頸と心第2部(13)刃の心

前
横書き
https://notes.underxheaven.com/preview/53dd4682f392a2e5fc529ee1527b2de6
縦書き
https://notes.underxheaven.com/preview/tate/53dd4682f392a2e5fc529ee1527b2de6



 
 屋根の穴から差し込む朝の光はまだ白く、昇り始めたばかりの日が朽ちた板壁を薄く照らしていた。
 土井が目を覚ました時には、囲炉裏にはもう赤々と火が入っていた。夜半まで獣除けの火を見ていたはずなのに利吉はとうに起きていて、囲炉裏の前に座って小鍋の中を木匙でゆっくりと掻き混ぜていた。粥の匂いがする。干し飯をふやかしたものを煮ているのだろう。
 土井は横になったまま、利吉の横顔をしばらく眺めていた。朝の光の中で見ると昨夜よりも若く見える。頬の線にはまだ少年の細さが残り、肩も背も記憶の中の男には届いていない。それでも俯いて手元に意識を集中している目や火の具合を見ながら時折灰を寄せる指の動きが驚くほど似ていて、土井は眠りから覚めきらないまま、今の朝に別の朝が静かに重なっていくのを感じていた。

 あの利吉も、朝は早かった。黒が目を覚ます頃には大抵もう起きていて、罠に使う縄を一本ずつ確かめていた。解れがあれば縒り直し、刃物を研いで風向きや空模様を確認し、その日の狩りの支度を整えていた。
 黒は寝床に潜ったままそれを眺めていることが多かった。当時は狩りに出なければ食うものがないのだから当然だと思っていたのだが、今になって考えるとあれは随分と黒のためだったのだろう。一人であればもっと粗末に食いつなげたはずなのに、利吉は肉を狩り、魚を捕り、蜜を見つければ持ち帰り、寒くなれば敷物を増やして黒が手を冷やしていると籠手まで作った。抱くときはいつも黒の肉の薄さを確かめて、段々と肉付きがよくなるのを楽しんでいるようでもあった。
(あいつは楽しかっただろうか……私といて)
 そんなことを、今更のように思う。囲炉裏の向こうでは今の利吉が小鍋を混ぜている。きっとこれもまた自分のためなのだろう。似ているところは確かに多く、けれども朝の白い光に照らされた十六の横顔には記憶にない柔らかさがあった。同じ輪郭の中にある違いを見ているうちに何かがふいに失われてしまうような錯覚に陥って、土井は気づけば寝床から身を起こしていた。
「……利吉」
 名前が口から零れて、土井は自分でもそう呼んでから気づいた。利吉くん──ではない。この家でかつて何度も呼んだのと同じ呼び方だ。それだけでなく、声の柔らかさまで眠りの底から昔のものを引き上げてきたような響きになっていた。
「……はい」
 木匙の動きが止まり、利吉がこちらを見る。そのままじっと顔を見てくるので土井は僅かに眉を寄せた。居心地が悪い。何かを探るような視線だった。
「……何だ?」
「いえ。今の呼び方、少し違ったので」
「違う?」
「声が。いつもの私を呼ぶ声ではありませんでした」
 そこまで聞き分けるのか──と土井は思った。意識していなかったからこそ出た声なのだろう。迂闊だった。目覚めたばかりの頭で火の前に昔の面影を見つけ、閉じられた頁の面影の方を呼んでしまっていた。利吉は土井をじっと見つめ続け、何かに思い当たったかのように視線を少し逸らした。
「……似ていましたか」
「ああ、まあ……」
 誤魔化しても仕方がない。短く返しながら土井は寝床を抜け、囲炉裏の傍まで来て利吉の近くに腰を下ろした。火を挟んだ向かい側ではなく、利吉の斜め後ろ、肩口へ手を伸ばせば届くほどのところ。
 まだ夢の縁にある曖昧さが漂っている。昔もこうしていた、と土井はぼんやりと思った。
 黒は野良が火の前にいると、いつも何となくその近くに寄った。寒いからだとか自分でももっともらしい理由をつけながら、最初は二歩、やがて半歩、肩が触れそうで触れないところにいつも座った。野良はそのまま縄を縒り、刃を研いでいた。今もその頃とほとんど同じ距離にいる。そう気づいた時には、利吉が振り返ってこちらを見ていた。
「……お兄ちゃん」
「何だ」
「どうして、私を呼んだんですか?」
「どうしてって……」
「さっき、あの人のことを思い出していたんでしょう」
 利吉は木匙を鍋の脇に置いて静かに言った。声だけは穏やかだったが、その目には先ほどまでなかった緊張が混じっている。
「あの人に似ていたから、ああいう声で呼んだ。そういうことですよね? さっきのは」
「まあ……そうだな」
「なら、どうしてその人の名を呼ばなかったんですか」
「…………」
 土井は答えなかった。答えられなかったと言う方が正しい。
「思わず昔の記憶に引っ張られたのなら、その人の名前が出る筈です。それなのに、お兄ちゃんは私を呼んだ」
「それは──」
 利吉の言っていることは、理屈として正しい。正しいからこそ土井には答えようがなかった。どう説明しろと言うのだ。あの男の名も利吉だったなどと。それとも、もう全てをありのまま説明した方がいいのだろうか。

 ──山田利吉。閉じられた頁の中で、野良が本当の名を教えてくれた時の声を、土井は今でも覚えている。忍が本名を明かすことの意味を承知した上で、それは黒に頸を預けるつもりであの男が差し出してきた名前だった。頸の重さごと抱き締めていたのだと土井は思う。怒る時に呼び、縋る時に呼び、笑いながら呼び、睦み合う夜には耳元で幾度となく甘く呼んだ。先ほど口から零れた利吉という名がどちらに向いていたのかなど、土井自身にも判然としない。それでも──何か答えなければならない気がして、土井は利吉の横顔を眺めながら僅かに口元を緩めた。
「……君だって言ったら……信じるか」
「は?」
 利吉がまるきり意味を測りかねた顔をした。何を言うつもりだ。言葉は思考よりも先に滑り落ちていく。本当は土井にも分かっていた。自分はあの男の存在を誰かに知ってほしがっている。土井は先ほど言ったばかりの言葉を、反芻するように再び言い直した。
「あいつは、君だった」
 暫く、利吉は何も言わなかった。
「……私に似ていた、ではなく?」
「違う」
「同じ名前だったという意味ですか」
「それも、違わないが……」
「では、どういう意味なんです」
 聞かれて、土井は口を閉じた。別の頁にいた君だなどと言ったところで信じられるはずもない。何よりこれまで誰にも話さず自分の中に押し込んできたものを、こんな朝に、朽ちた家の囲炉裏端で急に取り出して見せる覚悟など自分でもできていなかった。それなのに何故言ってしまったのだろうと土井は思う。この家のせいだろうか。この家に利吉がいて、あの男と同じように朝支度をしていて、それなのに彼はもうどこにもいない。それを思い知らされたことが想像以上に嫌だったのだろうか。
「…………」
 利吉は暫く答えを待っていたが、土井が何も言わずにいると、困惑していた顔から徐々に柔らかさが失われた。
「……また、それですか」
「何がだ」
「肝心なところで、はぐらかすようなことを言って黙りますよね、お兄ちゃんは」
 声に僅かな棘が混じった。
「私は本気で聞いているんですよ」
「分かってる」
「分かっていません」
 利吉がこちらへ身体を向ける。もともと土井の方から昔と同じ距離まで寄っていたため、膝を少し動かしただけで顔を上げれば互いの息遣いまで分かるほどに近くなった。
「私は、その人ではありません」
「……ああ」
「なら、私を見ながらその人の話をして、『あいつは君だった』なんて言わないでください。そんなことを言われて私が喜ぶとでも思いましたか」
「思ってないよ」
「では、どういうつもりなんです」
 土井は答えられず、ただ利吉を見た。その顔の向こうにはどうしても別の時間が透けて見える。目元も鼻梁も、腹を立てると少し早くなる呼吸まで似ているというのに、苛立ちを隠しきれず真正面からぶつけてくる十六の若さだけは記憶の中の男にはない。
 利吉が怒るのも無理はない。いま自分は、その両方を見てしまっているのだから。
 土井の瞳が僅かに揺れた。
「……そんな顔をしないでください」
「そんな顔……?」
「私を見ながら、その人のところに行かないでください」
 低い声だった。責めるというより、もう堪えきれないものを押さえながら吐き出したような声に近い。
「今ここにいるのは、私です」
 利吉はそう言ったきり動かなかった。何かを待つように土井の目を見据えている。その視線の強さに土井はなぜか息を詰めた。それはこれまで向けられてきた熱とは少し違う。口説くために工夫していた時の甘さでも、相手の傷を量って踏みとどまろうとする優しさでもなく、自分を他の誰かと取り違えるなと、敵意すら混じった剥き出しの心で要求している。
 土井がその目から逃れられずにいると、利吉の手が襟元に伸びてきた。布を握った指には力が入っていたが乱暴に引き寄せることはせず、利吉はもう一度だけ確かめるように土井を見た。
「私は、その人ではありません」
「利吉く……」
 続きは言葉にならなかった。利吉が唇を重ねてきたからだ。
 怒りに任せて噛みつくような口づけではなかった。けれどもこれまでのような相手の反応を探るための慎重さもまたなかった。今ここにいる自分を丸ごと押しつけてくるような熱のつよさに、土井は目を閉じないまま利吉の顔を薄く見ていた。これは昨夜昔話を聞きながら火を守り、目覚めれば粥を炊いていた十六の利吉だ。分かっている。それでも触れたこの唇の形をどうしようもなく知っている。鼻梁の角度も、伏せた睫毛の長さも、近すぎる距離で感じる息の熱さまで。閉じられた頁の中で、彼と同じ名をした男と何度こうしたか知れなかった。記憶の底から何かが溢れ出してしまいそうで、土井は思わずきつく眉を寄せた。
 利吉が僅かに唇を離した時、そこには怒りとは別の迷いが浮かんでいた。自分から口づけておきながら、土井が今どちらを見ていたのかを怖れるような顔だった。今なら簡単に退ける。そう思ったのに──土井は利吉の肩に手を添えて、そのまま肩衣を掴んで彼の身体ごと引き寄せていた。
「……っ」
 今度は利吉が息を呑んだ。
 再び重なった唇は、先ほどとは違ってすぐに深くなった。まともに物を考えられないまま互いの息を奪い、離れかけてはまた追いかける。後頭へ回った利吉の手の力はそれでも強くはなく、こちらが離れようとすれば離れられるだけの余地を残していて、けれどもその遠慮が今の土井にはもどかしかった。
「ン……」
 自分から顔を傾けて誘うように唇を食むと、とうとう利吉が堪えきれなくなったように応じてきた。触れ合う舌と乱れ始めた吐息につられ、腹の底がじわじわと熱を持ち始める。身体はこの先をあまりによく知っていて、土井は次第になにも考えられなくなっていった。
 この家で、黒は何度もこの先を知った。唇から頬へ、耳へ、首筋へと口づけが移り、やがて手が衣の下へ入り、皮膚を辿って互いの呼吸が乱れていく。朽ちた板壁も、囲炉裏の火も、朝の匂いも何もかもが記憶と近すぎて、頭の中では閉じられた頁の朝と今の朝とが、ひどく危ういところで重なり始めていた。
 それがまずいと分かっているのに、身体は止まろうとしてくれない。土井の手は利吉の肩から首筋に滑り、髪の生え際に触れ、そのままもっと近くへ来いと無意識に引き寄せようとる。胸が触れ肌がぶつかり、若い身体の熱が衣越しに伝わってくると、懐かしいから求めているのか、今の利吉だから欲しいのか、それを考えること自体がひどく煩わしくなってくる。否──そんなものは言い訳だ。ただ目の前のこの存在が、分からなくてもいいから、欲しかった。
「……利吉」
 思わず漏れた声は、自分でも分かるほど甘く掠れていた。耳元に唇を寄せていた利吉の動きが止まる。利吉はそのまますぐには離れず、土井の肩口に額が触れるほどの距離でじっとしたまま、乱れた息を一つ呑み込んだ。
「……今」
 声の低さに、土井は薄く目を開いた。
「どちらを呼びましたか」
 襟を掴んでいた指が止まる。
「……なに……?」
「私ですか。その人ですか」
 顔を上げた利吉の目には、先ほどまでの熱に混じって明らかな苛立ちがあった。それを声へ出すまいとしているせいか、かえって内側で張りつめているものがよく見える。土井は理不尽にももどかしいような気持ちになった。そんなことどうだっていいと思うのに、利吉は糾弾する口調を緩めてくれない。
「さっきお兄ちゃんは、あの人は私だったと言いましたね」
「……言ったな」
「意味が分かりません。何度も言いますが、私はその人ではない」
 利吉は土井の目を正面から覗き込んできていた。普段であれば土井の表情に傷の気配を見つけると切っ先を緩める彼が今は退かず、感情を押し殺しながら逃げ道を奪おうとしている。
「似ているのは分かりました。ですが、その人の代わりにされるのは真っ平ごめんです。私の名前に、その人を重ねようとしておられるでしょう」
 最後の言葉だけ、僅かに声が強くなる。成程、そう解釈したのかと土井は思った。むしろ利吉の立場であればそう取るしかないのだろう。土井が利吉に昔の男の面影を重ねて、利吉を代わりそのものにするために名を混ぜようとしているのだと──けれどもあながち間違いでもないと自嘲するより先に、土井の思考を利吉の言葉が遮ってくる。
「私は、あなたにその人を思い出させるためにここにいるんじゃない」
「りき──」
 矢を射るような声だった。嫉妬も悔しさもどうしても欲しいと思う意地も、その全部がその声一枚の下に押し込められている。一体どんな顔で言っているのかと利吉の顔を見た途端、土井の腹の底に残っていた熱がはっきりと輪郭を持った。
(ああ……この……)
 この眼だ──と。ほの暗い記憶の底から、鮮烈な白が浮かんでくる。傷つけたのは自分だ。こんな顔をさせたことを詫びるべきなのだろう。それなのに土井はどうしようもないことに、利吉の剥き出しの感情から目を逸らせなかった。
 これまで利吉が寄越してきたものは、どれも日溜まりのように温かかった。和歌を送り、団子を買い、花弁一枚を大事そうに拾って、傷に触れれば無理に踏み込まず、死んだ男がいると知れば弔いにまで付き合うと言ってくれた。優しい子だと思ったし、その一つ一つに心を動かされてきた。大事にされていることもよく分かっている。野良にだって大事にされてきたのだから。
 なのに、それだけでは本気になりきれない自分がいた。それが一体なぜなのか、今まで土井自身にもよく分かっていなかった。利吉が子供だからなのか、所詮共に死線を潜り抜けた相手と同列に語ることなど無理なのかと、理解できていなかったものが急速に腑に落ちる。足りなかったのは、この眼だ。張り詰めて追い詰められた、手負いの獣にも似たこの眼だった。
 野良との間には、いつも刃があった。互いの腹を探り嘘を見抜き、利用できるところは利用して、それでも最後には名を明かし、身体を許して命まで預けた。あの男と心を交わした記憶を辿れば、穏やかな時間よりも先に、どちらが先に相手の奥へ踏み込み、どちらが相手に頸を晒し、どちらがそれを取らずにおくかという遣り取りばかりが思い浮かぶ。自分は──そういう形で人を愛することを覚えてしまった。誰かに心を渡すことが、土井の中では頸を晒すこととほとんど同じになってしまっている。
 だから今の利吉がどれほど優しくしても、その優しさに甘えて心を温めながら、一方ではどこか物足りなく感じていた。傷を避けてくれる手をありがたいと思うくせ、その手が自分の一番危ういところまで掴みに来ないことを本気ではないように感じてしまう。欲しいなら何故奪わない。欲しいなら何故繋がない。あの男はそうした。繋いで、囲って、それでも悩んで、どこにでも行けと鎖を外すことで愛を告げる代わりにした。
 なんて始末の悪い──と土井は思う。
 目の前の青年は自分のせいで傷つき、怒っている。それなのに初めて退かずに真正面から噛みついてきた利吉を見て、自分の胸の奥は今までにないほど強く何かが動いている。これが始末が悪い以外の何だと言うのだ。土井はどこか熱に浮かされたような気分で呟く。
「……そんな目も、するんだな」
 思わず口にすると、利吉の眉が一段険しくなった。
「どういう意味ですか」
「ああ。悪い」
「悪いと思っている顔ではないですよね」
「……そうかもしれない」
「お兄ちゃん、やっぱりからかっているでしょう」
 咎める声に、また腹の底が熱を持つ。土井は今度こそ薄く笑った。
 利吉が野良に似ているからではない。今ここで怒っているのは、あの子供だった利吉だ。十六年をこの頁で生きてきた男が、自分を他の誰かの代わりにするなと、初めて土井の懐に爪を立てている。そのことがひどく嬉しく、ひどく気持ちが浮き立たされた。喉を鳴らして笑う土井に、利吉は苛立ちを隠さないまま呆れたような声を出す。
「本当に……性質が悪い」
「今更だろう。私はやめなさいと言ったし、想う相手がいることも隠してない。諦めない君が悪い」
「そうですね。今更でした」
 吐き捨てるように言ってから、利吉は一度目を閉じ、乱れた呼吸を整えようとした。その様子を見ているうちに土井はまたぞろ襟を引き寄せたくなる衝動に駆られ、実際に指へ力を入れかけた。
 しかし──今度は、利吉の手がその手首を掴んだ。土井は何だよと思わずその顔を見返す。
「駄目です」
「……何が」
「ここから先です」
 掴む指にも熱があり、利吉自身が名残惜しさを抱えていることは土井にも分かる。それでも手首を押さえたまま、利吉は緩く首を振る。
「これから弔いに行くのでしょう」
「ああ」
「なら、その前に済し崩しで私と寝るのはどうかと思います」
 言い切る声にはまだ苛立ちが残っている。土井は幾度か目を瞬いた。
「別に、気にしないが」
「お兄ちゃんの意見は聞いてません。私が嫌なんです。あなたが誰を見ているのかも分からないままでは」
「は──」
 土井は利吉の顔を改めてまじまじと見た。十六の若さなら、こちらよりよほどがっついていて当然だ。実際、少し煽ればすぐ熱くなるし、今だって身体のどこにも余裕などないように見える。それなのに、よりによってこんな場面で欲を抑え、自分から線を引こうと痩せ我慢をしている。
「……なんだ、その妙な意地は」
「必要なものです」
「こんな時に?」
「こんな時だからです」
 即座にそう返され、土井は半ば呆れながら、半ば感心した。しかし、むしろ呆れているのは利吉の方な様子だった。
 野良なら、こういう時にどうしただろう。やはりあの男も呆れただろうか。きっと呆れながら黒を抱いただろう。その違いを、土井は物足りないとは思わなかった。自分も欲しいくせに土井の曖昧さには付き合わないと突っぱねるその意地が、先ほどの怒った目と同じくらい鮮明に胸に残っている。
 土井がそれ以上は踏み込まないことを見てとって、利吉はようやく手首を離した。乱れた襟元を直しながら囲炉裏の方に戻る。ごく普段通りに戻った声には、やはり少しだけ呆れの気配が残っている。
「朝餉が冷めますよ」
 その背を見ながら、土井はまだ熱の残る唇に指を当てた。
「……ああ」
 優しくされるだけでは届かなかったところへ、今ようやく何かが触れた気がしていた。



powered by 小説執筆ツール「arei」

169 回読まれています