Fly Me to the Moon その後のふたり


 小豆の機嫌が良い。山鳥毛が帰宅するといつもより三割り増しでにこやかな笑顔で「おかえり」と言われた。心なしか声も弾んでいる。ただいまと返し、湿気った陽気に文句を言いながらジャケットをハンガーに引っ掛ける。会社を挙げて軽装を励行しているのでトップの山鳥毛も率先してラフな格好をしているが、今日ばかりはどうにもならなかった。苦楽を共にしたオフホワイトのスーツは腕時計と並んで山鳥毛の相棒と言っても良かった。  
 小豆は山鳥毛が着替え終わるまで待てなかったらしい。シャツのボタンを外しているとひょいと指先を差し出した。
「……愛らしいな」
小豆の爪は色とりどりのパステルカラーに彩られ、薬指にはパールも添えられている。一瞬なんのことだか分からなかったが、既製品にしてはパールの配置が少々不恰好なのを見て取ってようやく合点がいった。今日は実家に顔を出すと言っていたから、親戚の誰かにでもやってもらったのだろう。姪っこの名前を出せば大きく頷く。
「このまえおくったまかろんをいめーじしてくれたそうなのだ」
「まだ小学生じゃなかったか?」
「さんねんせいだって」
もう一度爪を覗き込む。ネイルチップは明らかに小豆の爪より長い。普段爪を伸ばすことがないので新鮮だった。
「だが子供にこの長さは危なくないか?」
「こどもようのとはべつなのだぞ。小豆おばさんにだけとくべつって」
小豆が嬉しそうに答える。長船の方の親戚からはふたりまとめて一文字のおばさん、山鳥毛はちょもおばさんと呼ばれていた。
「器用だな」
「きみはにがてだもんねえ」
手先が不器用で何が悪い。鼻を鳴らせばお夕飯できてるのだぞと、けらけら笑って台所に行ってしまった。
 小豆は子供好きだから親戚の子供たちのことは大いに可愛がっていた。山鳥毛も元々は特別子供好きということもなかったが、三十路を過ぎた頃からどうも未成年には我が子を見るような気持ちになっていた。色々なことをひっくるめて思い返せば、そのとき漸く“大人”になったのだろう。遅い成人だった。
 夕飯を終えソファでくつろいでいると、やはり隣の手元が気になった。黒いテレビのリモコンを持つ、指先を彩るパフェのような鮮やかなパステルカラー。ネイル単体では可愛らしいのだが、部屋着とはいえ全体的にシックな小豆のファッションからは浮いていた。ニュースもそっちのけで小豆の手元を見つめていたせいで怪訝な顔をされる。
「……似合ってはないな」
「わざわざいうことではないのだぞ」
「つまり君もそう思っているわけだ」
大人気ないと呆れられる。別に本気で小学生のプレゼントを品評したいわけではない。小豆の手を取って目の前に掲げる。近いものが見えにくくなってきているので少し顔から遠ざけた。テーブルに朝から置きっぱなしの眼鏡もあるのだが横着していた。
「物珍しいというのはあるな」
コーティングされたネイルが光を弾く。
 小豆が凝ったネイルをしているところを見るのは初めてだった。ケアも欠かさないしマニキュアだってするときもあるが、爪はいつも短く整えられ、ネイルチップすら今まで付けていたことはなかった。小豆は山鳥毛の呟きに「だよねえ」とほんのり笑った。
「光忠さんだったか」
「そう。たいせつなところにふれるから、ゆびさきのけあはぜったいにおこたったらいけないんだよって。きみとこいびとになったそのひにいわれたのだ」
「手が早いのがバレているな」
くすくす笑って湯呑みに口をつける。この話は片手で余るくらい聞いているが、それでも毎回笑えて仕方なかった。さすが光忠さん、小豆のことをよく理解している。
「わたしばかりちゅういされてしんがいだったのだぞ」
「君が助平なのが悪い」
「きみはせいじゅんなふりがうまかっただけだよ」
「振りなものか。君よりよほど純粋な女子高生だった」
「たしかにおぼこかったよね」
小豆の表情がやにさがる。こういうあけっぴろげなところは本当に変わらない。いや一応かつてはなけなしの恥じらいもあったのだが、時の流れに風化して今や跡形もなく消え去っていた。真面目に構っても面倒くさいので適当にいなして手を離す。ニュースに集中しようと前を向いたら耳元で囁かれた。
「かわいかったよ」
じっとりした深い声音に思わず振り向く。え、何だ今日はそういう気分なのか? 
 久々の甘ったるい雰囲気にたじろいでいると、手を引っ張られてそのまま小豆の胸にダイブすした。さらりと頭を撫でられる。
「いまもかわいいけどね」
「きみは私のことが大好きだからな」
ぐりぐりと胸に顔を押しつける。小豆は笑うだけで否定しなかった。指の背で山鳥毛の頬を撫でる。
「べっどいこう」
「その前に爪外せ」
「くちだけでもよくできるよ?」
言うじゃないか。鼻で笑ってやった。
「姪の贈り物を身につけてか?」
「……ごめん、やっぱりはずす」

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