大つごもり



 自宅まであと少し。結露を避けるためか、ほんの少し開けられた窓からは、除夜の鐘の音が微かに聞こえている。
 一年の締めくくり、大晦日。仕事をきっちりと納め、簡単な納会に出て、酒を酌してまわった。
 会の最後に、賞与の封筒が部内の人間一人一人に仰々しく配られたところでお開きとなった。
 ようやく帰路に着けたのは零時の少し前。
 常日頃の仕事の行き来のためにはあまり使わないタクシーだが、流石に時間が遅かった。今夜なら終夜運転がされているのもわかっていたが、電車は初詣の客で混み合っていそうで、タクシーを選んだ。
 しかし、普段からこんな時間にはさほどのひとけがないような場所だというのに、肩を寄せ合うアベックや、眠そうな顔の子供を抱いた家族連れが、この辺りじゃ一番大きな神社へ続く大通りへと向かいそぞろ歩いている。
 誰かと並んで歩く人々の顔は一様に幸せそうに見える。
 
 ひとりで生きることについて、それは自分で選んだことだから後悔はない。
 とはいえ、俺はそう生きるしかないのだ、というやや強迫観念めいた考えが己の心のうちに全くないかというと。
「……」
 立ち止まって、吐く溜息は白い。
 あの夏の中では、こんなの考えられないことだ。
 あの、南方での忘れられない夏。目の前で、あまりにもあっさりと軽々に失われてゆく命を数多見てきた。
 だから。
 だから俺はせっかく拾った命を、無駄にしたくはない。
 そんな思いで仕事に打ち込んできた。時には地面を這いつくばる様な思いも味わわされた。そうやって、不様な生き方を続けて必死で金を稼いだところで、こんな夜もひとりだ。
 冷たい風が頬をなぶる。心まで凍てつきそうなほどに冷たく感じる。
 けれどこれは、あんな場所で、自分だけおめおめと命を拾って戻った報いなのだと己を納得させる。
 せめてもう少し早く帰れれば。
「…………」
 自宅の門の前まで来たところで、新聞受けに無造作に突っ込まれたチラシが見えた。
 ゴミとして捨てようと手に取ると、血のような赤い文字で、今夜、神社の境内に見世物小屋がやってくる旨が書かれていた。話には聞いたことがあるが、見るに耐えなさそうなグロテスクな内容が書き連ねられていた。
 新年を前になんとも悪趣味が過ぎる。
 握りつぶそうとしたその時、ある一文に目が留まった。
『妖怪の末裔、大晦日、東京の街に来り!』
 妖怪。
 この科学の時代に何を、と真っ向否定する気持ちはあるのに、子供の頃子守の婆さんに何度も妖怪について聞かされたことをふっと思いだした。
 人ならざるものの存在が身近にあるなんて俄には信じがたいこと。けれどもし本当にいるのなら一度くらい会ってみたい。
 そんな、幼い頃の好奇心が、胸の内にほんのりと蘇る。
 どうせ人が扮したものに決まっている。
 だが、このまま家に帰ってもただ寝るだけだ。
 小さな好奇心を頼りに、チラシをコートのポケットに入れ、マフラーを一度巻き直して神社へと足を向けた。

 歩道から石畳に変わる道をしばらく行き、立派な赤い鳥居をくぐったらすぐに露店の並ぶ境内。そこここに吊られたオレンジの灯りが眩しい。
 先の戦争が終わってすでに十年以上が過ぎた。
 戦争の影など微塵も感じない。人々は明るい笑顔で境内を進み、的屋の若い男は逞しく大きな声で呼び込みをしている。
 活気のある雰囲気の中で、妖怪を確かめるためにひとり歩いている独り身の自分が、あらためてやたらと寂しい人間に思えてくる。
 そんな物思いに蓋をして探すものの、目当ての見世物小屋らしき建物が見つからない。
 とっくに新年を迎え、本殿に初詣として参る人々を横目に小屋を探して、奥の暗い道へと進む。
 神社の裏手には大きな公園があり、そちらの方もたくさんの露店の人が集まっているのが見えた。
 春となれば美しい花を咲かせる桜が多く植えられた場所。今はすっかり葉も落ちた寒々しい木々の向こうまで目を凝らしても小屋らしきものはなかった。
 諦めかけたところ、公園とは逆方向に古い灯籠が続く道を見つけた。灯籠のうすぼんやりとした灯りだけの暗い砂利道。
 振り返ると、来た参道の方からは人がどんどん増えてきている様子だ。妖怪には会えずとも、とりあえずこの暗い道を通ってまた元の大通りに出られればいいという判断で、灯籠の頼りない灯りを一つずつ追いかけるように歩を進めた。
 すれ違う人はほとんどいない。さっきまで感じた活気が嘘のようだ。足元で砂利の立てる音がやたら耳に響く。
 いつしか人の気配は全く失せ、灯籠の灯りも心なしか一層弱くなってきたようにさえ思う。
 まさかこんなところで迷ったのか、そんな不安が胸に浮かんだその時、ぱっとひらけた場所に出た。
 奥に向かい鬱蒼と木が生い茂り、その真ん中に大きく立派な楠が一本。そしてその真下に、猥雑で、刺激的な内容の文字と絵の描かれた看板をいただく、薄汚れた木造の小屋が建てられていた。
 看板の周りには灯籠よりは少し明るいというくらいの、頼りない裸電球が幾つか吊るされている。
 入り口、と白いペンキで雑に書かれた引き戸はぴたりと閉められており、呼び込みの類や、営業していれば中にいるだろう興行師の気配も感じない。
 空振りだったのか。しかし、せっかく見つけたのだから、と不気味な空気を漂わせる小屋の裏手に回ってみた。
 そこには目隠しのように紅白幕が張られていた。時折風ではためく紅と白は、妙な澱みを覚えるこの場にあまり相応しくは見えなかった。
 もしかしたらこの奥に興行主がいるかも知れない。
 それに、もしかしたら妖怪も。
 不気味だとは思っても、恐ろしくはない。身体に直接的な害を感じるわけでもない。
 はら、と紅白の端っこを捲ってみると、そこにはパッと見た感じでもわかる、檻らしきものが二つ並んでいた。
 見世物に使う怪しげな動物でも閉じ込めているのか。
 暗闇に対しての漠然とした恐怖のようなものはないといえ、仮に獰猛な獣などがいたなら厄介だ。そんなふうに感じているのになぜか、頭の中で進め、と声がしていた。
 獣ではなく、妖怪が、という期待もあったからだ。
 背丈に近いくらいのその檻は正面の鉄格子以外は壁で囲まれており、ほぼ同形状のものが隣同士に並べられているようだ。いま自分のいるところからよく見える手前かは、目を凝らしても何も居なさそうだ。奥は、生憎と太い木の影になっている。
 期待とは裏腹、どうせそちらも空なのだろう、たかを括って砂利をざくざくと踏んで奥の檻の前に立つと、途端ぞくりとした。
 檻の入り口に大きな錠がかけられ、その上におどろおどろしい風の文字が書かれた札がぴたりと貼られていたからだ。

「…………」
 一瞬怯んだところで、檻の中に「何か」がいることに気づいた。
「……お主、何者じゃ」
 続けて、声が聞こえた。言葉だった。獣か妖怪と思っていたのに、人間かもしれない。この真冬に、冷える屋外で檻に放り込まれている?
 まさかの出来事にさすがに叫びそうになったが、ぐっと飲み込んだ。
 さっきの看板の灯りは届いていない。ただ、ざっと風が吹いて雲が晴れたのか、月明かりがぱあ、と注ぐ。
 そのとき、右手で頭を支えるように横になった、着流しらしい姿の人間の、それも男の形をした生き物の後ろ姿がはっきりと見えた。
「お前こそ、何者だ。こんなところで何を」
「……お主人間か。わしは人間は嫌いじゃ。さっさと去ね」
「何言って……お前も人間だろ?」
 頭と、腕と、背中。着物の裾からはみ出た裸足の足先も見えた。これが人間でなかったら何だというのか。
「ふん、一緒にするでない」
 言い捨ててこちらを向こうともしない男の、手首の細さに目がいった。
 ああ、あの夏。血に塗れ、冷たくなった戦友の手をとったとき、あんなふうだった。
 乾いて、萎んで、軽くて。およそ人間と思えないような。
 ぼろぼろの皮膚にこびりついた血の塊が、ぽろぽろとはがれてゆくその上へと、落とす涙も出なかった。
 だがこの寒さで、その薄着で、特に震える様子などもない。人間なら、とても耐えられないはずだ。
 それに、錠に巻かれた札が、もしかしたらの気持ちを確信に近づけさせる。
「なあ、お前もしかして『妖怪』か」
「……ならどうだと」
「よかった。俺は今日お前に会いに来たんだ」
 何を言ってるんだ、と我ながら頭の中が混乱しそうだったが、あながち嘘でもない。
「嘘をつくでない」
「嘘じゃないさ、ほらこのチラシ。これを見て俺は」
 鞄を脇に挟み、コートのポケットから取り出したチラシを広げた。
「……本当だとしてもどうでもよい。見世物小屋にいる『妖怪』をわざわざこんな日に見にくる人間など悪趣味としか思えん」
 こちらを一瞥もしない、人ならざるものからあまりに真っ当な正論を突きつけられて、何も言えない。
 自分に呆れる。
「は。はは、ごもっともだ」
 広げたばかりのチラシを、ぐしゃと握りしめた。
 幼い、まだ、幸せと思えた頃の好奇心が頭を擡げたこともあるとはいえ、たった一人で過ごす大晦日の夜、突然胸をついたもの寂しさを、何でもいいから何かで埋めたかっただけだ。
 囚われた哀しい妖怪をこうして見たところで、そんなものが埋まるはずもない。

「……なあ、なら、悪趣味ついでにさ、俺が、お前をここから出してやろうか」
「は? どうやって」
「……そうだな、金で」
「金?」
「お前をここに縛っている興行師がいるんだろう? 俺が金で話をつけてやる」
「……そんなこと、頼んではおらぬ」
「そうだな。頼まれてはない」
 けど、そうしたくなった。
 『妖怪』本人がどう感じているかは定かではないが、こんな寒々しいところで、そんな細っこい腕の姿で。
 そんな者をひとり、放っていきたくなくなっていた。
 暑い熱いあの場所へ、放ってこざるを得なかった者らのことを忘れてなんてない。
 忘れたことなんてない。忘れられるはずがない。忘れられない。
 毎晩夢に、今だって俺は。
「……もう決めたからな。お前を絶対にここから出してやる。だけど、恩を着せるつもりなんてない。どこへなりと、お前が好きなところへ行けばいい」
 こんなのはくだらない自己満足だ。それに初対面の『妖怪』を付き合わせるのも大概に悪趣味だ。
「勝手なことを。見知らぬ人間に助けてもらう義理などない」
「それも、まあそうだが、こんなふうに人間に飼われるよりはマシだろう?」
「…………自惚れるなよ人間。お主らのようなものに憐れみをかけられるくらいなら、虐げられているくらいの方がわしは」
「憐れみだなんて……ただ俺はな、たまたま今日、一年の中でも一番ってくらい懐があたたかいんだ」
「だからといって……理解ができぬ。その金は、お主自身のために使うがよかろう」
「そうなんだ。俺はお前のために使うつもりなんじゃなくて……結局これは、俺のためなんだ。それに、例えいくら金があったって……」
 なんだか虚しい。ここのところ、特に。
「普通は、な。多分だけど、一所懸命働いて稼いだ金で、例えば、好きな女や気のおけない友達、あとは、いればかわいい子供なんかに、うまいものでも食わせてやりたい……そんな風に身近な、大切な誰かのために使いたいなんて思うんだろう。きっと」
「……」
「それが俺ときたら。こんな日も、ひとりで……」
 初対面の、人間を嫌っているに決まっている、人間ではないものに、こんな愚痴を聞かせてどうなるってんだ。
 だけど、そういう存在相手だからこそ、本音に近いような気持ちを、初めて言葉に、声にしてこぼせたのかもしれない。
「この先も、ずっと……」
 はあ、と『妖怪』が溜息を漏らすのが聞こえた。それから、一貫してこちらを一瞥もしなかったそいつが、すっくと立ち上がる。
「……そこまで言うなら、仕方ない。ならばそこ。その錠に貼られた札を剥いではくれぬか」
 振り返った姿に、一瞬息を飲んだ。
 白、というより銀色がかったような薄い髪の色。それから片目にかかる長い前髪と、かすかに紅に見える瞳がとても印象的だった。
 背丈は軽く見積もっても五尺八寸はありそうだ。すらっとした姿は、やはり痩せ気味に見える。もう少し肉付きがあっても良いはずな体格だ。
「なにをぼうっとしておる。さっさと札を」
「あ、ああ。でもこれ、触って大丈夫なのか?」
「お主が人間ならな」
「なら、たぶん……」
 何やら怪しげな文言がびっしり書かれてるとはいえ、札は単なる紙でしかない。
 だが、この『妖怪』の男をここへ閉じ込めておく力があるのだとしたら。
 怯む気持ちはあった。しかしここまできてやっぱりできない、などと言うなんてのは、自分が情けなくなりそうで。
「……」
 檻のほんのすぐ前までゆき、あらためてしゃがむ。
 『妖怪』もこちらへ近づいてくる。鉄の格子を隔てて、見下ろしてくる、その目は昏い赤をしていた。
 お前などはなから信用していない。そう言いたげな。
 俺とてお前の信用を得たいというのでもない。結局言ってしまえばお前の言う通り勝手な、そして単なる気まぐれだ。だからおあいこだろうよ。
 そんなことを考えながら、まず指先でとん、と札に触れた。痛みやなんらかの違和感といったものは何もない。
 これなら、と端から一息に剥がしてやった。紙の裂ける音がしたかと思うと、札の形をしていた古い紙は、掴んでいた俺の指の先からさらさらと、細かな砂のように崩れて消えた。
「これで、いいか?」
「ああ」
「でも、この錠前がな……」
 扉にかけられた錠は触れてみてもそれなりの重みがあり、揺らしたところで、びくともしない、容易く外したり、壊したりできそうにない。
「それは、こうすれば」
 格子の隙間から、細い腕がにょきっと現れてきたかと思うと『妖怪』は、まるで砂糖菓子を崩すくらい簡単に、その錠前を壊してしまった。それさえなくなれば、話が早い。掛け金を外し、重い扉を開いてやった。
「ほら、出てこられるか」
 軽く段差が見える。痩せているようだし、ふらつきはしないかと手を差し伸べたが、かまわぬ、と手のひらで制止された。
 そして、すっ、と地面に降り立つ着流し姿の『妖怪』
「……」
 月の明かりに照らされた銀色めいた髪が、風に靡く。片方の目は隠れている。そして、足元は裸足だ。
「あ、おい足、冷たくないか」
「心配いらぬよ」
 こちらを見下ろしていた顔が、ぱっと天を仰ぐと、遠くから風を切るような音が耳に届く。
 すると『妖怪』の足元へと、一足の下駄が揃って飛んできた。
「……お前もしかして『妖怪』じゃなくて奇術師か?」
「違う。それから『妖怪』でもない」
「え、じゃあなんなんだよ」
「わしは、幽霊族の末裔じゃ」
「ゆう、れい……」
「そうじゃ。さて。どこにゆく?」
「あ。ああ。誰か、ここを動かしてる人間は近くにいないのか?」
「さあ? どこぞで酒盛りでもしておるのではないか」
 見世物小屋は、ここ東京に腰を据えての活動しているというのでもないだろう。年末年始や、祭りの時期に合わせて近郊の、こうした神社なんかを巡回するような形をとっているはずだ。
 いわゆる営業時間外だとしても、寝泊まりしてこの幽霊族や、小屋そのものを見張る人間がいてもおかしくなさそうなのにこの幽霊族だという男以外、人の気配を感じない。
 かといってこのまま黙って連れ帰ったりしてものちのち面倒ごとになるに違いない。
「じゃ、誰か戻ってくるまで、何か温かいものでも食って待つか……あ、いやそうだなお前は、もし行きたいところがあれば……」
 本殿の方まで戻れば、蕎麦くらいならありつけるはずだ。けれどどこへなりと行けと、俺はこいつに。
「蕎麦。は、悪くないかもしれんの」
「……ならよかった」
 檻の中、俺に背を向けていた時よりも、ほんの少し柔らかい調子で幽霊族が言う。なんだかほっとして、更にはちょっと嬉しい気持ちになっていた。
「じゃ、一緒に露店の出てるとこまで行こうぜ」
「ふむ」
「あ、ちょっと待て」
 自分が巻いていたマフラーを、幽霊族の首にかけた。
「これで、寒いの少しは」
「お主は寒くないのか」
「多少寒くても、コートがある。それに俺だけあったかいのもな」
「……まあ、礼を言う」
 なんとなく、バツが悪そうな様子で、幽霊族はマフラーを自分でくると巻いてみせた。
 そうして、二人で、さっき一人で来た道を戻ろうとしたところ、紅白の幕がひらりとめくられた。誰かくる。そう身構えたところ細長い坊主頭にちょんと毛の生えた、そして顔にも犬猫のようなヒゲをたくわえた小男が入ってきた。
「ゲゲっ!」
 小男は、幽霊族を見た途端、驚いた様子で声を上げた。
「なんじゃねずみの。こんなところに」
「や、親方に旦那の様子を見てこいって言われたんでさ」
「そうか」
 『ねずみの』と呼ばれた小男。二人は面識があるらしい。そしてその小男が言う、親方。そいつなら相手なら幽霊族の件について話をつけられるのではないか。
「なあ、」
「ん? 俺に何か用かい」
「その、親方に今からどうにか会えないか? 俺はこの男を連れて帰りたいんだ」
 どこへなりと、とは伝えてあるが、連れて帰りたいとしておいた方が話が早い気がした。
「そんな無茶な。この錠前、あんたがやったんだろ? 勝手に外に出したのだってまずいと……」
「分かってる。金ならある。そうだ。あんたへの駄賃も」
 鞄から賞与の入った封筒を取り出し、中身もちらりとだけだが示して見せた。
「おお、」
「どうだろう。これで、交渉できないか」
「……まあ俺も旦那をいつまでもこんな風にはと、思ってたところだからよ。ちょっと待ってな」
 来た時と同じよう紅白の幕をめくり、出て行った姿はふっと闇の中に消えた。
 ように見えた。
「おい! あいつ、今消えなかったか……?」
「……まあ、あれも妖怪の類、というか半妖怪じゃからの」
「なるほど……」
「ところで、わしはどこへなりと行っていいのではなかったのか? 連れて帰るとは」
「もちろんさ。でも話をつけるには、俺がお前を連れ帰りたいと、そうしておいた方がお前に都合がいい気がしたんだ」
「そうか」
 指の先で顎に触れて小さく頷く幽霊族。
 都合がいい、などという言葉は所詮はおためごかしでしかない。自覚はある。お前に、なんて責任を転嫁するような物言いをしながら、本当はその方が俺に都合がいいんだ。

 幽霊族、ということ以外は何も知らない。こいつが口にしたそれだって、本当かどうか俺には確かめる術もない。
 でも。
「……」
 とりあえず賞与の封筒から、二枚だけ札を抜いて、ポケットにおさめた。一枚はあの半妖怪への駄賃。そしてもう一枚は、二人分の蕎麦代のために。
 あとは全部くれてやるつもりだ。
 その前に、興行師との交渉はうまく行くだろうか。
 何もかも失った兵隊上がりのこの自分。それでも帝国血液銀行という日本でも有数といっていい規模の会社でどうにか勤め人として戦後の数年をやってきた。大きな仕事にも携わってきたという自負もある。
 とはいえ今回の相手は、これまで仕事で関係した相手よりも厄介であろうことは容易く予想がつく。
「……神妙な顔をしておるな」
「ん? そうか?」
 俺がお前をここから出してやる、と言い切ったからには虚勢だとしても、なんでもないふりをしたい。コートの内ポケットからタバコとマッチを取り出す。
 箱を開くと最後の一本だった。太く張った楠の根元に腰を下ろし、口に咥え灯した火が消えぬようにマッチに手を翳し、俯いたその時。
 月の灯りでできた幽霊族の、こちらの足元へと伸びた影に視線が向く。
 ふと見上げると、長い指でタバコを挟む格好を作る幽霊族の男。月を背に立つすらっとした姿は、どこかうつくしく目に映る。
「わしにも一本くれぬか」
 最後の一本をくれてやるのは、少し惜しい。けれど。
 その長い指でタバコを吸う所作を見たいという気持ちが湧いた。
「ほら」
 立ち上がって、煙を吐きながら、かたちの良く整った指へと吸いさしのタバコを譲ってやった。さっきのマフラーにしてもそうだが、タバコ一本と合わせても、多少なりとも態度の軟化は感じられている。しかしそう簡単に絆されるほど、この男もバカじゃないだろう。

 見世物小屋に限らず、こういう、ある意味如何わしい場所に活路を求めざるを得ない者がいることは理解できる。老いも若きも、男も女もひらたく同様に。
 戦争が終わって十年ほどがすぎたとはいえ、まだたったの十年だ。駅や、人の集まる場所で傷痍軍人として、物乞いのような真似をしている者も何年か前まではよく見かけた。
 ほんの少し、何か歯車が違うように動いていれば、俺だってそうなっていたかもしれない。大体、規模の問題ではなく、人の血を金で贖い、取引の道具とするというのもいつまでも続けられることでもないことは頭の端に常にある。

 誰も、決して好き好んでではあるまい。生きるために、生き抜くためには、選択肢が他になかったという理由もあったに違いない。
 それでもこの男のようにはっきりと囚われの身である者ばかりでもないはずだ。同じ人間ではないとはいえ、見た目は同じ人間。本人が望んではいないだろうに、この冬空の下囚われているものを、見過ごせる自分ではいたくなかった。
 しかし、その発端が何もかも自分本位なことに、嫌気がささぬわけでもないが。
「どうした? 吸わないのか」
「……お主は?」
「生憎それが最後の一本でな」
「そうか」
 深く吸い込んだ煙を、ふうっと吐き出して、幽霊族の男はタバコを挟んだ長い指を俺の口元へ寄せた。
「ん?」
「誰かと、こんなふうに何かを分かち合うたのは、久しぶりじゃ」
「……奇遇だな。俺もだよ」
 自分の指は使わずそのまま唇でタバコを咥え、ひと吸いだけした。残りはお前が、と煙を吐きながら伝えると、幽霊族は再び同じタバコを口にする。
 その唇が、かすかに笑んでいるようにも見えた。

「そういやお前名前は。や、その前に俺の方も名乗ってなかったな。俺は水木という。まあ、名乗りたくなければ構わんが……」
 名乗ったところで、そして相手の名を知ったところで呼び合うような関わり合いになるのだろうか。
 尋ねてから気づいても遅い。幽霊族の男は、短くなったタバコにあらためて口をつけ、少し逡巡するような様子を見せた。
「……水木、とやら。わしは名というものを持たぬ」
「え」
「仮にあったとて、呼ぶ者も、もう」
 白い煙が、月の明かりに照らされてけぶる。その向こうに見える紅い目が、初めに見た時よりもなんとなく哀しげに見えた。
 このわずかな時間で、この男は、微かながらにでも感情をこちらに見せ始めたように思う。
 仮にこいつをうまく引き取ることができたところで、行くての道はすぐ離ればなれになる。
 それでも、せめてもう少しあたたかい感情を抱いて、そして烏滸がましいかもしれないが、抱かせた上で離れたい。
「……」
 冷たい夜風が、幽霊族の長い前髪をなぶる。片方の目が隠れるほどの長い髪。その風が、合わせて紅白の幕を揺らす。そういえばついさっきその幕の向こうから現れた半妖の小男が、幽霊族を見て叫んだ声を思い出した。
「……そうだな。なら、俺はお前を、ゲゲ郎と呼ぶ」
「ゲゲ郎……」
「だめか?」
「……お主がそう呼びたいならそれで構わん。水木」
「そうか。ゲゲ郎」
 何故だろう。名を呼ぶと、途端に愛着のようなものが深まった。だが、このゲゲ郎とはほんの短い間の関わりと、己に言い聞かせる。
 
「こちらでさぁ」
 そろそろタバコを吸い終わろうかというゲゲ郎の唇からこぼれる煙を目で追いかけていたら、あの半妖の声が再び聞こえた。
 バサ、と大きな動作で紅白幕を捲って現れたのは、白髪混じりの髪を後ろに撫で付けた、体格の良い五十代半ばといった風情の男だった。
「幽霊族が欲しいという酔狂な男がいると聞いたが」
 ずかずかとこちらへ近づいてきたその男は単刀直入に言った。下の前歯に金が光る。やや派手な色目の三揃いの背広は、仕立てが良いものだというのが一目で分かる。
 いかにも金には不自由していなさそうな男が、この金で動かせるだろうか。あらためて不安が過る。
 垂れ気味の目は、優しげにもそして同時に鋭くも見え、このような薄暗い世界で生きてきた、ある種の貫禄や威厳のようなものも感じさせる。
 ごくりと唾を飲んで、口を開いた。
「僕は帝国血液銀行に勤める、水木と申します。今日は、家の郵便受けに差し込まれていたチラシを見てこちらへ参りました。そうしたら、旧知のこの男に出会いまして」
 いつの間にか、タバコを吸い終えていたゲゲ郎の視線を感じる。そりゃそうだろう。旧知、というゲゲ郎に関する部分については真っ赤な嘘だ。
「血液銀行に勤めるような男が、幽霊族と旧知?」
 ふっ、と鼻で笑われたが、話を続けるしかない。
「はい。幼き頃、妖怪の話は子守からよく聞かされており、自然、僕はそういうものに心を寄せるようになりました。当時暮らしていたのも、緑の深い調布の方で……川や、山において河童や釣瓶火といった妖怪を目にする機会も得ました」
「ほう」
「そうするうち、森の奥、木の洞で雨を凌ぐこの幽霊族とも出会ったのです」
 嘘がすらすらと出てくる己に感心しつつどこか呆れる。だが、嘘の効果をあげるには真実を混ぜるのも大事だ。
 子守の婆さんから妖怪の話を聞かされていたことや、調布で暮らしていたことは本当だ。
「……それは本当か?」
 興行師は、ゲゲ郎の方へ向かい尋ねる。嘘だ、と言われてしまえば終わる。首の後ろがひやりとした。
 ゲゲ郎は、ちらりと俺を見て、一度頷いてみせた。話を合わせてくれるつもりらしいことに胸の内でほっとした。
「しかし、いかにも出来過ぎじゃないかね」
「勿論そう思われるのも無理はありません。けれど、事実は小説より……とも言いますように、嘘偽りのない真実の話です。ただ僕も学校に上がる前、都会へと転居をしてからはこの男を含めた妖怪との縁も薄くなり、その上、戦時中南方で少々怪我を負ったせいか、古い記憶が長いこと曖昧で……」
 ここで、服の下、左胸に残る一番大きな傷のあたりを押さえて、これもまた傷の残る目を伏せる。
 動きが大仰ではないだろうか。心臓が早くなっているのを気取られぬようにと思えば思うほど鼓動は早まる。
「……だから、こちらを訪れて、ゲゲ郎にであった時本当に驚きました」
「げげ、ろう?」
「はい。面影は強く残っており、出会った瞬間にその名を思い返しました。僕と、それからゲゲ郎だけが知るこの男の名前です」
 興行師は無言で目を見つめてくる。その奥に嘘があれば暴いてやるとでもいうように。
 しかしすべてをまっさらな真実とするつもりでもって、その目をじっと見返した。
「……幾ら用意できる」
「今はひとまずこれだけ」
 交渉の余地ができたと感じた。間髪入れず、鞄におさめていた封筒をそのまま差し出す。興行師はそれを受け取ると、徐に中身を検める。
 まず、明細を眺めて、口を開いた。
「足りん、」
「ならば、正月明け、銀行がひらく日まで待っていただけませんか。少なくともその倍は用意、」
「話は最後まで聞きたまえ。……足りん、と、言いたいところだが、その幽霊族は近ごろ与えた食事もろくにとらず衰弱が進むばかりでな。小屋の舞台にもまともに立たせられず正直処置に困っていたのだよ」
「は」
「この金額で引き取ってもらえるなら、こちらにも都合がよろしい」
 にやりと笑う、興行師。
 衰弱という文言が引っかかりはしたものの、ひとまず安心した。ゲゲ郎は、表情を変えずにこちらを見ている。軽く笑いかけると、ふいとそっぽをむく。
 その間に興行師は封筒から取り出した札の束を、慣れた手つきで捲り勘定をはじめる。
「ところで君。明細より二枚足りないようだが」
「あ、それはこのあと、ゲゲ郎と蕎麦を食べようと」
 ぱちんと最後の一枚を指で弾いた興行師から指摘をされ、つるっと返した言葉。それは紛れもない真実だ。
「そうか。なら本殿の西側にある灯籠近くに構えた蕎麦屋がいい」
「何故です」
「ウチの若い衆の店だからだ」
「……承知しました」
 そこにこの金を払えば、幾らかは興行師のものになるということかと納得した。
「では、後は好きにしたまえ。どこへなりと。通りの方に車を待たせている。わしは投宿先に戻る」
 封筒を胸の内ポケットに無造作に突っ込み、興行師はきびすを返す。その背中に、ありがとうございますと頭を下げて礼を述べた。男はひら、と葉巻を持った手を振る。その姿が紅白の幕の向こうへと消えるまで見送った。
 
「……お主、よくもまああれだけすらすらと嘘がつけるものじゃな」
「そう言うなよ……」
 一気に肩から力が抜けて、両膝に手をついた。
 相手は単純に年齢も上、職業柄を考慮に入れずとも海千山千の人間に見えた。少なくともこの俺よりは。
 仕事で培った自信のようなものが多少はあったとはいえ、圧が強い相手と一対一で対峙したことで緊張をしていたらしい。
 予想したよりも呆気なく話が運んだが、もしかすると嘘も何もかも見透かされた上のことだったのかもしれないとも思う。
 まあどちらでもいい。
 幽霊族の男は。いや、ゲゲ郎の身は晴れて自由となったのだ。当初の目的はきちんと達せられた。
「褒めておる」
「……、ならよかった」
 顔を見合わせたタイミングで、自然と頬が緩む。するとゲゲ郎は、今度はこちらを見たままで、ちゃんと笑ったように見えた。
「げげ、」
「いやーよかったよかった。けどよ、兄さん。俺との約束忘れてないかい」
 笑んだ意味を知りたくてゲゲ郎に声をかけようとすると、遮るように半妖が、満面の笑みで手のひらを差し出してそう言ってくる。
「あ、ああ。忘れるものか。ほら」
 初めに用意した札とそして額面は小さいものだが財布に残っていた数枚の札も合わせて全部渡した。
「こんなに?」
「交渉も上手くいった。それから……」
 ゲゲ郎とは、知り合いのようだったからここを出てからもできれば様子を見てやって欲しい。そう頼もうかと考えたのだが、流石に差し出がましいことかと思い直し飲み込んだ。
「それから?」
「いや。なんでもない。世話になったよ。で、あんたはこの先もここで?」
 この見世物小屋で生活するつもりなのかと尋ねてみれば、半妖は首を横に振った。
「まあ、旦那がこうして自由になったなら、俺もしばらくここからは離れるつもりでさ。じゃあ、お二人とも達者で!」
 そうして、小柄な半妖の男は、来た道とは逆方向、鬱蒼とした森の方へと向かい、初めに見たのと同じよう、文字通りすうっと闇の中へと同化するようにして姿を消した。
「……また消えた。まったく不思議なものだな」
「そうかの。わしにはお主の方がよほど不思議じゃ」
「何がだよ。俺なんか別に……」
「俺なんか?」
「そうさ、俺なんか……」
 なにも不思議なものか。だってなんにも持っちゃいない。単なる空っぽの、ただの、人間の男で。
「……人間なんか、とは幼き頃からずうっと思うておった。が、人間すべてひとまとめにしてそのように考えるのも些か乱暴かも知れぬ、と教えてくれる者も……以前は」
「そう、か」
「……そしていまは、お主が」
 腕を組み、どこか困ったように一度俯き、それからふっと空を見上げてゲゲ郎は、ちいさく呟く。
「…………うん」
 形容し難い感情が、ふいにこころを乱す。おかげで、たったそのふた文字しか言葉にならなかった。何かもっと気の利いたことが言えねえのか。と恥ずかしくなる。
 ざざ、と常緑の木々が風で葉を揺らす。まるで呼応するように胸の内がさらに強くざわめく。いっそ胸苦しいように思えて、コートの上からぎゅっと胸の辺りを掴んだ。
 こころを揺らすものの正体に、薄ら気づいている。
 だってこれまで俺の中にはなかったものが新たに息づいているのをかんじている。気づかないわけがない。
 そうだ。気づいているから、だからそのことに目を瞑る
「? どうかしたか」
「や、なんでも。それより、ひとまず蕎麦食いにいくか……ゲゲ郎」
「承知」
 

 他人から自分へと向けられる感情に対して、鈍感でいるよう努めてきた。内地の土を踏んでからは特に。
 その感情の正体が正だろうが負だろうがお構いなしにそうしてきた。
 なんなら負の感情の方がマシだとさえ。
 正の感情、なかでも性愛が絡みそうな気配のものはとりわけ厄介だ。だからこそ避けてうまく躱すよう、そういう道を選び生きてきた。
 三十代も半ばが近い。この歳になって細君どころか、情人の一人もおらぬというのも、自分自身の中ではきちんと筋が通っていて、当たり前の道理だというくらいの気持ちだが、世間様からするとはなはだおかしいこと、くらいの認識の差があるだろうというのも理解はしていた。
 良いご縁があるから紹介を、などという誘いはすでにいくつ受けたか覚えてもいないくらいだ。
 それら全てを丁重に断った。
 そのせいで仕事に障りが出そうなこともあったが、どうにか切り抜けてきた。
 
 だって無理だ。
 自分一人で手一杯のこんな、俺なんかが、他のたれかを愛するなんて。

 ましてや愛されるなんて。

 年嵩も増してきたこの頃は、所帯を持たぬのは、この顔や身体に残った傷のせいとすれば、ひとまずそこで話をおさめてもらえるようになってきた。
 目の傷は、見えるものが見えづらくなった。胸の傷は胸の内にまで侵食しているのか、それ自体が奥底に仕舞い込みたい記憶の在処なのか、悪夢を見るたび痕を掻きむしっている。
 見えるものも見えないものも。あの戦争の後、この身に遺ったものは酷いものばかりだと思ってきたが、思わぬところで役に立ってくれた。
 一人でいい。
 一人が、いいんだ。
 ずっとそう思って、言い聞かせてきたのに。
 こんな年の瀬に、心からあたたかそうな人々を目の当たりにして、一人でいる己のこころが冷え切っていることを自覚させられてしまった。
 自分で選んだくせに。
 進んでそうしてきたくせに。
 幸せとか、愛とか、そんなものからは望んで遠ざかっていたかったくせに。
 いまさら、初詣に向けてそぞろ歩く人々が、眩しいだなんて。
 そんなふうに羨む資格さえないような人間だと自覚はあるのに、それでも、必死で生きてきた十年ほどが途端に虚しく感じて、半ば自棄のような気持ちでここへきた。
 幸せだった頃の『記憶』に縋って、妖怪に会いに。
 実際にこうして会うことのできたその『妖怪』のようなものに、俺は今もしかしたら。

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