着替え
「あんたが覚えてるかはわからんけど、お母ちゃん、昔は落語しとったんよ。お腹の中にまだあんたがいてるときは現役やったし、徒然亭若狭、言うたら知るひとぞ知る人気落語家だったんやで。」とお母ちゃんは言った。
この話どこで聞いたんだっけ、と思いながら、私は人生で百回目のへえ~を言って、そうやったんや、と熱のこもってない相槌を返すと、今あんたが想像してるのよりも百倍売れっ子やったんや、もっと驚き、と言ってお母ちゃんはころころと笑った。
「いや、うちは、他所のおかあちゃんやったら鼻歌歌うところを、歌わないで落語ば~~~~っかりしてるから、歌下手なんや~とか歌うのが嫌いや~とか、今でもすっごく落語好きやからや、とかそういう答えが返ってくるもんかと思って質問したんやけどな。」
一気呵成にそこまで言ってしまうと、そうやなあ、と草若ちゃんは私の爆発をゆっくり受け止めてくれた。
優しい~~~~。
これなんよ、うちのお父ちゃんに足りないとこは。
そんなことより宿題したんか、とか、そういう答えはもう聞き飽きました。
狭いマンションでちゃぶ台で草若ちゃんに習って入れた緑茶を啜ってると、ほんまに落ち着く。
まあ、なんでホットケーキに牛乳やのうて高級玉露なんやろ、玉露ってなんかお出汁の味して好かん、とは思うけど。
うちでもお母ちゃんがエーコちゃんに貰って来たハーブティー持て余してたりしてるから、ぱっぱと普段遣いしていかんとなくならないとか、そんなもんなんかもしれへんな。
私もいつかエーコちゃんみたいなかっこええ女社長になりたいな、て思うけど、うちみたいなおかあちゃんとお父さんのおる家に生まれ育ってしまったら、最後は落語家になるのが関の山ていうか……おじいちゃんも傍で見てても商売ほんま下手やし。
「……お母ちゃん、お父ちゃんが言うほど落語下手でもないのになんで復帰せんのやろ、ていうのが今のところ、青木家の、っていうかわたしの七不思議のひとつなん。おかあちゃんが昔落語家やったことなんて、もうみんなから百遍聞いてるし。創作落語かて自分で作ってる間は、お父ちゃんに聞かせる前に何べんもお稽古もしてんのに。」と言い募る私に、年上の幼馴染は学校の宿題をしながらうんうんと頷いている。
あんた、いつもながらほんまに呑気やなあ。
「話聞いてくれんのは嬉しいけど、はよ宿題終わらせんと、今から日暮亭行っても、もうトリの小草々くんの出番終わってるで。」
「あ、そっか。」と言いながら慌てて教科書とドリル捲ってる。
四草師匠の血を引いてるはずやのに、なんでこんなどんくさいんやろ。
まあ私も、お母ちゃんの子どもやのに、三味線のお稽古なんか出来へん~てずっと逃げ回ってんのやけどな。
両手使って楽器引くなんてまあ無理やで。手が三本か四本あれば別やけど、ふつうの人間の出来るこっちゃないわ。
「宿題、急がんでもええよ、今日は小草々くん、いつもの鉄砲勇助やから。わたしもお稽古のときに、飽きるほど聞いてるし。」
「あいつ、ま~た鉄砲勇助やってんのか。」と草若ちゃんが草若『師匠』の顔して苦笑した。
師匠、て言っても、うちのお父ちゃんみたいに弟子取ってなくても、単に芸歴長いとかで師匠て言われるみたい。
「小草々くん、こないだまでは『掛け取り』やってたんやけど、年にいっぺんは鉄砲勇助のお稽古したいみたいで。」
「そうやなあ、その気持ちちょっと分かるわ。」と草若ちゃんが笑った。
「毎日毎日お稽古聞いてると、私はうちのみんなの分まで本番の高座まで聞きたいとかあんまり思わなくなるんやけど、お母ちゃんはお父ちゃんの弟子の兄さんらが高座に上がるたびににこにこと眺めてるし、時々はお父ちゃんの高座で下座さんやって、終わった後の高座を泣きそうな顔で見ていることもあるから、あれも不思議やなあ、て思うのよ。鼻歌も歌わずに落語して、職場で落語聞いて、家におっても、お父ちゃんの下座の稽古しながら落語聞いて、飽きへんのやろか。」
「そうやなあ、まあ好きなんやろな、落語が。あと、喜代美ちゃんが歌うとこオレもあんまり聞いたことないけど、学生の頃に小浜の街の近くに、カラオケボックスが全然なかったて聞いてるから、そういうのもあるんとちゃうか?」
そういえば、草若ちゃんて、うちのお母ちゃんのこと何でずっと名前で呼んでんのやろ。それもうちの中では、お父ちゃんが家の中で喜代美、て言わんのと合わせて青木家の七不思議のひとつ。
お父ちゃんなんて、引退したのに今でも若狭としか言わへんもんな……いっぺん名前で呼んだこともあったらしいけど、しっくり来ぉへんから止めてしもた、とか言うし。
そら、最初のうちは誰でもしっくり来ぉへんの当たり前と思うけど。
四草師匠なんか、シーソーやで。
草若ちゃんのお父ちゃん、まさか、四草師匠が男前なのにシットしてたんやろか、て思うけど、写真見たら草若ちゃんのお父ちゃんなのに渋くて格好ええし……。
師匠が冗談で付けた芸名でも後で名前変えたりは出来るんやで、とは聞いてるけど、四草師匠は、この年でもずうっと四草師匠のままやもんなあ。
「草原師匠とか草若ちゃんも時々高座で歌てるでしょ。尾崎のアイラブユーとか知りたくもない懐メロの知識とか、昔の流行りもんの話の知識が段々溜まって来るから、『青木の話聞いてたらなんやうちのおかんと話してる気分になってくる、』て昨日も担任のセンセに言われたし。」
「「そうなんか?」」と言ってふたりで顔を見合わせて笑っている。
好きに笑えばええよ、もう。慣れとるで。
ただいま、と言ってドアが開いた。
この家でただいまと言って戻ってくる人は他にはひとりしかいない。
「あ、四草師匠、おかえりなさい! お仕事お疲れ様! 今からお茶入れるから私に構わずに着替えてね!」
ぱっと立って流しに行くと、「……来てたんか。」という低い声が聞こえて来た。
不機嫌そうに聞こえるけどこれが素やからな、四草師匠て。
「うん、お邪魔してます~。」
茶碗は茶托引っ張り出すの面倒やから、四の数字入ったマグカップをちょっと洗って拭いてとしてるうちに、やっと、「お父ちゃんおかえり、」という声が聞こえて来た。
「おい、四草。可愛い子が三人もいてるんやから、もっと底抜けに嬉しい顔せんかい!」
えっ、三人って、と思ったら、案の定、四草師匠も「そこに草若兄さんも入れていいんですか?」と突っ込んでいる。
「ええよ~、草若ちゃん可愛いもんな。うちのお母ちゃんよりよっぽど可愛いし。」と言いながら出涸らしのお茶を入れる。
薄いな~、これ入れ直した方が良かったやろか。
「それにお父ちゃん、こないだ僕より草若ちゃんの方が可愛いとか言ってたやん。」
おっ、ナイスアシスト。
ていうか、あんたほんまに「お父ちゃんたち」のこと好きやねえ。
「えっ、そうなんか?」
草若ちゃんの驚いた声に、四草師匠の舌打ちの音。
「子どもが生意気言うから、ただの話の流れです。」と誤魔化す声と、帯をほどく音とが同時に聞こえてきて、笑ってしまう。
草若ちゃんいっつも、四草師匠の着替えのとき大人しいもんな~。
「帯しまうの手伝ってください。」って四草師匠が言うのに合わせて「兄弟子をこき使うなボケ。」という声が聞こえて来る。
「お茶冷めてまうでしょう。」
「お前、猫舌だったんちゃうんか。」
「そこそこ熱いくらいなら大丈夫です。」
草若ちゃんて、お母ちゃんといるときなんか借りて来た猫みたいやのに、四草師匠とおるとき、時々ほんまに口悪いな。
……とかなんとか思ってるうちにもずっとふたりの口論が続いていて、箪笥からジーンズ取り出してる音とか、全然聞こえて来ない。
「なあ、そろそろ着替え終わって欲しいんやけど?」
お茶冷めてまうで。
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