柏手
「そういえば、草若兄さんのサインの話ってしましたっけ……。」と言って喜代美ちゃんがため息を吐いた。
いやあ、聞いてへんけど。
オレが、返事もせんと粟善哉の餅がうにょうにょと伸びてるのを無理くり口に入れているのが聞き流してるように見えたのか、やっぱええです、という独り言のような短い言葉が、コーヒーの匂いがする空気の中に消えていった。
「……えっ、なんやそこで止めんといて。」
気になるやんか。続き聞きたいで。
小浜の魚屋食堂に飾ってある発泡スチロールの保冷箱の蓋の裏側のサイン、書いた時の小草若のままやし、襲名終わって落ち着いたやろからそろそろ新しいのに書き直して欲しいて野口友春が言ってた、て喜代美ちゃんから聞いたのが丁度五分前のことや。
エーコちゃんのニュースキャスター時代のサインはいつの間にかなくなってるし、五木ひろしのサイン色紙も汚れて黄ばんでるからて言って外したとこやて聞いた。結局発泡スチロールに書いたオレの適当なサインが一番きれいに保存出来てるていうのが……ほんま意外ていうか、まあ意外でもないんか。
今度小浜行ったら、て言ってるうちにいつもみたいに焼き鯖定食食べてたら忘れてまうかもしれへんな……。
ほんまは現地で書く方がええとは思うけど、いっそのこと、そこの文具店でサイン色紙とペン買うてきて、もう喜代美ちゃんに渡してしもたらええんとちゃうやろか。
ほんまなら今の草若ちゃんのサイン、時価四千五百円也やで。
頑張って独演会に来てや~♪てなもんや。
まあ四草のサインはオレのと一桁ちゃうんやけどな。
「こないだ、草若兄さんのサイン、うちの子に書いてもろたやないですか。」
「あのオチコちゃんの分な~。」
寝床で飲んでた時に小草々が「草若師匠のサイン、僕ほんまにいりませんから!」て色紙差し出して来るから、「お前そんなにオレのサイン欲しいんか~、わかったで!」てただで書いてやったら、玄関から「草若ちゃん、ほんまにありがとう!」てなんやオチコちゃん出て来たもんな……。
「あれなんで隠れる必要あったんやろ。欲しいから書いてくれ~て一言言うてくれたら書いてあたるのに。」
「それ、私があの子に『草若兄さん今が一番忙しいんやから、あんたが前みたいに周りちょろちょろして迷惑掛けたらあかんよ、』て言うてた時期やからやと思います。」
「そんなん寂しいやんか!」
「そういうても、あの頃は、四草兄さんからも疲れてるみたいやから、て言われてましたし。私もこないして草若兄さんのこと甘味に誘うの遠慮してたら、あっという間に粟善哉の季節になってましたもんね。」
「あいつ~、帰ったらシメたらなあかんな。」
「お手柔らかにお願いします。私が草若兄さんに言うたのがバレたら、また怒られますさけ。」
シーソーのヤツ……ほんまにヘッドロックやぞ。
「さっきの話ですけど、その草若兄さんのサイン、今はうちとこの、ビリケンさんの横に飾ってあるんです。」
草々が師匠にあやかりたいて新しく買うてきたていうあれか。
じいちゃんが買って来てオヤジが塗り直した分は、オレが持ってってしもたもんな。ほんまはあれくらいは草々に譲っても良かったっちゅうか……。
まあ四草が時々無言で磨いてるから、うちにあってええ気もするんやけど。
「あ、草若兄さん、続きええですか?」
っと、今は喜代美ちゃんの話やった。
「ええでええで。底抜けに続けてええで~。」
「問題は、その底抜けです~!!」
あの子、草若兄さんのサインの前で柏手するんです、と喜代美ちゃんが言うた。
「最初は『底抜けに成績上がりますように〜!』から始まって、底抜けに足が速くなりますように、とか。底抜けにお小遣いあがりますように、とか。新しい家、確かに近くに天神さんもないですけど、それにしたって、うちの中で、しかも草若兄さんのサインにお参りとか、そんな適当なこと……。かといって、まだ小さいですから、毎日外のお地蔵さんにひとりでお参りに行って、変な事件に巻き込まれても困るし。なんやどうしたらええんかなあ、ていうか。」
喜代美ちゃんもほんま立派なおかあちゃんやなあ。
「いや、好きにさせといたらええやんか。どっちか言うと、オレのサインよりビリケンさんの足の裏にお参りしてるようなもんやろ。まあオレの口から言う話ともちゃうけど、鰯の頭の信心からていうし。」
……ただの骨より鰯の頭の方がまだええわていうか。
「なんかすいません、しょうもない愚痴聞いてもろて。」と言って喜代美ちゃんがコーヒーを啜ってる。
日暮亭のロビーのインスタントとちゃうくて、ここのブレンドほんまに旨いもんなあ。
「またなんかあったら、ちょくちょく相談してくれてええで。フットワークの軽さが取り柄の草若兄さんや。」
「あ、草若兄さん、もしかしてまた仕事減って来たんですか?」
喜代美ちゃ~~~~~ん、それは分かってても言わんのが人情やで。
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