傲慢は身を滅ぼす

 自分の選択が間違っていただなんて、渦中にいる間は気付くはずもない。いつだって、後悔するのは、蟻地獄の真ん中に立たされてからだ。



 その日、HiMERUは単独でドラマの撮影に挑んでいた。連続ドラマへのレギュラー出演が初めてだったHiMERUは、それでもヒロインへの恋心をひっそりと募らせて人知れず失恋する難しい役どころを苦労して演じ切り、脚本家から太鼓判をもらった。クランクアップしたその日に関係者総出で催された打ち上げはたいへんな盛り上がりを見せ、三次会へと縺れ込んだ。宴もたけなわといった頃、ヒロインを演じた五つ歳上の女優がものの見事に潰れた。
「HiMERUくん、お家の方向同じだって聞いたから……申し訳ないけど、お願いできる?」
「……わかりました」
 断じてスキャンダルなどを起こすわけにはいかないが、世話を焼いてくれたディレクターたってのお願いを無碍にもできないし、何より三ヶ月の長きに渡る撮影を無事完遂した安堵感に包まれ、多少気が緩んでもいた。だからHiMERUはディレクターの言葉に頷いた。
 思えばこの判断が間違っていた。女優は潰れてなどいなかったし、ディレクターは彼女がHiMERUに気があるのを知っていた。そんなことにも気付けないなんて、随分と平和ボケしてしまったものだ――ほんの一年前まで戦争の最前線に立っていたというのに。
 HiMERUは連れ込まれたラブホテルの無駄に高級そうな革張りのソファに腰掛け、己の迂闊さを自省した。晩酌に付き合うふりをしたHiMERUが口八丁で薦める酒をぐいぐい煽っていった女優は、今度こそ潰れて寝息を立てている。すぐにでも帰りたかったが、擦り寄られたせいでまとわりついた女物の香水の匂いが気持ち悪い。HiMERUはサッとシャワーを浴びるとそうっと部屋を抜け出し、赤やピンクのネオン煌めく歓楽街を足早に抜けて大通りへ出た。魔境からの大脱出。そうしてようやくタクシーを捕まえて自宅へ向かうことに成功した。

「おかえりダーリン、俺っちに連絡も無しに朝帰りたァいいご身分じゃねーの」
 時刻は午前五時。疲れ果てて自宅のドアを開けたHiMERUを迎えたのは、燐音のとびっきりのアイドルスマイルだった。あの女優が相手ならころりと落ちてくれただろうに。
「……HiMERUにも、色々あるのです」
 ため息混じりに答えて燐音の横をすり抜ける。とっくに寝ているだろうと思っていた――今はとてもじゃないが相手をする気にはなれない。このままベッドに直行して心置きなく眠りたい。そんなHiMERUの願望は燐音のドスの効いた声によって打ち砕かれた。
「へえ、知らねえシャンプーの匂いさせといて『色々』……ねェ? どうりで電話に出ねェわけだ」
「りん……、ッ!」
 日頃から余裕ぶった態度を崩さない燐音の纏う異様な空気に、はっとして振り向いたが遅かった。腕を引かれ、バランスを崩したところを肩を強く押されて壁に押し付けられる。燐音は腕力が強いが、その馬鹿力が身内に振るわれることは、少なくともHiMERUが知る限りでは決してなかった。掴まれた肩の痛みで頭が冴えたHiMERUはようやく状況を把握することができた。
 どうやら自分は燐音の逆鱗に触れたらしい。
「女か?」
「……」
「チッ……だんまりかよ」
「……言えません……」
「へえ? つまりヤることヤッたってことかよ」
「ちが……、燐音! 話を聞きなさい!」
 燐音は完全に『キレて』いた。誤解を解きたいのに聞く耳なんて持っちゃくれない。HiMERUが先の女優のことに言及しなかったのは燐音の怒りの矛先をそちらに向けないためだし、電話に出なかったのは燐音との関係を外に漏らさないためだ。常ならば話せばわからない燐音ではないのに、話す余地を与えてさえくれない。短い付き合いながらもこんなことは初めてで、HiMERUは焦っていた。何しろここまでのHiMERUの言動全てが裏目に出て燐音を怒らせている。
 玄関から寝室へと引き摺るようにして連れて行かれたHiMERUの身体が、どさりとベッドに投げ出される。本能的に逃げを打とうとしたがすぐに覆い被さってきた燐音のせいでそれも叶わない。脚の間に膝を差し込まれ顔を両手で囲われれば、もうどうしようもなかった。逃げることを諦めて、HiMERUはここで初めて燐音の顔を真っ直ぐ見た。
「メルメル。――てめェは、誰のモンだ?」
「り……っ、んぅ」
 乱暴に顎を掴まれて噛み付くような口付けを仕掛けられたから、一瞬しか見ることができなかった。勘違いかもしれない。けれど、欲にギラつく碧の奥に、少しの寂しさが揺らめいているような、そんな気がしてならなかった。

 それから。燐音はHiMERUの纏っていた衣服を雑に剥ぎ取ると手首を束ねて解けないよう縄で後ろ手に縛り(何故こんなものを持っていたのだろう)、更には縄の端をベッドの脚に括りつけて身動きが取れないようにしてしまった。その手口は鮮やかと言うほかなく、殆ど呆気に取られている間にHiMERUは身体の自由を奪われた。
次に燐音が何やら見たことのない器具を取り出し、HiMERUの性器をすっぽりと覆うように取り付け、小さな鍵で施錠してしまった。素肌に触れた冷たい感触と金属が擦れるかちゃりという音に、背中を嫌な汗が伝う。恐怖を覚え燐音を見上げると、彼はキャハ、と声を弾ませた。曰く「貞操具ってヤツ♡ お仕置だからなァ、このくらいしてやらねーと」だそうだ。HiMERUが戸惑いを隠せずにいると、今度は燐音の指先が不躾に後孔に触れた。たっぷりのローションを含ませた指で中を解すが早いか、不意に指が抜かれ代わりに倍以上の質量を持った物体に侵入され息を詰めた。それが何かを視認する前に、かちりとスイッチが押される。HiMERUの胎内で震え出したそれは男性器を模したピンク色のバイブだった。
 そこまでを流れるような手際の良さで済ませた燐音は、混乱して目を白黒させるHiMERUをベッドに転がし、あろうことか「じゃ、パチ打ってくっから」とだけ言い捨てて部屋を出て行ったのだった。
 それからどれだけの時間が経過したのか、HiMERUにはもうわからなくなっていた。気を失ってしまえたらどんなに良かったか。けれども身体の奥で振動を続ける無機物のせいで、沈みかけた意識を無理矢理浮上させられる。普段燐音の規格外のものを受け入れさせられているためか、振動が弱いためなのかはわからないが、バイブは気紛れに前立腺を掠めるだけで決定的な刺激になってはくれない。気持ちが良すぎるのも自分を保っていられなくて恐ろしいが、延々と焦らされることがこんなにも耐え難いとはHiMERUには思いもよらなかった。
 貞操具によって雁字搦めにされた性器は兆すことすら許されず、自由を封じられた手では腹の中にわだかまる熱から逃れる術もない。もういやだ。つらい。苦しい。早く解放されたい。早く。早く。はやく。「舌でも噛んで楽になってやろう、とか考えるんじゃねェぞ」燐音はそう言っていた。できるわけがない。『HiMERU』の身体を傷付けることなどあってはならないのだ。『俺』は、この地獄の責め苦を耐え抜かなければ。……いつまで?
 HiMERUが絶望に沈みかけた時、ガチャリ、玄関の扉が開く音がした。ややあって寝室へ顔を覗かせたのはいつもの調子の燐音だ。
「ただいまァ〜。いや〜ワリィワリィ、もうちょい早く帰ってくるつもりだったンだけどよ、うっかり当たっちまって帰るに帰れなくてなァ。まあ欲かいて続けてたら負けちまったンだけど。ギャハハ!」
「は、あ……ァ、り、んね……っ」
「よォメルメル。楽しんでる?」
「も、むり、はやく、外して……ッ」
「ンなコエー目で睨むなって。せっかくイイ顔してンのによ」
 燐音は口端を釣り上げて下卑た笑みを浮かべた。ようやくこの苦しみから逃れられるかと思ったのに、この男はそう簡単にHiMERUの思い通りに動いてはくれないらしい。生理的に溢れてくる涙に濡れた目で睨み上げたところで何処吹く風だ。ほんの数秒前までは燐音が生き地獄からの解脱へ導く菩薩か何かのように見えていたし、身も世もなく彼に縋ってしまいたかった。しかしこいつは仏ではなく、破滅をもたらす悪魔なのだ。HiMERUの内心はすぐに真っ黒な憎しみへと塗り替えられていった。『HiMERU』に何をしているか、解っているのか。
「ククッ、涙と涎と汗でぐちゃぐちゃだなァ……天下のアイドル屋さんが、いいザマだねェ」
「こ、ろして、やる……!」
「バァカ、そんな顔されてもコーフンするだけっしょ」
 ベッドに乗り上げてきた燐音はHiMERUの肩を掴みうつ伏せに転がした。尻だけを高く掲げる姿勢に羞恥を煽られるが、それよりも長く甘い毒に晒され続けた身体はいとも容易く快感を拾い上げ、触れられただけで小さく声が漏れてしまう。ハアハアと浅い呼吸を繰り返し、閉じられない唇の端からまた涎が糸を引いて落ちる。全身が性感帯になってしまったようで、怖い。燐音がHiMERUに何をしようとしているのかもわからないままだ。恐怖に瞳を揺らすHiMERUを見てか、燐音はふと表情を緩めると手を伸ばし、HiMERUの柔い髪をぐしゃぐしゃと乱した。
「そんなに怖がるなよ。俺っちは別に、おまえを痛い目に遭わせたいわけじゃねェ……。ただ、」
「あゔっ……⁉」
 表面を撫でていたはずの掌が突然HiMERUの髪を鷲掴む。ぐい、と乱暴に引き寄せられる感覚にまで感じてしまって嫌になる。顎を掴んだ手で無理矢理後ろを向かされ、燐音の苛烈な瞳と対峙して、――こちらを飲み込まんとする深淵のような碧色にゾッとした。
「ただ、この先二度と女ァ抱けねえ身体にしてやりてェだけだ。俺っちの手でなァ」
「あぐ、ひッ……!」
 憎しみ、怒り、恐怖。そんなものは瞬く間に霧散した。後孔を埋めていた贋物が抜き取られ、無遠慮に捩じ込まれたのはこれまでとは比べ物にならない質量と熱で。待ち望んだ衝撃にHiMERUは喉を反らして涙を散らした。
「っ、あ〜〜〜スゲ〜締まる……メルメル、俺っちの形、わかるか……? ん、つうか、イッてる?」
「ア、ぁ、ッ、うぁ……♡」
「口もきけねェくらいヨかった? ずっとイイコでチンポ待ってたンだもんなァ?  そりゃドライでイッちまうくらい嬉しいよなァ……」
 燐音の言う通り、貞操具に包まれたままのHiMERUの性器は、僅かに白濁を漏らすのみで射精を許されないままだ。後ろの刺激だけで達してしまったHiMERUの思考は真っ白に塗り潰され、ただただ腰をくねらせて与えられる快感を追うことしか出来なくなっていた。燐音が耳元で落とす囁きにすらビクビクと反応してしまう。
「初めてのメスイキはどうだったよ、メルメル……?」
「ン、ぅあ、あ、アア! おく、届いて……っ、きもち♡ ナカ、きもひいぃ……♡」
「ははっ、とろっとろ……。もう、俺っちのチンポじゃねーと、イケねーンじゃ、ねェの!」
「ァは、あん、りんねっ、! いや、いやですまた、またきちゃ、っ」
「オラ、何度でもイけよ……っ!」
「いあ、アア、あッ、ンン! 〜〜〜ッ♡♡」
 振り落とされそうなまでの暴力的な快楽だった。まるで常にジェットコースターの頂点にいるかのような感覚。猛烈に突き上げられ、高められ、天辺から降りる隙が片時も与えられない。死に物狂いでしがみついていなければ、壊れてしまう。
 後背位のままで後ろ手に縛られた腕を強く引き寄せられ、上半身を浮かせた状態で深い抽挿を繰り返されると、腹の底を抉られるようで苦しいのに、呼吸さえも儘ならないのに、燐音によって悦楽を覚え込まされた孔は悦び収縮し、胎内で暴れる雄を締め付けてしまう。
「り、んねぇ、しんじゃ、っ、死んじゃうぅ……おねが、ンッ、たすけて、ぇ」
 こんなものはセックスではない。獣の交尾だ。堕ちてしまう恐怖にいやいやと首を振りながら懇願すると、燐音がぴたりと動きを止めた。唐突に支えを失ったHiMERUはがくんと前に倒れ込む。
「あァ……ちょっと待ってろ」
 言うなり中を圧迫していたものがずるりと引き抜かれる。燐音はジャージの尻ポケットをごそごそと漁り、小さな鍵を取り出した。なんとか息を整えながら燐音の手元を見ていると、鍵が貞操具を固定している南京錠に差し込まれ、がちゃりと音を立てて器具が外された。ヒクヒクと震えるそれは先走りやら何やらでドロドロで、HiMERUは思わずそこから視線を外した、が。
「おやァ? 目ェ逸らしちゃっていーの?」
「っ⁉ あ、やめ、あああ、っ!」
 燐音の熱い掌がHiMERUの性器を包み、上下に擦り始めた。急激に血液が集まっていく感覚に襲われる。長らく触れられずにいたそこはようやく与えられた刺激に悦び、あっという間に高められてしまう。先端を親指でぐり、と抉られると、もう駄目だった。
「ッはは! いいイキっぷり♡ ホラよ、またぶち込んでやるからッ、しっかり咥えろ、よッ!」
「ひあああッ⁉ も、むり、むりぃ……!」
「なァメルメル、メスイキは癖になっちまうらしいぜ……? ほぉら、気持ちいだろ? なァ、もっと強請ってみろよ、メルメル!」
 HiMERUの片脚を肩に担ぎ上げ、燐音は容赦なく腰を打ち付けた。いつの間にか拘束を解かれていた腕を必死で伸ばし、HiMERUは燐音に縋り付く。背中に爪を立ててしまうが気にしている余裕などない。その間も燐音が中心を扱く手を緩めることはなく、HiMERUは断続的に吐精を繰り返していた。
「いああァ、やら、もうやだっ、ずっと、イッ、てる、のにぃ……! ァ、あ、燐音とめて、りんね、なんか出ちゃ、アア、あああ!」
 何かがせり上がる感覚におののき、HiMERUは背を大きく反らし目を見開いた。瞬間、プシャという音と共に透明な液体が先端から撒き散らされる。さらさらとしたそれは燐音の手をしとどに濡らし、脳神経が焼き切れそうな程の強すぎる快楽に、HiMERUは声もなく全身を震わせた。
「ン〜……潮吹き、できたなァ? い〜こ♡」
 燐音はその目元を蕩けさせ、恍惚とした表情で濡れた掌をべろりとひと舐めして見せた。そうして愛おしいものを抱き寄せるかのようにHiMERUの上に覆い被さり、ゆるゆると抽挿を再開したかと思うと、空いた手で後頭部を抑え込み深く口付ける。酸素ごと奪い尽くすかのような荒っぽいキスに懸命に応えているうち、HiMERUの殆ど機能していない脳味噌は燐音で一杯になっていった。



 「てめェは誰のモンだ?」と燐音は言った。「二度と女を抱けない身体にしてやる」とも。
 ――何を言っている? 自分達の関係は、恋人だとか番だとか、そんな甘ったるいものではなかったはずだ。一度でも好きだとか愛してるだとか言い合ったことがあっただろうか。答えは否だ。それなのに、一端に執着などしやがって。それは単なる傲慢なのではなかろうか。
 俺にとっての何でもないくせに。
 HiMERUは胸中で独りごちた。ああ、でも。
 そっちこそ、俺しか抱けない身体になってしまえばいいのに。



 ひたすらに揺さぶられ続けて甘く痺れる脳は、HiMERU自身が抱く矛盾は見て見ぬふりをさせた。もうとっくに引き返せないところまで来てしまった。足を取られたら最後、どこまでも共に堕ちていくほかない場所まで。
 HiMERUは瞼を閉ざし、終わりの見えない悦楽の渦へと身を投じた。

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