ネクタイ
お待ちどお、と言われて出て来たサーモンの皿を取り上げたとき、不意に電話が鳴った。
着信音が違っているのはその番号ひとつだけのはずなので、誰だ、といぶかしむ必要もない。
電話の着信を取るのが年々億劫になってきたこのところの自分のことを、この世で一番良く知っている男だ。
左右を見渡すまでもなく、いつもの寿司屋には徹郎の他には客はない。着信を取っていいか、と目で合図すると、スキンヘッドの『タイショウ』が笑顔で頷いた。ため息を吐いて、ボタンの描かれた画面を指で右にスライドさせる。
「オレだ、」と言うと「徹郎さん、今どこにいるんですか?」と間髪入れずに譲介の声が聞こえて来た。
「おい、譲介。今外でメシ食ってんだ。話は後にしろ。」
「……は?」
どこから出て来たと思うようなドスの効いた声があちら側から聞こえて来て、うっかり耳元から電話を離してしまった。普段温厚な男が声を荒げることなどないので、反射的にこちらが何かしたかのようなうしろめたさがある。
「……文句あんのか?」と腰が引け気味に答えると「今日は僕が夕食作るので、って言ってありましたよね?」という返事が返って来た。抑え気味にした譲介の声は、相当腹を立てている時でないと聞けないような声音だ。
とっさに般若の角を生やした三十男の顔が頭の中に思い浮かんで、今日は何日だ、と間接照明で薄暗がりになっている辺りを見回す。ここはロスで、近所の寿司屋といえども野暮なカレンダーなどを下げているような場所はないというのに。
「今日か?」
譲介に聞いてみると「今日です。」という声がため息を共に聞こえて来た。
邪魔になってきた髪を雑に襟足で括り、エプロンを着てうなだれている様子が、目の前に見えるようだ。
譲介と約束を交わしたのは、数日前のことだ。話を聞いた時、いつもとは曜日が違うということを、ちらりと頭の隅で考えたことを思い出した。いつもと違うならカレンダーに丸でも付けとけ、と言おうとしたタイミングで着信があった、あの日。受け持ち患者の容体変化の対応に感けて――というのも妙な話しだが、今はとにかくそういう気分だ――その後すっかりメモを取るのを忘れていた。
「カレーか?」とメニューを聞いてみる。
先月のように、漁港近くで新鮮な魚を買って来て造りにしましたと言われでもしたら、後がない。
譲介からの返事は早かった。「カレーです。」と間髪入れずに言われて、退路が断たれたわけでもない、と胸を撫でおろす。まだメシを食い始めてはいないはずだ。
「譲介ェ、おめぇ、いつもカレーは二日目からのが美味いって言ってたな。」
「……何スかそれ。」
敬語を忘れた不機嫌なジョー先生か。電話の向こうじゃ、きっと正体を知らずにきゃあきゃあ言ってるクエイドの看護師どもに見せてやりたい面をしているに違いない。
「おめぇがこっちに来いって話だよ。今から住所を送るから、鍋の火を落として、ジャケット羽織って来い。」
カウンター席を立ち、キャッシャーに置いてある名刺サイズのカードを取り上げて電話のカメラで撮影する。
「家から十分の場所だ。財布かカード持って、駐車場もねえから歩きで……いや、走って来い。」
最近身体がナマってんだろとからかうように言うと、分かりました、と譲介は背筋を伸ばしたような声で言った。席に着くと、ふう、とため息が出た。カウンターの中でトロを握っている大将と、横並びに厚焼き卵を並べているドレッドの店員がこちらを見ていた。雁首揃えて、電話の相手に興味津々という顔だ。勢いで譲介に来いとは言ったが、次からはこの馴染みの店に気軽に来られるかどうか、不安になってきた。
「テツセンセイ、お客さんもう一人来る?」
……んなこたァ話を聞いてりゃ分かるだろうが。
「お連れさん初めてだね。」
そういや、機会があったらここに連れてくるっつってたな。
「席に着いたらでいいから、適当に握りを出してやってくれ。」
ありがとうございまァす、という妙にイントネーションが流暢な返事が返って来た。
とりあえず目の前のサーモン二巻をどうするかと睨みつけていると「シャリ乾いちゃうから早めに食べてネ!」という愛嬌だけは人の百倍もあるスキンヘッドの大将が、カウンターの中でシャリを握りながら、にっこりと笑っている。
サーモンを食べた後、腹を空かせて待つか普通に食べるかと考え、間が持たないので数か月ぶりに酒を飲む羽目になった。寿司屋のくせに置いてあるのは店主の趣味で集めた白ワインばかり。日本酒は辛口のスパークリングしかないというので、それにしろ、と言ったのが運の尽きだ。
二合弱しか入っていないような量で、そもそも半分はあいつが来たら飲ませようと思っていたのに、一向に次の客の気配がない。
チェイサーにも手を出さずにちびちびと杯を傾け続けたせいで、妙に酒が身体に回っていた。
このまま酒が抜けないなら、譲介に担いで帰らせることにもなりかねない。水くれ、と見習いに言ったとき、扉のベルがガラガラと耳障りな音を立てた。
遅せぇ、と𠮟りつけてやろうかとカウンターから振り返ると、譲介は膝に手を付いて背中を丸めている。
「あの、こちらに、さなだ、」
全速力で走って来ましたと言わんばかりの譲介は、こちらが入り口を見ていることに気付いたのか、身体を起こして「あ、て、つろ、さん………、あの、」とそこまで言って、辛いのかまた顔を伏せた。
こちらの視線が一瞬捉えた服は、ミッドナイトネイビーのフォーマルスーツに同系色のベスト。それに白シャツを合わせた譲介の姿は、普段省吾にレセプションやクエイド財団への寄付を募るためのパーティーへの参加を依頼された時に選んでいるコーディネートだ。青を引き締めるシルバーのタイとスーツに合わせたパンツ。
息を整えるために首を垂れたまま、「遅れてしまってすいません。」と言った。クリーニングを終えたばかりの服とは対照的に、髪は乱れてつむじが見える。
呼吸が落ち着いた譲介は、席に案内しようか水を出そうかと目線をうろつかせているアルバイトを手で制し、背筋を伸ばしてカウンターにやって来る。間近で見れば、去年のクリスマスに呉れてやったタイピンが見えた。上から下まで決めているこの姿を道行く人間が見れば、結婚式の帰りかと思うだろう。
「………おめぇなあ、パーティー会場じゃねえんだぞ。近所の寿司屋に来るだけでそこまでするか?」
息せききってやってきた男の服に仰天したせいで、すっかり酔いが醒めてしまった。
「だって、さっき送ってくれたじゃないですか、写真。」
「あー………。」
どういう客層が来るか、店の宣伝写真を確認したうえでの、この格好か。パーティーに出た後に小腹の空いた若い男女が個室で小さな庭を見つめているというコンセプトで撮られた写真は確かに見たことはあるが、開店はもう十年も前の話で、店の『タイショウ』も変わっている。
今の客層はといえば、ビジネスマンの接待か、はたまた中高年の男が女を連れてくるような店だが、それなりに流行っているとも言い難く、そもそもドレッドの見習いがいる時点で、こいつがいつもの部屋着にしているパーカーを着て来たところで何の問題もない。「他に客がいねぇって言っときゃ良かったぜ。」と髪を掻き上げると、こちらの舌打ちも気にせずに譲介は隣の椅子に腰かけた。
そうして、「ネクタイをダブルノットで結んで、タイピンを探すのにも時間が掛かっちゃって。」と言い訳しながらしれっと杯を持つ手の上に指輪を付けた方の手を重ねて来た。酒を飲んでいたらうっかり吹いていたに違いない。
こンのヤロォ。
「お酒、飲んでたんですね。手がいつもより暖かい。」
しらふの男に真顔でそんなことを言われ、見りゃ分かんだろうが、という言葉はあっさりと封じ込められる。長い髪が顔に掛かっていても、微笑んでいるのが分かる。
「……おめぇが遅いからだろうが。」
「ふふ、赤くなった徹郎さん可愛いです。」
「っ、………この、」
年下の男は視線に怯むどころか露骨に嬉しそうな顔をしてこちらを見つめている。左足を踏むか、膝下を蹴りつけてやろうかと思うが、一応は酒が入っている身で転びでもしたら目も当てられない。
「センセイ、お任せ作りますね?」
お連れさまにはおしぼりをどうぞ、とカウンターから助け船が入ったので、やっとのことで譲介も手を離した。
「お任せですか?」と譲介がこちらを見る。店のメニューは、種類は選べるが数は少ない。お任せと、旬と定番メニューの魚がいくつか、後は手土産専用のカリフォルニアロールだ。
「まだメシは食ってねえだろ、魚に好き嫌いあったか?」と尋ねると、「ないです。」と譲介はこちらに答え、それから、カウンターに向かって「僕には水をお願いします。」と言った。
ソファに倒れ掛かると、視線の先にはジャケットとベストを脱いだばかりの譲介が見えた。
隠れていたカマーバンドが見える。
ガキの頃から妙な色気はあったが、今ほどじゃねえな、と思う。まあこんなことを考えるのも酔いのせいだろうが。
三合ちょいの量を飲んで酔っぱらったのはオレだけで、結局譲介は最初の一杯を飲んだだけだ。
へべれけ、というのではないが、瞼を開けたままにしておくのも億劫で、杖を付けば腕がぐらつき、肩を預けりゃ足がふらつく。帰宅するにも家から十分の場所にある店でキャブを呼ぶ羽目になった。
年は取るもんじゃねえな、と思いながらソファの上で寝そべって寝てしまいたい気持ちと戦っていると「徹郎さん、」と名前を呼ばれる。
譲介は手にふたつのコップを持っていて、それをローテーブルに静かに置いた。コップがテーブルに触れる小さな音が部屋に響く。
ちょっとすいません、と。ソファの反対側の肘置きに置いていた足を持ち上げられて、譲介がそちら側の端に腰かける。
「はい、お水。」と差し出されたコップを飲み干した。冷水が喉を通り過ぎていくのが心地よく感じる。
「徹郎さん、楽しかったですね、今日。」
「……。」
こっちが寿司を食ってる間も店の人間とペラペラとしゃべり、誰が聞いても誤解のしようがないパートナー面をするのが楽しいというのなら、きっとそうなのだろう。
こっちにしてみりゃ、寿司は旨いが味が分からねえという状況で、自分の味覚障害を疑うところだった。
「あの店の人たち、皆あなたのことが好きみたいだ。」
タイピンを外した譲介が、ネクタイを緩めている。高校の一時期はブレザーだったが、ボタンで留めるタイプだったのでこうしてタイを締めるようになったのはこっちに来てからだろう。どことなくぎこちない様子の指先を眺めていると、寿司屋での情景が頭の隅に過ぎり、このまま暴れ出したくなる。
「譲介ェ、」人が忘れようとしていることを思い出させるんじゃねえよ、と腕を足の裏で押すと、年下の男はこちらを見た。
「あなたは気が付かなかったみたいですけど、僕はずっと、あの店の御主人から尋問受けてるみたいでした。」
「尋問?」
あれがそんな話ならむしろ生易しい。
良い年をした寿司屋の店主が――いや、店員もか、まあ雁首揃えてぴいちく囀ること。
「いや、まあ年の差を考えたらその、そういう風に思われちゃうのも仕方ないとは思いますけど。それで、あなたのどこが好きなのかいざ口にすると、優しいとか、愛情深いとか、そういう世間一般的な――つまり、僕にとってはあなたが世界一可愛い人って以外の――褒め言葉が全然思い浮かばない。それに、時々涙もろくなるとか、キスやセックスのときにあなたがどんな風になるかとか、僕にだけ見せるような特別な顔は、ほかの誰にも知られたくない。久々にスマートフォンの自動翻訳機能に頼りたくなりました。」
「……おめぇなあ。」
よくもそんなこっ恥ずかしいことが口から出てくるものだ。
面倒だがソファから起き上がり、譲介の胸元でぶらつくネクタイをぐい、とこちら側に引っ張る。
「誰が一番オレに惚れてるか、知らねぇとでも思ってんのか?」
うっかり力加減を間違えてしまって、キスをするのに歯と歯がぶつかった。
ああクソ。全く、酒なんて飲むもんじゃない。
「あ、徹郎さん?」
頬を真っ赤にした譲介が、口元を抑えている。
ぐだぐだ煩いことを言いやがって。
「分かったなら、四の五の言わずにさっさとベッドに連れてけ。」
他の誰にも知られたくねぇってんなら、好きにしろ、と言うと、そうします、と言って譲介は嬉しそうに笑った。
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