なら、トレイ氏も問題ないのでは? でもあのイグニハイド生も一晩様子を見た方が良いのかも? 確かあの生徒は二人部屋使用してたはず……。
そんな考えがイデアの脳内を駆け巡ったが、最終的に彼の同室の生徒に一言チャットを入れておくことにして、それ以上は考えることを辞めてしまった。
「……お大事にってトレイ氏に伝えといて」
「はい」
リドルが一礼し、イデアの横をすり抜ける。イデアはその背をなんとなく見送って、タブレットを召喚した。
子供の頃、熱を出した『オルト』は、熱が下がってもイデアや両親のそばに居たがった。そしてイデアもなるべく『オルト』のそばに居てやりたかった。
であれば、トレイの場合は一緒にいて欲しいのが家族ではなく恋人だっただけのことだろう。あるいはレオナがトレイを心配して、そばに置いておきたかっただけかもしれない。
そう思いながら、イデアはイベントストーリーを回収するために、ソーシャルゲームを立ち上げた。そしてイベントを走り始める頃には、もうレオナとトレイのことなど念頭になかった。
なにせイデアの今いる現実には体調不良イベントの特殊スチルなんてないのだから、イデアとしては、ソーシャルゲームのイベントを走る方が、ずっと重要だったのだ。
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