ブラックコーヒー

ジージー、チリチリ、という電子音がどこかから聴こえてくる。
耳障りなその音に苛立ちながら目を覚ますと、視界の端に、カーテンの裾から洩れて来る光が見えた。外が、すっかり明るいことに気付き、ベッドから起き上がった。
窓の大きなリビングとは違い、譲介に宛がわれた個室は、ほとんど寝るだけの部屋だ。しかも、あさひ学園では予算の関係で到底買えないような分厚いカーテンが、しっかりとしたブラインドになっている。
成長期の身体にはぴったりのベッドから飛び起きてカーテンを開ける。何時だ、とベッドサイドに置いた時計を振り返ると、まだ朝も早い時間だったので胸を撫でおろす。
そういえば、寝る前に目覚ましをかけていたことを思い出した。
寝坊をした訳でもないらしい。
部屋の隅には、制服や学校教材、そして少ない私物を詰めてパンパンになった紙袋とリュックがある。片付けには、恐らく十分もかからないだろう。
予め荷解きして椅子の上に畳んであった服を着て、顔を洗おうと昨日教えてもらった洗面所に移動すると、そこには先客がいた。
学校に住所の変更を届け出た時に提出した書類の中に書いてあった真田徹郎、という名と、目の前の男とが、上手く頭の中で結び付かない。朝の光を通して鏡越しに見る男は、初めて逢った日と同じ黒いTシャツとズボンを穿いていたけれど、あの夜ほどの眼光の鋭さも、警鐘を鳴らすほどの殺気もなかった。頬に手を当てていたかと思うと、譲介の存在を認めるなりこちらに視線を移し、「起きたか。」と言った。
拍子抜けしたような心地で、おはようございます、と挨拶をすると、さらに鏡越しに顔をじろじろと観察され「おめぇ、その様子だとさして寝られなかったようだな。」と笑われた。目の周りに隈でも出来ているのだろうか、確かに、静けさの中で一人寝るという体験は、これまでの譲介の記憶にはほどんどなかったもので、多少の居心地の悪さを感じたのは確かだ。
男は、こちらから視線を外して、また鏡に向き直った。
手を頬に添えているのは、剃り跡を確かめているからだろうか。さっきの音は、恐らく、今男の手元に置かれている小さな機械、電動髭剃りが立てたものに違いない。
音に聞き覚えがないはずだった。譲介に父親の記憶はなく、あさひ学園でも、男の職員はほとんどいない。何人かはいたこともあったが、給料の低さに辞めて行くことがほとんどで、他に目的がありそうな人間だと気づけば、譲介が他の子どもと共謀して馬脚を現すように仕向けて追い出したからだ。
洗面台の辺りには髭剃り用か、ヘアスタイルのセットのためか、いくつかの洒落た容器やスプレーが並んでいて、譲介はこれまでの生活との違いに圧倒されそうになる。
目の前の男との共同生活は、恐らく、学園の流儀は通用しないだろう。
譲介は、彼が身なりを整えるまでここで待てばいいのだろうか、と思った時、「ボケっとしやがって。腹が減ってんのか?」と悪態とも独り言ともつかないことを言って、男が先に、その厚みのある身体をずらした。
ありがとうございます、と礼を言って顔を洗う。
見られている気配がして、居心地が悪い。
「あの、何か……?」
「顔を洗って飯を食え。冷蔵庫の中に食い物がある。」
「あなたが作ったんですか…?」
「馬鹿言え。買って来たやつだ。通いの業者はいるが、任せるのは週一の掃除だけだ。食いたいもんがあったら、その辺に金を置いておくから使え。服は、今の身体に合ったものを買って来い。暫く使ってマットレスに慣れねえってのなら、布団を買ってきて床に敷いてもいい。」
「そんな、勿体ないこと出来ません。」
「オレを相手にあれだけの啖呵切っといて、今更妙な遠慮はすんじゃねぇ。ガキの本分は食って寝ることだ。何が勿体ないってんだ。」
男は顔を洗ったばかりの譲介に、ほらよ、と戸棚から出したタオルを差し出した。
渡されたタオルはふかふかとした様子で、きっと柔軟剤か何かを使っているのだろうと思った。
最新式らしい全自動の洗濯機を差して、汚れ物を溜め込むなよ、と釘を刺される。あさひ学園の、二十年ものの二槽式の洗濯機を思い出した譲介は、今更ながらに、自分がまるで場違いな場所に足を踏み入れたような気分になってきた。
男が先に洗面所を出たので、タオルを洗濯機の蓋の上に置いてその後ろを追いかけていくと、リビングと一体になったキッチンで、男はコーヒーメーカーで沸かしたばかりの黒い液体を広口のカップに注いでいる。
「一階のオートロックの番号は覚えたな?」
「はい。」
会話の間も、コーヒーを啜りながら、スマートフォンを弄っている。手前にあるソファの上には、見覚えのある長いコートと自分のものではない古びたリュックがあり、中身が詰まっているのが伺えた。
「玄関に鍵を置いておく、無くすなよ。勉強はなるべく、自分の部屋じゃなく、ここでしろ。今の時期なら外から光が入るし、広い場所でやる方がテキストが広げられるし効率がいい。あの成績じゃ、帝都医大は無理だ。ああ、あと必要だと思っても、パソコンは買うんじゃねえぞ。今のおめぇの知識じゃ、マス掻きの道具にしかならねぇ。」
「っ、しませんよ………!」
その発言に目を剥いた譲介に、男は、朝飯の前に処理するのは面倒だから、適当に抜いとけ、とニヤニヤと笑っている。
医者のくせにデリカシーがなさすぎる、と思ったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、共同生活でなくなったということは、こういうことを誰にも秘密にしておけるということか、という事実に気付かされたことで、狐につままれたような心地だった。
「あ、朝食は、」
「朝飯? 食ってる暇がねぇからこうしてお前に話してんだ。今から仕事だ。木曜には帰って来る。その前にどの部屋に何があるか確認でもしておけ。」と空になったカップを流しに置いている。
一緒に食べられるものかと思っていた。
一緒に食事を、と言いかけた譲介は、あさひ学園で自分が年下の子ども達にどう対していたかを思い出し、開いた口を閉じた。
何を期待していたのだろう。
そんな風に俯いていると、男は食器棚らしい場所から引き出しをひとつ引いて「粉とフィルターはここにあるから、明日から必要だと思えば好きなだけ飲んでいい。」と言った。
「あとは………まあいい。時間だ。」
戻って来たら話す、と男は言って、ソファに掛けていたコートを羽織り、リュックを背負う。
「じゃあな、譲介。」
イイ子にしてろよぉ、などと笑っている。
僕がここで何をしてもあんたには分からないんだ、と反発する気持ちと、本当に戻って来るだろうか、という心細さがないまぜになった気持ちが胸に湧いてくる。
譲介が、去り際の男の背中に向けて、いつもの癖で「いってらっしゃい。」と口にすると、背中を向けたまま、オレはおめぇの親じゃねえからそういうのは止せ、と言って男は出て行った。

冷蔵庫の扉を開けると、コンビニで買ったらしいカレーの器があった。よりインドカレーらしい様子のルーと、黄色いサフランライスが別々になっている。
学園の職員の書いたカルテでも見たのだろうか。譲介が実際に好きなのは、こうした洒落た店で出て来るようなものではなく、市販のカレールーの外側にプリントされているようなごく普通のカレーで、そのことまでは、記載がなかったに違いない。
こんな部屋を与えられて、どうしてこんなにも泣きたいような気分になる必要があるのか。
自分で自分に反発するような気持ちになりながら、譲介は取り出したカレーを暖めて食べた。
ぱらぱらとしたサフランライスの上に乗せたカレーをゆっくりと噛み締めるように食べると、香辛料の利いたルーが空腹の胃を満たす。
流しの横には、医者が使ったのとは別のカップが置いてあって、譲介はそのカップをコーヒーで満たす。砂糖もミルクもないことに気付いて、ままよ、とブラックのコーヒーに口を付ける。
あまり美味しいとは感じられなかったが、それを口にしたら、またあの医者に笑われそうな気がした。
大きな窓は開放的で、切り取られてはいるが、晴れた空が見える。
これが、最上階からの景色だ。与えられた部屋は広く、まるで小さな城で、医者になるまでの檻、などとはとても思えない快適さだ。
けれど。今はこうした快適さを保つ部屋も、譲介を知る『仲間』達に見つかったが最後、十分で荒れ果てた場所に変わってしまうだろう。酒や薬の持ち込み、女を連れ込む場所にもされかねない。
あの男が帰ってくる前に、どうにかしなければならない。
「腕は折られないようにしないと。」と小さく呟きながら、譲介は苦いコーヒーを飲み干した。

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