であいがしら

「ありきたりだけど、落とし穴というか、遭難というか……自分でもどうしてこうなってしまったのわからなかったりする。自分としては、ただただ真っすぐ道を歩いていただけのつもりだったんだけどさ」
「僕としては、そうですね……夕立ちか大雪、あるいは台風といった感じですね」
「そう聞くと、なんだかちょっと詩的に聞こえるから不思議だね。自然現象のようなものか……つまり、あらかじめ準備をしておけば、被害を最小限に抑えられるってこと?」
「いえ、どうしようもない、防ぎようがない事象ということです」
 出会ってしまったら、あとは粛々と対処するしかありません。
 そう言って、ハン・ジュウォンは肩をすくめて見せた。手の打ちようがない、といった表情が往年のムービースターのようにきまっていて、そのさまに対面に座っていたオ・ジファは鼻を鳴らす。かわいいけどかわいくないね。 
 もっとも──二人の共通の知り合いであるところの──幼なじみは、そういったところが良いんじゃないとにやけた顔をして言うのだろう。
 すくめた肩からつうっと手を伸ばし、ジュウォンは無造作に目の前のクロワッサンを口に運んだ。ジファもスッカラですくったスンドゥブを一口飲み込む。
 二人がいるこの漢江鎮駅近くの高級フードコートは清潔で快適だが、オ・ジファの好みではない。そのせいか、このスンドゥブも鐘路の本店で食べたものの方が美味しかったように思う。ジファはもっと騒々しくて、適度に風が通りつつも、そこここから食べ物の匂いが漂ってくるような店の方が好きだった。年を経てようやく自身の好きも嫌いもわかるようになった。若かった(幼かったと言ってもいい)あの頃は、ここのような洗練されたものの方が好きなのかもしれないと考えたこともあったが。
 とはいえこれだって普通に美味しいスンドゥブだ。次に木のトレイの上に並んだパンチャンからうずらの卵をつまんで口に放りこむ。こちらも美味しい。
 ジュウォンはジファからの返しを待ちつつ、アイスコーヒーを上品に啜った。
 こういった高級フードコートやスーパー、マンションが広がるマニャンを想像してみる。あの頃の憧れ。整っていて美しい、住民と開発業者が抱いた大いなる夢。本当に皆がみな、同じ未来を描いていたのだろうか。
「まあわかるような気はするけど」と、卵と一緒にジュウォンの言葉を飲み込んだジファは言った。
 確かによくよく振り返ってみれば、ジファはただ道を歩いていただけ、ではなかった。開発事業者ことイ・チャンジンは荒天のような男で、二十歳そこそこのジファの人生に、風を、雨を、雹を降らせた。
一人の幼なじみが忽然と消え、二人の幼なじみが兵役へ留学へ去っていった、あの頃のマニャン。思うように動かない足を抱え、不仲の両親を横目に見ながら幼い弟の面倒を見る日々を過ごしていたジファには、それが人生を一変させる嵐に見えてしまったのだ。嵐の後の晴天を想像して、自ら吹き荒れる風の中に飛び込んだ。すべてを置いてソウルへと駆け出していった。
 オ・ジファとイ・チャンジンが作ろうとしたドリームタウン。整っていて、清潔で、快適で、美しい場所。そんなものは好きではなかった。それに気づいていなかった。結局、夢は一年も持たなかった。
「確かに防ぎようがなかった。そういったタイミングはどうしたってある」
 ジファは目をつぶる。ソウルで暮らした最先端のマンションの佇まいは、今でもすぐにまなうらに蘇る。
 あんなもの、崩れ落ちた墓石だ。
「あの野郎、最後には私をマンションに閉じこめて、勝手に外に出られないようにまでした」
「犯罪じゃないですか」
「犯罪者だったからね」
「しかしそれは防ぎようがないものではなく、防がれるべき事件でしょう。そんなものは自然現象でもなんでもない」
 眉間に皺を寄せて言ったジュウォンにジファは思わず笑ってしまう。
 今のハン・ジュウォンのような警察官が、あの時駆け込んだあのソウルの警察署にいたのなら、ジファは今ここで彼に向かい合ってはいないだろう。
(「あとはお二人でよく話し合って。ご家族なんですからゆっくり、ね。大丈夫、よくある話ですから」)
 あの時のあのクソ警察官。あの時、迎えに来たイ・チャンジンにジファを引き渡したあのクソ警察官。それからあの時、地上げ屋に嫌がらせを受けている父を無視して走り去ったあのクソ警察官。そしてあの時、二十歳のイ・ドンシクを無理矢理引き立てていったあのクソ警察官。
 あの日あの時のあのクソ警官たち。当時のジファは燃える怒りに身を任せ、その炎に急きたてられるまま、彼らとは違う警察官になることを決意した。イ・チャンジンのような犯罪者を合法的に殴ることができる警察官になってやると心に決めた。
 なるほど、人と人の出会いというのは、ある意味防ぎようがないもので、それによってなにもかもが一変してしまうことがある。
「そうだね。私も本当にそう思うよ」
 そうして、まったく思いもかけない方向から、過去の自分が防ぎようのなかった嵐から守られる出会いもあるのだ。未来が過去を変えるような出会いが。
 微笑んだジファを不思議そうにジュウォンが見やった。
 ジファは自分のトレイから手をつけていないパンチャンの小皿を一つ、彼の方へ押しやる。ジュウォンは戸惑いつつも軽く頭を下げた。サラダ用のフォークを手に取り、どうしようか迷うような仕草を見せたあと、思い切ってそれを白菜に突き刺した。
 ジファの心を探ろうとしてそれをやめたらしい後輩は、ただ貰った食べ物を口に放りこむことに決めたようだった。重ねられた白菜の量は少ないので、すぐに食べ終わるだろう。
 彼がジファのささやかな御礼を咀嚼し終わる前に、聞きなれた声が二人の耳に入ってくる。
「申し訳ございません。たいへんお待たせいたしましたあ」
 なんでもない顔をして、それを裏切った濡れた額で、イ・ドンシクはオ・ジファの隣に滑り込んだ。ジュウォンとジファは、彼に同時に文句をつける。
「遅い」
「遅すぎますよ」
「でも話は盛り上がってたでしょ」
「それでなんであんたの遅刻が帳消しになると思うのかわからないんだけど」
「それはそうだけどさ」
 もっとも、ドンシクができる限り早くここに来ようとしたことはわかっていた。執行猶予があける直前の、最後の保護観察官との面談が長引くものなのはジファも知っている。だからそれ以上は責めず、彼にもパンチャンの小皿を一つだけ渡すことにする。オイキムチだけかよ? などと言ってきたので、肘で小突いてやった。大げさに痛がる振りをするドンシクは、そのパンチャンがジファの礼だとは気がついていないだろう。 
 イ・ドンシクが、ここでこうやって笑っていることが、過去のオ・ジファを救っているなんてことに対する礼だとは。
「お、ありがとうね」
「いえ、お気になさらず」
 期せずして過去のジファに寄り添ったもう一人は、すました顔でドンシクのためにカトラリーを取ってきてやっていた。甲斐甲斐しいことだ。
 献身的すぎるハン・ジュウォンは何だか助けてやりたくなる。ジファは彼の代わりに幼なじみをつついてやることにした。
「頼みごとをしてきたのはそっちでしょう。ハン・ジュウォン警衛なんか、わざわざ非番の日に江源自治道からソウルに来ているんだよ。あんたが美味しいレストランに疎いばっかりに……」
 それだけではないだろうが、とりあえずジュウォンに対する貸しを強調しておく。
「いや、本当にごめんなさい~」と、ドンシクはキュウリを頬張りながら言った。反省が足りない。
 本来の今日の予定は、ハン・ジュウォンご推薦の梨泰院のイタリアンでランチを奢ってもらい、その代わりにドンシクにジファの友人(ジファがテコンドー国際大会で入賞した時の対戦相手だ)を紹介するというものだった。友人はソウルで、DVで逃げてくる母子や野宿している女性を保護するシェルターを運営する法人に勤めている。誰にどんな頼まれごとをされているかまでは知らないが、まだ信用調査員資格を取れる立場にもない癖に、ドンシクは自分の手が誰かの手を掴めそうならば、それが嵐の中にいる相手だとしても、諦めることをしないのだ。
「それで結局なんの話をしてたの?」
 オイキムチを食べきったドンシクが、ジファ、ずいぶん良い笑顔だったじゃない、などと微妙に視線を外しつつ言う。
 急に拗ねた声を出したドンシクにジファは瞬いた。
(なに、あんた、それ妬いてるわけ)
 ジファもドンシクもお互い中年なのだから、そんな声を出してもかわいくなんかない。というより幼なじみのそういった仕草は気持ちが悪い。ジファの正面で目を見張っている若者にはきいていそうだが。
「あー……、恋バナ?」とジファがジュウォンを見やれば、「はあ?」と素っ頓狂な声がドンシクから上がる。
 ジュウォンがため息を一つついて、「……人間関係の難しさと、人と人の出会いの複雑さについて話していました」と小難しい訂正を行う。
 案の定ドンシクは、「はあ……」と高校時代に難解な化学の問題を授業で当てられた時と同じ声を漏らした。尖らせた唇に手で触れて考えている。やはりまったくかわいくはなかった。
「まあ、そうだね、あんたが夕立みたいなやつだねって話をしていた」
「……どちらかと言えば、台風ではないでしょうか?」 
「ええ? よくわからないけど、俺の悪口を二人で言ってたってこと?」
 ドンシクが首をかしげる。
「いやだから恋バナだよ、恋バナ。我々が二人であんたを待ちながら話す話題として、これ以上ぴったりのものもないでしょうよ。お互い、厄介なやつに出会ってしまったもんだねっていうさ。いや、確かに悪口と言えば悪口か……」
「厄介って……、あのクソ野郎と一緒にするのはやめてよ」と、ドンシクが食べ終わったジファとジュウォンのトレイを重ねた。テキパキとテーブルの上を片付けていく。
 さすがに犯罪者と一緒にするのは悪いかと反省しかけたジファだったが、続いて放たれた「でもさあ、恋バナって言い方はもう使わないんじゃないかなあ」というドンシクの一声で止めることにした。価値観ではなく、言葉づかいの古さを指摘されたところで痛くも痒くもないが、同年代に言われるのは何となく腹立たしい。それに、イ・ドンシクは自分がハン・ジュウォンの恋バナの相手だと言うことを否定しなかった。それがさらにジファを呆れさせた。ずるい男だ。
「……」
 ハン・ジュウォンは懸命にも沈黙を保っている。こんなにもわかりやすいのに、この二人はまだごくごく普通の、ただの友人同士(というには癒着しすぎているが)の振りを続けている。別に、恋バナの話題になるような関係にならなくてもよいが、色々試してみてもいいではないかと、この二人を見ていると思う時がある。どうやら二人ともやぶさかではなさそうなことだし。
 なんだか肩身が狭いなあ、と文句を言うイ・ドンシクの腕を叩き、オ・ジファは「約束まで時間がない。そのパンチャンで我慢して、あんたはあとでハン警衛と高級なディナーでも食べなよ」と焚きつけ、更なるお礼を二人に贈ってあげることにした。

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