無題/聡狂(2024.03.22)

「聡実くん」
 風呂から上がって、寝室の入り口に立った。狂児はベッドに座っていて、その膝の上をぽんと叩く。その瞳の奥にたしかに愉悦の色があって、聡実は思わず舌打ちをした。
「つれへんなぁ、聡実くんは。ほら、こっちおいで」
「従ってほしいんなら、そうしたらええやろ」
 CommandでもGlareでもいい、Domの狂児はSubの聡実にいくらでも好きにできるというのに、そこで敢えてこちらを伺ってくるところに腹が立つ。き、と睨みつける聡実を、狂児は目を眇めて眺めていた。
「聡実くんはそれでええん?」
「狂児がええんやったらな」
「も〜」
 話進まんやん、軽薄に笑う狂児は到底それを憂いているとは思えない。ギラついた視線は欲を隠す気すらなくて、自然ため息が溢れた。狂児は普段の仕事である程度発散できているのか、聡実にDomとしての欲求不満をぶつけてくることは多くない。それでもこうして、たまに昂った神経を宥めるよう聡実に求めてくることがある。そうしなければ落ち着かないというのなら、狂児と交際している身としては、他者との行為で満たされてもらっては困ると思うのだ。
「ほら、言うたらええよ。僕にどうして欲しいんですか?」
「……、Come」
 重力で引きつけられるかのように、聡実は抗えず狂児の元へ歩いた。ぽすりと軽い音を立てて隣に腰掛けると、狂児は嬉しそうに頬を緩めた。伸びてきた腕が頭を撫でて、ええこやなあ、こぼす言葉が聡実の気持ちを溶かす。聡実の中のSub性が、確かに褒められることに反応して、温度の高い息を吐いた。
「それ以外には?」
「せっかちやなあ」
「そんなん、狂児のせいや」
「ふ……、聡実くんかてそうやろ」
 じゃあ、キスして欲しい。素直な言葉に、それがCommandじゃなくてもそうしていただろうな、と思う。ふれあう唇はかさついていて、頻繁に手入れをするような人ではないことを感じさせる。相手は二十五歳上のおじさんで、聡実の同年代が恋人といって浮かべるイメージとはずいぶん違うだろうけれど。
 表面をくっつけるだけで離せば、狂児の視線が泳いだ。物足りないのだろう。けれど、それを聡実から指摘してやるようなことはしない。他人からの望みに流されるように生きてきたそのひとの、望まれるものでありたかったから。
「それで?」
「なあ聡実くん、いっつも思うんやけど、これあんまりDomとSubっぽくないよな」
「それがなんですか。だいたい、そっちが抱かれてる時点でぽくはないやろ」
「せやけど、……聡実くん、Kneel」
 逃げたな、と気づいたけれどそのまま、床に尻をつけた。見上げた狂児はGood Boyと、聡実よりは自身に言い聞かせるように繰り返した。聡実は躾けられたいよりは褒められたいタイプだ。たいした命令でなくても、応えたことに褒美があれば気分が高揚してくる。
「な、こないだ聞いたんやけど、おもろそうなCommandがあって、使てええ?」
「中身次第やけど。……ええよ」
「Attractって言うて、『その気にさせる』いうんやと」
「ああ、……惹きつけるみたいな意味ですよね」
「お、さすがやん。たこ焼きもぐもぐ学部もちゃんと勉強してるんやな」
「……、死んでください……」
「で、それ、言ったら聡実くんは俺になにしてくれる?」
 試すような調子。遊ぶかのごとき表情。その向こう側の空虚。極端に狂児に近づいた人間だけが知っているうつろに、何人が手を突っ込んできたのだろう?
 聡実はハッと鼻を鳴らした。
「やってみたら。狂児さんのこと、ちゃんと誘惑したる」
「……おっかな。知らんで、どうなるか」
「しばき倒すから平気や」
 狂児が小さく息を吸う。聡実はその喉から吐き出される声に耳を澄ませた。

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