十月三十一日
「トリックオアトリート?」
リビングのソファで本を読んでいるとかわいい恋人がシーツをかぶってやってきた。スヒョンは本を閉じて「お菓子は持っていません」と答える。今日がハロウィンだとは知っていた。ここ数年は韓国でもこのイベントを商機ととらえているのか夏の暑さが過ぎればすぐにかぼちゃのランタンを模した装飾品を見かけるようになっている。恋人――オ・デヨンは結構好きそうだなと思っていたけれどハロウィンに何かしようという話も上がらなかったので何もしないかと思っていたのだ。
「だと思った」とデヨンは笑顔を見せる。シーツを被ったといっても頭に引っ掛けるようにしているので顔は見える。どちらかというとベールみたいだなと思ったがスヒョンは口に出さなかった。
「そんなジェームスにはこれをあげよう」
差し出されたものを受け取る。あたたかいマグカップからは甘いものに混ざった不思議な香りがした。
「ココア?」
「に、スパイスいれたやつ。あったまるし美味しいぞ」
「いただきます」
なるほどスパイスか。飲んでみるとたしかにピリッとする、それにデヨンの言う通り身体が温まるし美味しい。
「美味しいです」
「だろ」
スヒョンが素直に伝えればデヨンは嬉しそうに目をしならせた。そのまま楽しそうにココアを飲むスヒョンを見る。デヨンは時折こうしてただスヒョンを見つめていることがあるのでさほど気になることはない。どちらかといえばスヒョンがデヨンを見ていることの方が多い。なぜって、好きな人を見つめていたいからだ。それにスヒョンの視線に気づいてくすぐったそうにする姿はかわいい。「なに?」と聞かれて「何でもないです」とスヒョンが答えるとなんだそれ、と笑み零れる姿はまるで花が咲いたみたいだ、なんて思う。絶対に己は恋愛をしても現を抜かすことはないと思っていたころが懐かしい。今やこの通り。恋人を視界に入れているだけで幸せな男である。
思いのほか冷えていたのかココアを飲んでいるとスヒョンのそばに立ったままのデヨンが口を開く。
「それにえっちな気分になる薬いれてみた」
「ごほっ」
「合法なやつ」
予想外の言葉にむせる。何度か咳をしてデヨンを見上げると楽しそうな表情のまま。
「それは、スパイスが入っているから血行がよくなるとかそういう意味ではなく?}
「さあ、どうだろ」
ふふふ、と怪しく笑うデヨン。本気なのか嘘なのかわからない。ただ少なくともデヨンがスヒョンを害することはないのでその点では安心している。少し困惑したままデヨンを見上げるスヒョンに、彼はシーツを広げて覆いかぶさってくる。そのまま顔が近づいて触れるだけのキスが与えられて、彼の舌がスヒョンの唇を舐めて行った。
「ん、おいしい」
デヨンは満足そうに彼自身の唇を舐める。それだけでスヒョンは彼から目が離せない。
「……俺はそういう気分なんだけど、どう?」
ココアに入っているスパイスのせいだけでなくスヒョンの体温が上がる。マグカップをテーブルに置いてデヨンの手を取って引き寄せる。彼は慣れたようにスヒョンの膝の上に収まった。もちろんそう誘われればスヒョンだってそういう気分になる。けれど、ただハロウィンというのを理由にするにはオ・デヨンの様子はいささか妙だった。
「なにかありました?」
デヨンの腰を支えてもう片方の手で彼の頬に触れる。スヒョンの手に少しだけほおを擦り寄せるデヨンは一度目を閉じて、ゆっくりと開けた。
「ジヨンが、……おばけでもいいから会いに来てくれないかなって思った」
お前がいるのに、とまるで懺悔のように言う。俯いてしまった彼の表情は、それでも下からはよく見えた。
「いいですね、僕も思います」
もう会えない人。好きな人。大切な人達にはどんなかたちであっても会いたいと思ってしまう。当たり前のことだ。スヒョンだって何度思ったか知れない。会えるならなんでもいいから会いたい。
「ジェームスがいるのに」
キル・スヒョンの優しい恋人はそれを後ろめたいように思っているのかもしれない。そんなこと全然ないのに。オ・デヨンの失ったものは大きい。スヒョンの経験とは重ならない別の欠落だ。喪うことの痛みを知っていてもだからといってわかるとは決して言えない。
失ったとき。その直後は麻痺したように心が痛みを感じない。スヒョンはそうだった。世間ばかりが騒ぎ立ててスヒョンの心を置いてけぼりにして、それでも世界は何も変わらないし時間は過ぎて、もう時間の進まない家族を置いてスヒョン一人だけが時間を進めていく。その過程でようやくもう大切な人達はいないのだと実感するときがくるのだ。どうしようもない喪失。
「逆ですよ、僕がいるからあなたはこうして彼女に会いたいと思えるのかもしれません」
「ジェームスがいるから」
喪失に目を向けるのは辛い。どうして自分のそばに当たり前にいた大切な人達がいないのかわかりたくない。でも今、デヨンがジヨンに会いたいと思えるならそれはきっと悪いことじゃない。あそれをこうしてスヒョンに教えてくれるのだって嬉しい。
「そうです」
オ・デヨンを愛するキル・スヒョンがいるから。きっと今、もし彼女に会えたら笑顔で会いたかったと言える。
「……ジェームスも思った?」
彼にしては珍しい質問だった。スヒョンの心の柔らかいところにあえて踏み込もうとするような問いかけ。
「ええ」
何度も思った。幽霊でもなんでももし会えたら、と何度夢想しただろう。会えないとわかっているから何度も考える。それが余計に失ったもののかたちを明確にするのに。
「会いたいですね」
「うん、会いたい」
スヒョンにもデヨンにもきっと失ったもののかたちの穴が空いていて、それは他の何かで埋められることはない。けれどそれは愛する人と一緒にいられない理由にはならない。少なくとも二人の間では、そのまま一緒にいていいことになっている。
会いたい、と言葉にするデヨンの顔から憂いが少しはれたのを見て取って、スヒョンは彼を引き寄せる。触れるだけのキスは優しくてあたたかい。
「でも俺にはジェームスがいるから、少しだけさみしくない」
「はい。僕にもあなたがいるから、さみしくないです」
スヒョンはもう喪失した感覚に慣れてしまった。デヨンの傷はまだ風化していない。だから少しだけでもさみしくなくなったのなら、それはきっと悪いことではない。少し寂しくなくなった彼のまま、デヨンはスヒョンの隣にいてくれる。
「……トリックオアトリート?」
この言葉を口にするのはいったいいつ以来だろう。
「俺菓子持ってないよ」
「じゃあいたずらします」
「どんな?」
ふふふ、とデヨンが聞くから、スヒョンは彼にキスをして。
「あなたのおかげでえっちな気分になったので、えっちないたずらを」
「今からお菓子用意しようかな」
「だめです、ないって言ったでしょ」
あなたが言ったしココアも用意したのに、とスヒョンがデヨンを見ると。
デヨンはかわいい、とスヒョンにキスをして微笑む。
甘くてスパイシーな香りが二人の間に満ちていた。
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