Joyeux Anniversaire

 今では希少な本物の牛を世話したことはなく、こんな時にどうすべきかなどわかるはずもない。ただひたすらその体を撫でていたキャスバルは突如全てを告解したくなった。出産という状況がその場を一時的に秘蹟の場に変えたようだった。
「君に言うことがある」
 シャリアは牛の尻から飛び出る足をちょうど掴んだところで、こちらを見向きもしなかった。
「今までずっと…」
 2分前まで牛の近くで仮眠をとっていたシャリアの明るい色の髪は寝癖で乱れ、首筋は藁とキャスバルのつけた跡が飾っている。ぬめる子牛が母体から出るのを助けようと、長い腕に筋肉が浮き出る年上の青年をキャスバルは新鮮に眺めた。会う度にそれをする。
「君に会っている間中、この家の生乳を盗んでいた」
 遂にシャリアは若い男を一瞥したが、それでもまだ何も言葉を発しなかった。仕方なくキャスバルは犯行の詳細の説明を続ける。
「ポケットに倉庫の鍵を入れているだろう。あれを友達に渡してた。今晩もだ」
「…あの青い髪の?」
「ああ、シュウジだ。妹もきてる」
 シャリアの眉が上がった。妹のセイラはまだ5歳くらいの子どもで、ほんのひと月前に交通事故で親を亡くし妹の世話をするこの天涯孤独の若者を哀れに思ったことが、シャリアが牧場の仕事を与えたきっかけだった。
「どうしても一緒に行くときかなかった。1人で家に置いていくわけにもいかない」
 聞かれもせずにキャスバルは早口で言い訳をした。その間シャリアは今まで何度このきれいな金髪の男と寝ただろうかと数えていた。そういえば最初は夜に寝室に忍んで来た。その後は白昼だろうと何だろうと気が向けば求め合っていたものだった。5度目の放牧中までカウントして思い出すのをやめた。
「…うちの生乳で何を?」
「コンクールで賞を取れるフロマージュを作りたかった。それにはここのが一番だから」
 確かにこの牧場はコンクールの常連だが、味よりもその賞金額を聞いて青い目を輝かせていたキャスバルはまだ少年のようだった。シャリアは牧場のオーナーである兄妹を頭に浮かべる。乗馬するキャスバルを好ましく眺めていたキシリアはともかく、兄の方に見つかったらただでは済まされないだろう。
 シャリアは熟考することはできなかった。
 外で何かがぶつかる重い音と、若い娘と子どもの怒鳴り合いが聞こえてきたからだ。
「まずい」
「誰だ」
「マチュです。普段は別のコロニーにいますが、今日はクァックスの納品日だ」
 外に出ようとするキャスバルの腕を掴んで押し留める。
「あなたはとりあえずここを離れて。オーナーに殺されますよ」
「そんなわけには」
 シャリアは抵抗する男にキスをする。その丁寧な口づけはキャスバルを素直にし、2人は僅かに別れの時間を味わった。
 キャスバルの手が未練がましく男のTシャツの中に入り、肩甲骨の脇をなぞり始めた時、さくりと藁の上に物体が置かれるような音がしてシャリアは我に返る。今までもずっと唸り声を響かせていた母牛が長い溜息をついていた。キャスバルに手伝わせて生まれたばかりの子牛を母親の顔の近くまで運ぶ。
「妹さんのことは私に任せてください」
「…すぐ連絡する」
 労働の対価として1番良い馬を選んでやると、キャスバルの後ろ姿は瞬く間に見えなくなった。

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