Supersonic(バンドパロ)

 『本気』と『楽しい』を、どちらも欲張りたいだけ。ただそれだけの望みを叶えるのが、こんなにも難しい。



「最近のHiMERUくん、楽しそうっすよね」
 スタジオ練の合間にニキがそんなことを零した。フロアタムの位置を調整していたこはくがうんうんと同調する。
「おん。HiMERUはん、ギター弾きながら〝幸せや〜〟っち顔しとること多なった」
「あ、やっぱりこはくちゃんもそう思う〜?」
「──〝楽しそう〟?」
 不可解だと言わんばかりの低い声を出したのはHiMERU当人だ。チューニングをしていたはずの彼はすっかり手を止めて、虚をつかれたようにぽかんとしている。
「せや、ええことやろ」
「うん、いいことっす」
「……」
 黙ったままおもむろに振り上げた手、アップピッキング。チューニングし損なったギターががたついた不協和音を響かせた。リズム隊のふたりはすかさず視線を交わす。
「どないしたん」
「なんで不機嫌?」
「……別に……、」
「言わんのかい。けったくそ悪」
「ふ〜ん。あ〜じゃあ、何でもないって言うならセッションでもしてみます?」
 飽きもせず繰り返し音を重ねてきた同士だ。バンドメンバーのコンディションは音が、適当な世間話などよりもよっぽど親切に教えてくれる。
 ニキの提案に、しかしHiMERUは乗らなかった。
「……。すみません、嘘を言いました。不機嫌です、はい」
「わかっとるよ」
「いいんすよ〜それならそれで」
「で、どないしたん?」
 改めて問う。赤いPRSのペグを弄りながら俯き、唇を真一文字に結ぶ彼。そこから言葉が絞り出されるのを根気よく待つ。
「──俺は……」
 ペグを摘む指先に力が篭った、瞬間、ばつんと切れる弦。「あ」と声を発したのは誰だったか。丁度開いたドアに皆の意識が集中した、その間の出来事だった。
「たっだいまァ〜。あ、何? お通夜?」
「燐音くん……」
「どしたどした、ツェッペリンでも演る?」
「やらんし……あっHiMERUはん⁉」
 燐音を押し退けてスタジオから飛び出して行く彼を、誰も止められなかった。残された三人は呆然とその背を見送る。
「え〜……あいつの分も買ってきたンだけどなァ、水……」
 困惑気味に呟き、燐音は頭を掻いた。





 昔馴染みの燐音がロックに傾倒しているらしいことは知っていた。会えば「すっげェかっこいいバンド見つけた」とCDを押し付けられ、ラインの通知は毎日のようにYouTubeのURLで埋められ。極めつけは一生懸命貯めていたバイト代を勝手に引き出され、ベースを買われた(どんな手口を使ったかは聞きたくもなかった)。
 さすがに許せなかったから産まれて初めて人を怒鳴りつけた。そうしたらあの男は事も無げに言ったのだ、「おめェが弾くンだよ」と。
「僕が? バンド⁉ 無理っす、ていうか嫌っす! 絶対嫌!」
「うるせェぞニキ、てめェはセンスあるっしょ絶対、とりあえずやってみろ」
 何を根拠にそんなことを宣うのか。理解なんか出来るはずもない。反論したところで暴力でねじ伏せられることがわかりきっていたので、ニキは聞かん坊な悪友をさっさと諦めさせるべく、とりあえず適当に弾いてやろうと思った。センスが無いとわかれば大人しく引っ込むだろうし。
 そんな魂胆のもと初めて人前で弾いたのは、燐音からことある毎に聞かされていたミッシェルの『G.W.D』だったか。覚えたてのTAB譜を睨み付けながら、運指なんてもう滅茶苦茶で。辛うじて習得したイントロを何とか弾き終えて、どうだ諦めたかと鼻を鳴らしながら悪友の顔を見、それから思い知った。諦めるのは自分の方だ、と。
 ──あんたなんつー目で僕を見てるんすか、ねえ、燐音くん。
 間違いなく過去一嬉しそうな顔で力いっぱいニキを抱き締め、「やっぱりおめェは天才だ!」とはしゃぐ昔馴染みを、放っておけなかったのだ。
「天才ねえ。僕が。料理なら自信あるっすけど、ベースはどうっすかねえ〜」
「安心しろって、ニキは天才っしょ。始めのうちは8ビートが弾けりゃ上出来だし、何よりおめェのグルーヴは気持ちいい。理屈じゃねェんだ」
「いやいやもっとすごい人はごまんといるでしょ、てかグルーブ? って何?」
「あァン? 細けェこたァいいンだよ! 楽しめ!」
 バンドメンバーを探すと言う燐音に引き摺られ訪れたジャズバー。店奥のステージでジャムセッションを繰り広げるミュージシャン達の中に、自分と同い年か少し上くらいの青年を見つけたニキは、感嘆して目を細めた。
「ほら、僕らと同じくらいなのに大人に張り合ってる。天才っていうのはああいう……燐音くん?」
「……ギタリスト」
「へ?」
「ギタリスト、見つけた! あいつがいい、つーかあいつじゃねェと嫌だ!」
「はあ⁉」
 本気なんだよ、ひと目惚れなんだ、と捲し立てる相方にはもう彼しか見えていないようで。うーんこれは面倒なことになったぞと、早くも放っておかなかったことを後悔し始めていた。
「あんた、なァ、ギターの……」
「……? ああ、『HiMERU』のファンの方ですか?」
 ひょろっと細長くて色白の彼は燐音の声に振り向くと、慣れた様子で微笑んだ。近くで見るほど綺麗な男だった。
「お〜、今ファンになったっつーか……? てかファンサ慣れしてンねェ。プロの人?」
「──いいえ。いずれそうなるつもりではおりますが」
 派手で大柄な燐音に目の前に立たれても物怖じしない、見かけによらず肝の据わった人だ。もっとも、それは先程のプレイを見ていればわかることなのだが。
 そして物怖じしないのは燐音も同じ。
「バンドでギター弾いてほしいンだ、あんたに。俺っちがボーカル、こいつがベース。あァ、俺っちは天城燐音っつーんだけど……」
「……バンドを?」
 ぴり。柔和だった彼の目つきが変わった。途端に緊張感が漂い、ニキは普通に怯んだ。〝こいつがベース〟と紹介されてしまっている以上、もう無関係を装えない。こんなの巻き込み事故だ、勘弁してくれ。
「生半可な覚悟で言っていないでしょうね? 俺は本気で上を目指しているのです、俺を誘うからには──」
「おう、なら都合が良い。俺も本気だ」
 真っ直ぐ突き刺すような声に、思わずぎょっとして隣を見た。
 ニキがこれまで見てきた燐音は粗暴でジャイアンみたいな男だ。例えるならファズをかけまくった割れた音。なのに今はどうだ。まるでクリーンブースターをかけたみたいな、空の高いところまでどこまでも突き抜けるような、そんなピュアな音なのだ。これは本当に僕の知ってる燐音くん?
 目を見開いた相手の手に何かを握らせ「じゃ、連絡待ってる」とだけ告げた相方は、そのまま踵を返してバーの出口へ向かった。会釈をしてから慌ててその背中を追い掛ける。
「何渡したんすか?」
「ニキちゃんにはナイショ♡」
 妙に機嫌のいい男に並びつつ、やっぱりただのナンパだったのかもしれないと思い直した。
 興奮した様子の燐音から「ニキ、ニキ! 連絡来た!」と報告を受けたのはその翌日。
 去り際に手渡していたのは、自作のデモ音源を入れたiPodだったらしい。『HiMERU』は律儀にもそれを聞き、一緒に押し付けておいた番号に電話をくれたのだと言う。
「気に入ったって?」
「んや、まだまだだって」
「なはは、言いそう〜」
「一緒にやってくれるって」
「はえ?」
「バンド。これで三人だ、やったなニキ!」
「え、ええ〜?」
 失礼ながら振られるもんだとばかり思っていたから拍子抜けした。そしてニキにとってはいよいよ面倒なことになった。
「えーと……ちなみに、ひめるさん? あの人いくつなんすか? 年上?」
「おめェの一個下だってよ」
「嘘でしょ⁉」
 本当に、嘘みたいなことばかり起こる。言葉が出ない。ため息ならいくらでも出るけれど。
 ……気は進まないけど、もし奇跡が起きて近いうちにドラムも見つかったら、その時は僕も腹ぁ括るっすよ。
 ロックバンドにドラムは不可欠。しかも四人目のメンバーは、あのHiMERUを納得させる人材でなければならない。そう簡単に見つかるわけがないと、その時はまだ、悠長に構えていたのだ。
「ドラム探しとるっちうのは、ぬしはん? わしは桜河こはくっちもんじゃ。よろしゅうおたのもうします」
「んん? あんたがオーカワ?」
「おん。オーナーの紹介で来ましたぁ」
 別の日。スタジオにひょっこり姿を現したピンク髪の彼は言葉少なに挨拶を済ませると、ドラムセットの前にどかっと座った。
 オーナーというのはここら一帯で一番でかいスタジオの持ち主、朱桜司のことだ。バンドメンバーを募集している旨を伝えたところ「知人に良いdrummerがいますよ」とどこかへ電話を掛けていた、のだが。
「ほな、始めてええよ」
 〝良いドラマー〟と言うからにはそこそこに上背のある、(筋骨隆々とまではいかないまでも)逞しい系の男が来ると踏んでいた。なのに蓋を開けてみたら中学生みたいに小柄な子がやって来たものだから、何かの間違いではないかと問いたくもなる。
 顔を見合わせる燐音とニキを余所に、すうとひとつ息を吸ったHiMERUは、躊躇いなくギターを掻き鳴らし始めた。Eマイナーセブンスに始まるシンプルなコード進行は、ニキにも覚えがあった。
「え〜っと、あ! 燐音くんのデモの、三曲目……」
「メルメルってばもう覚えてくれてンじゃ〜ん、嬉しいねェ♪」
「メルメルって……まあいいです、好きに入ってください……桜河さん。あなたも」
 硬質なブラッシングやピッキングハーモニクスを駆使して所々『HiMERU流』に装飾されまくったイントロ。俺が主役だとばかりに出張るギターを邪魔しないよう、燐音のキーボードがそっと寄り添い歌メロをなぞる。ニキもふたりに倣って手を動かした。
 ハイハットでリズムを取りながら様子を見ていたこはくは、煽るような視線を寄越すHiMERUを真正面から見返していた。「見とれよ」と小さな唇が動く。Bメロからするりと混ざってきた8ビートは自然でそつがない。力強いバスドラムにハリのあるスネアの音は、小さな身体に似つかわしくないとも思えるほど。
「うん……テンポキープ、良いですね。このBPMにも転けずに着いてくる……。フィルインも、上手い。──もしかしてツインペダルもいけます?」
「いけるに決まっとるやろ。ネットサーフィンとドラムしか無かったんよ、引きこもり時代のわしには」
 他にも凝り性のギタリストが思いつくままに数曲。クイーンやストーンズといった往年のロックからジャズ、R&B、ファンクに近年流行りの四つ打ちダンスビートまで──容赦なく畳み掛けられる課題にも臆することなく、こはくはアドリブで喰らい付いていた。とんでもないスタミナと負けん気だ。
「ふむ……精度はまだまだですが手数は多いようですし、パワーも申し分ないかと思いますが。どうでしょう、天城?」
 後半ぼうっと見惚れているだけだった燐音は、不意に水を向けられて飛び上がった。
「へ⁉ なんで俺っち?」
「バンマスはあなたでしょう。あなたが決めてください」
「バ、バンマス……」
 満更でもなさそうに口元をもごもごさせる悪友をニキは横目で見ていた。なんだその顔、初めて見た。
「断る理由はねェっしょ。これからよろしく頼むぜ」
「わあ、おおきに〜。嬉しいわぁ」
 こはくはぴょんと立ち上がり燐音と握手を交わした。
 こんな風にノリと勢いと胸いっぱいの情熱で始まったバンドで、まさか本当にメジャーデビューを目指すことになるだなんて。振り返っても、やっぱり冗談みたいな話だ。



 思えば四人でバンドを結成したあの日も、この八番スタジオを借りていたっけ。二年ほど前のことを懐かしく思い出す。
「なんか悩んでんねやろなぁ、HiMERUはん」
「う〜ん、まあなんて言うか? 僕らと違うじゃないっすか、HiMERUくんって。楽しむためにやってるわけじゃない、っていうか……?」
「わしら失言だったっちことやな」
「あ〜……なんか、大体把握した」
 HiMERUが飛び出して行ったあと、取り残された三人はぽつぽつと喋ったり喋らなかったりしていた。帰るに帰れなかった。
「来週のツーマンまでに、じっくり時間取って合わせられる最後の日やってんけどなぁ……」
 こはくがペダルを踏みしめながら唸る。心が波立っている時にバスドラのペダルを踏んでしまうのは彼の癖らしい。
 何だか無性に悲しくて、ニキも無意味にベースを鳴らしたくなった。あの時燐音が勝手に買ったジャズベースで、今はスラップの練習をしているのだ。これまでフィーリングで弾いて何となく褒められてきたけれど、最近仲間と奏でる音が楽しくて。もっと上手くなりたいと、らしくもなく思っている。
「機材そのまんまだし、しばらくしたら戻ってくるっしょ。おめェらは先帰ンな、悪りィけど」
「んん……そうさしてもらうわ」
「わかったっす。燐音くん、HiMERUくんをよろしくね」
「任しとけ〜」
 これ以上ここにいても、きっと自分達に出来ることはない。ニキとこはくはのろのろと片付けを済ませ、スタジオを後にした。

 誰もいなくなったスタジオでひとり、燐音はHiMERUが置きっぱなしにしていたアコギを手に取った。普段は滅多に触らせてくれないギブソン・ハミングバード。軽くチューニングをし直してから撫でるように優しく、指先で弦をはじいた。
「The long and winding road
That  leads to your door……」
 決して届かないドア、過去への憧憬、置いていかれる孤独。長く曲がりくねった道は最後まで辿り着けない──そんな哀愁を歌った物悲しい詞を、雨粒のような澄んだ音色にぎこちなく乗せていく。
 手元に集中しているせいか、ドア付近に人が立っていることに燐音は気付かない。
「──まさか解散するつもりですか?」
「Leads me to your door……って、うわっ」
 至っていつも通りの顔をして戻ってきたHiMERUは、男の手からハミングバードを引ったくった。丁重にケースに仕舞うと、椅子に座っている足元にぺたりと膝をつく。それから太腿にこてんと頭を乗せてきた。
「しねェよ解散なんか……。思ったより早かったな。おかえり、要」
「……ただいま。あなたにビートルズは似合いませんよ」
 向こうを向いている彼の表情は窺えず、何から話したらいいか迷ってしまう。珍しく甘えたい気分らしいから、水色の髪をそうっと梳いてやりながら、慎重に言葉を選んでいく。
「ニキもこはくちゃんも、気にしてねェよ」
「……」
「おめェのこと心配してる」
「……すみません」
「謝るならあいつらに、な。後ででいーから」
「……はい」
「ダァイジョーブ、次会う時はケロッとしてるっしょ」
 ちゃんと励ませているだろうか。あのふたりのやり取りから大体の事情はわかったつもりだけれど、本人が話してくれないことには憶測の域を出ない。大事な恋人相手に、間違えたくはなかった。
 そうして長いこと頭を撫でていた。HiMERUが──要が少し身じろいで、「俺は」と独り言のように呟いた。
「楽しんではいけないと、思っていたのです。そう思ってやってきたのですよ……本気で、バンドで夢を叶えると決めた日から」
「……うん」
「──なのにすこし、浮かれていたのかもしれません。最近の『Crazy:B』は俺の理想通りで、夢中になれる場所で。充実していると、感じます。幸せだと」
「うん」
「その……あなたも、いて。楽しいのです、とても。それを指摘されて、否応にも自覚させられてしまった」
 燐音は押し黙ったまま聞いていた。彼が心の奥深くに仕舞っている柔らかい感情を、初めて見せてくれるような気がして、ただ待った。
 要は緩慢に頭を持ち上げ、不器用に元の位置に戻した。深呼吸を一度、挟んで。それから口を開いた。
「今の俺は……あの頃夢見た、なりたいと思った『HiMERU』じゃない。たぶん、きっとそう言う。あの人も」
「……あの人?」
 金色の瞳はどこか遠くの愛おしいものを見つめていた。
「一緒に音楽の道を志した人がね、いたのです。彼はオアシスに憧れていて……でもほら、仲悪いじゃないですか、あの兄弟。俺達はギャラガー兄弟じゃないから仲良くやれるはずだよねって、無邪気に笑ってた」
「……今は?」
 唇を歪め、ゆるく首を振る。
「彼はもう、ギターが弾けない。ふたりの夢は潰えて、今は俺ひとりが残像に追い縋ってる」
「……」
「でもね、音楽を嫌いになったわけではないのです。だから俺は一縷の望みに縋って……バンドで音楽シーンの最前線に立って、彼に届けたい。また笑ってほしい」
 燐音は椅子を退けて床に座り込んだ。要と同じ高さまで降り、その痩身を腕の中に閉じ込める。
「おまえが……、ふたりで演ってた時は、楽しかったンじゃねェの?」
 ヒュッと息を飲む音が聞こえた。
 楽しかったはずだ、きっと。その人のことは知らないけれど、初めてギターを手にした時、初めてコードを鳴らした時、音を合わせた時。その人も、目の前にいる彼も、身体が浮き上がるような高揚に包まれたはずだ。自分と同じように。
「楽しんだからって罰は当たらねェさ。バンドがやりてェんだろ? 音楽はさ……孤高だって出来るけど、孤独には出来ねェモンだ。『本気』と『楽しい』をどっちも欲張るのが悪いことだとは、俺にはどうしたって思えねェよ」
 手を握る。皮膚が厚くなって硬い指先。全身どこを見ても綺麗な彼の、唯一傷を負い続けた部分。どれだけの努力を重ねてきたのだろう。何万回、何年。
「俺はさ。どっちも手に入れられるって信じてンだよなァ、おめェらと一緒なら──『Crazy:B』なら」
 賭けてもいい。つうか、賭けられるモンはとっくにぜんぶ賭けちまってンだ。俺のぜんぶ。たぶんあいつらもそうだと思うぜ。
 要は何かを堪えるような顔をしていた。
 うん、それでいい。自分達はどうしようもなく表現者だ。歌っている間、ギターを鳴らしている間は、何も堪えなくたっていい。そうやってシンプルに産まれて、生きてきたのだから。
「……ありがとう」
 短くそれだけを言った彼はもう一分の隙もなく、いつもの自信満々な完璧主義者のギタリスト『HiMERU』だった。





 翌週末。
 結局あれからろくに合わせられないままライブ当日を迎えた『Crazy:B』は、それでも誰ひとりとして不満を口にすることなく、本番前のリハーサルを難なくこなしていた。音を重ねれば伝わる。たとえ二週間ぶり、一ヶ月ぶりだとしても、このメンバーで合わせることにきっとひとつも不安なんてない。
 抜群の安定感と柔軟性の両方を兼ね備えたこはくのドラムと、聞けば自然と身体を揺らしたくなるようなニキのベースラインが織り成す、最高に心地の好いグルーヴ。
 色気のある音色で聴衆を魅了しながらも、ここ一番のテクニカルなフレーズで圧倒するHiMERUのギタープレイ。
 王道ド真ん中ではないけれど、確実にオーディエンスの心に棘を残していく楽曲。燐音のメロディメーカーとしての才能はそこにある。繰り返し聴くほどに棘はぐっさりと深く刺さり、一見ストレートなリリックにひと匙潜ませた毒は、ひと度癖になったならもっともっとと望んでしまう麻薬的な魅力を有している。
 これだけのメンバーで売れなかったなら、そんなのは世界の方が間違ってる。少なくとも燐音はそう信じている。
「はじめまして、お久しぶりです! 『『UNDEAD』across『Crazy:B』ツーマンライブ 華金Night Fever』に来てくれてありがとなァ! 『Crazy:B』です、よろしく」
 一曲目、ライブの定番パンク・ロックチューン。こはくによる正確無比かつ推進力のある2ビートにフロアが沸き立つ。HiMERUは一昨日入手したばかりのフランジャーを早速お披露目出来たようでご満悦だった。
「改めましてこんばんは、『Crazy:B』です。今日はねェ、先輩の『UNDEAD』さんのお招きにあずかりまして。どアウェイだったらどうしようって俺っち超不安だったンだけど、俺らのこと知ってる人もいっぱい来てくれてるっぽいすね。ありがとう」
 薄らと客電が点いたフロアで「知ってるよ〜!」と誰かが声を上げ、続いてまばらにメンバーの名前が叫ばれる。野太い声で「ニキ〜!」と呼ばれた当人は、へらへら笑って手を振っていた。
 『Crazy:B』は比較的男性ファンが厚いバンドだから、『UNDEAD』と比べて黄色い声が少ないのは恐らく気のせいではない。別に悔しくはない、負け惜しみでもない。ここにいる全員、自分達のファンにしてしまえば良いだけだ。
「え〜、次なんすけど、一曲だけカバーやらせてもらいます。レアっしょ?」
 拍手。こはくがツインペダルを踏んで応じる。
 実際、ライブで余所様の曲を演ったのは結成してすぐの数回だけだった。けれど今夜は演るべきタイミングだ、そうHiMERUが言った。セットリストを決めるのは基本的に燐音の役目なのだが、うちの花形ギタリストさまたってのご要望だ。ふたつ返事で了承した。
 引き続きMC。燐音は気づかれない程度に深く息を吸って、吐いた。
「……実は俺っち達、来月メジャーデビューが決まりまして」
 わあっと歓声が上がる。キャパ二千余人のライブハウスが揺れるほどの大ボリューム。最前列で泣き出す人、大声で何かを叫ぶ人、全身で喜びを表現する人。「泣くにはまだ早いのですよ」とオーディエンスを窘めたHiMERUだったが、その目はボーカルの方を向いている。自分に言われているようで、燐音は少し居心地が悪かった。
「おうよ、これからますます『超音速』ででっかくなってく俺っち達から目ェ離すンじゃねェぞ。振り落とされずに着いて来れンだろォ?」
 ウオオと拳を突き上げ、戦の前のような雄叫び。HiMERUが早弾きで煽れば煽るほど、会場のボルテージは高まっていく。こんなの大河ドラマの合戦のシーンとかでしか見たことないな、とニキはぼんやりと思った。
「よし、よし、わかったわかった、サンキュー、次やります。『Supersonic』」
 燐音が宣誓のように放ったタイトルを合図に客電がカットアウトされ、ブルーのステージ照明と残響だけが僅かに取り残される。水を打ったように静まり返るフロア。真空に放り出されたみたいな錯覚に陥る、この瞬間が好きだった。自分の心臓の音しか聞こえない、俺達四人だけの宇宙。
 やがて重々しい8ビートが刻まれ始める。規則正しい脈動に乗っかる、啜り泣くようなピックスクラッチ。アンニュイなギターリフに続き、短いブレス。

「I need to be myself, I can't be no one else」

 〝俺は俺でなきゃならない、他の誰かにはなれない〟──オアシスのデビューシングル、『Supersonic』。かつて彼らの影響で音楽を始めたと言うHiMERUがこのタイミングでこの曲を選ぶ意義は、燐音には計り知れないけれど。ちゃんとはわからなくても、今は同じくらい、届けたいと思っている。『彼』に届けばいいと願っている。
 カジノを抱えて声を張り上げながら横を見れば、HiMERUがこの世の全ての幸福を甘受するかのように笑っていた。つい見惚れて一瞬手が止まったのは秘密だ。
「次で最後です! ありざした!」
 重要な発表の日だからと『UNDEAD』が花を持たせてくれ、多めに十曲少々演らせてもらった。
 最後の曲は、先週スタジオでHiMERUを励ました後にふたりで作った、出来たてホヤホヤ未公開の新曲だ。残り一週間でもう一曲覚えろと言われたニキとこはくは、さすがに白目を剥いていたが(それでもしっかり仕上げてくるのだから、やっぱりこのメンバーでないとやっていけないと思うのだ)。
 ニキ、こはく、そしてHiMERU。全員とアイコンタクトを交わし、燐音は最後のタイトルを歌うように高らかに宣言する。

「『And The Beat Goes On』」

 メジャーデビューはスタートラインだ。ゴールは無い。先の見えない『長く曲がりくねった道』は、どこまでも続いていく。それでも孤独でなければ、怖くはない。こいつらと一緒に『本気』も『楽しい』も手にしてやろうじゃないか。

 『And The Beat Goes On』──俺達の音楽は鳴り止まない。宇宙を揺るがす音を奏でてやる。届くまでずっとだ。
 全世界に喧嘩を売るかのように不敵に笑い、燐音ははじまりのコードを力いっぱい鳴らした。

powered by 小説執筆ツール「notes」