(呪いも残せない)私は。
五条家の使者を六畳一間の賃貸アパートの玄関先で迎えたとき、女は博士課程の修了を目前に控えていた。
どうやって住所まで突き止めたのか知らないが、かつて一年間呪術高専に在籍していたので、おそらくそこからたどってきたのだろう。女は呪霊は見えるが術式を持たず、呪術師の道に早々に見切りをつけ、好きな数学に没頭できる人生を求めたのだった。
「五条家は子供のために数学ができる者を探しているのです」と使者は言った。
高専を一年でリタイアした女でも、基礎教養たる五条の名は知っていた。呪術界について多少は知識があり、子供に数学を教えられる人間が必要なのだろうと女は理解した。提示された条件も申し分なかった。五条の屋敷に部屋が与えられ、そこで好きなだけ数学の研究を続ければいいと言われた。女にとってはまたとない提案だった。
屋敷で出迎えた老婆は、女を頭からつま先までジロジロと眺めた。ぎょろりと突き出した目が女の身体を這うように上下に動き、最後に顔に据えられると、低い声で「良し」と言った。
なにが良しだ、ババアめ。
しかし女は人から向けられる不躾な視線に慣れていたので、鼻を鳴らしてそれをやり過ごした。
五条家には年の近い子供たちが何人もいるようだった。広大で入り組んだ敷地内に古めかしい構えの屋敷が点在しており、一族の者が集まって暮らしている。ならば血縁の子らも多かろうと女は思った。
自分が受け持つのはどの子かとたずねると、老婆は「これから来る」と答えた。どこかから養子でも連れてくる予定なのだろうか。まだいない子供のために呼ばれたのだと知って女は面食らった。しかし金も部屋も食事も用意されては文句の出ようもなかった。金持ちの考えることはよく分からないものだ。
女はひとまず言われるまま、その子供が屋敷にやって来るのを待つことにした。どの道それまでは好きなだけ数学に没頭して過ごすことができるのだ。必要な資料も好きなだけ取り寄せていいと言われ、女はその通りにした。
子供には数学の才が要るのだと老婆は言った。教えることはできるが、才能はどうにもならないだろうと女は思った。
五条家で過ごすうち、女は一人の男と親しくなった。
男は長身で肌は青白く、美しく整った顔立ちをしていた。いつも所在なげに屋敷の中をふらふらとさまよっていて、足音も声もとても静かだった。男には生きている人間としての気配がまるで希薄だった。古い絵画に描かれた幽霊のようだと女は思った。
男は顔を合わせるたび、女にやさしく微笑みかけた。どこか空虚な笑顔だった。
「私はハズレなんです」と男は言った。
「早くあの子が来るといい」
この家の誰もが、その子供がやって来るのを待ち望んでいるようだった。
男がこの家の当主と呼ばれる人間であったことを、女は後になって知った。
部屋を与えられた迷路のような母屋の中に、自分のように外から連れてこられた女が何人もいることを知った。
自分はその女たちと同じ、いくつもの胎の内のひとつなのだと悟ったときには、女の体内にはすでにもうひとつの心音が響いていた。
女は出産が恐ろしかった。
姪を産んだばかりの妹を訪ねた病院で、出産の苦悶が練り上げた呪いを目にしたことがあった。呪力を操れない妹の苦痛もその養分となったのかと思うと、これまでに見たどの呪霊よりもおぞましく感じた。
女は恐怖に慄いた。
しかし屋敷に幾重にも張り巡らされた深い深い結界の奥で、女は気づけば身動きひとつ取れなくなっていた。
その年の冬、女は子供を産んだ。
屋敷の最奥、最も強い結界の内側、日も差さないその暗い部屋の中で長い長い痛みと苦しみの果てに女が産み落とした赤子を老人たちが取り囲んだ。
この家の一番年老いた男が皺だらけの指を伸ばし、赤子のまぶたを押し上げた。
来た。
老婆がそう言った。
赤子のまぶたの奥にあるものを女も見た。それはおよそ人間の目ではなかった。真っ青な空がぽっかりと穴を開けてこちらを見返していた。
女は理解した。
彼らが待っていたものが訪れたことを。自分は、おそらく屋敷の他の女たちも皆、これで用済みなのだということを。
まぶたを無理やりこじ開けられた赤子は身をよじり、火のついたように泣き出した。赤子は全身を真っ赤にして泣きじゃくったが、皆ひれ伏すばかりで誰もその子に触れてやろうともしなかった。
女はとうとう笑い出した。
女を見やる者は誰もいなかった。気が触れたと思われたのかもしれなかった。
ざまあみろ。
女は大声で笑った。
ざまあみろ私はこの世で最も不幸な子供を産んだ女。
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