わたしがチョコパイになっても
ハン・ホヨルは特異点だ、とジュノは思う。多くの人間が、軍隊という閉鎖空間で捻じ曲がった社会性を構築し、虚栄心を肥大させた挙句に暴力へと転化させる。あの場所は、誰もがそうならざるを得ないシステムによって成り立っていて、そんな地獄のような場所で唯一、変わらずにいたのがハン・ホヨルという人間である。今振り返ってみても、あの人の振る舞いは理解不能なようでいて、その実、愛に満ちていて。つまりるところジュノは、除隊してもなお、そんな彼のことを忘れられずにいたのだった。
除隊してすぐ、ジュノはホヨルに電話をした。時間が経てば経つほど、しにくくなると思った。それはおそらく、ふたりで負った痛みであるとか、罪悪感であるとか、時間と共に都合よく薄れてしまうものたちへの戒めであるとか。離れていればきっと、良い思い出になり得るのに。それでも自分たちだけは覚えていないと。そこに複雑に入り混じった、ほんの少しの下心の気配をはらませながら。
すぐに会うか、一生会わないか。ジュノは極端な二択の上、前者を選んだ。けれど、その電話にホヨルが出ることはなかった。あと一回、もう一回と数回かけたあたりで、ジュノの中で、彼は『一生会わない人』になった。自分探しの旅にでも出たのかもしれない。今度こそ、夢中になれるものをきっと見つけたのかも。それなら良かった。そう言い聞かせて、連絡するのをやめた。そのあと、ホヨルから連絡がくることもなく、一年が経った。
そして一年が経ったころ、ホヨルからメッセージが来た。遅すぎる返信は、ジュノがおおよそ考えていた内容とは大きく食い違っていた。
『例えば俺が、チョコパイになったらどうする?』
さすが特異点。妙に納得して、その不可解な文面の意味を考える。チョコパイ。それは何人も抗えぬ魅惑のお菓子。そうお菓子だ。人間がおいそれと変貌できるものではない。クイズか心理テストか、あまりにも謎すぎる問いにどう返信すべきか迷っていると、今度はチョコパイのスタンプが送られてきた。
スタンプあんだ。
感心ついでに、ふと、もうひとつの可能性を考える。まさか本当に、チョコパイになってしまったのではないか。ハン・ホヨルのことだ。地球規模では起こり得ない、なにか異次元の事象に巻き込まれることも大いにあり得る。ジュノは大慌てで、ワンルームの隅に転がっていた埃被った釣り用のクーラーボックスを抱え、家を飛び出した。
玄関のドアが開いたら、普通の人間、ハン・ホヨルが出迎えた。当然だ。人間はチョコパイにはならない。安心したら今度は泣きそうになってしまって、ジュノは「自分探しの旅はもう終わったんですか?」と精一杯の嫌味を言った。
ホヨルのマンションは、以前来た時よりずいぶんすっきりとしていた。というより、家具の類がなくなっていた。
「引越しするんですか?」
ジュノが尋ねると、ホヨルは「ん〜」と気のないそぶりをしてから「そんなかんじ」と言った。がらんどうの部屋で、ふたりはぺたりと床に座り、ぬるい缶コーヒーを啜った。
「ポロロじゃなくて悪いな」
「いえ。コーヒーでぜんぜんいいです」
「で、答えは出たか」
答え。むしろ、こちらから聞きたいことは山ほどあるというのに。ジュノは答えをせびる男を睨みつけようとして、すぐにやめた。やけに嬉しそうに見えたから。
「答えというのは、チョコパイの話ですか?」
「そう。食べる、食べない、捨てる、捨てない、宝箱にしまう」
「先輩の家って宝箱あるんですか」
「金庫ならある」
あっちに、とホヨルが奥の部屋を指す。
「金持ちですもんね」
「親が持ってた。その親も、そのまた親も。そういう家に俺が生まれただけだ」
「なるほど」
「で、だ。ジュノヤ。答えは出たか?」
「いえ、質問の意図をまだ理解できていません」
「意図?」
ホヨルは突然立ち上がって、キッチンのほうへ向かった。シンク上の棚をひととおり開けて空っぽなのを確認したあと、思い出したように部屋の隅にあったビニール袋を漁った。えびせんの袋を片手に、また床にドスンと胡座をかいた。
「そんなものはない」
「そうですか」
ないらしい。そんな馬鹿な、とジュノは思う。けれど、この人らしいとも思った。香ばしい海老の香りに釣られて、袋の中に手を伸ばす。魅惑の味だ。世の中は、おいしいもので溢れている。そしてチョコパイ。先輩がチョコパイになったら。口は達者そうだが、自力での移動は大変そうだ。コブラツイストだってかけられない。それならば、とりあえず。
「……なら、持って帰ります」
「ほう」
「それから、家の冷蔵庫に入れて外敵から守ります」
「それは温度とかそういう?」
「そうですね。あとは猫とか」
「たしかに。猫はこわい。かわいい顔してるくせに」
「はい」
「冷蔵庫に入れて、そのあとはどうする?」
そのあと。ジュノが言葉に詰まっていると、突然ホヨルがジュノの額をぺし、と小突いた。
「なんですか」
「おまえのおでこは国宝級だ」
「褒めてます?」
「国宝だぞ? 世界遺産のほうがいいか?」
「なんでもいいですけど」
そういえば、髪を切りすぎたんだった、とジュノは思い出した。額を撫でながら『そのあと』を考える。そしてようやく、ああ、そうかと腑に落ちた。
「たぶん、なにもしないかと」
「なにも?」
「はい、なにも」
なにも。とホヨルが繰り返す。
「しいて言えば。時々冷蔵庫から出して眺めます。三日に一回くらい」
「つまりアンジュノ。おまえは、俺がもしチョコパイになったら、家に持って帰って冷蔵庫にしまったまま、三日に一回眺めながら何年も何十年も過ごすってことか?」
「何年か何十年かはわかりませんけど。賞味期限あるし」
「食べる気だな?」
「食べません」
「食べろよ」
「食べませんって」
「チョコパイだぞ」
「でもホヨル先輩なんでしょ」
「そうだ、よく覚えてたな。賢いぞアンジュノ」
よ〜しよしよしよしよし。ホヨルはジュノのこめかみのあたりを、ラブラドール・レトリバーの耳の裏を撫でるようにわしゃわしゃと撫でた。当然、ジュノはラブラドール・レトリバーではないので、顰めっ面のハリネズミが出来上がる。まんまとこの人のペースだ、とジュノは半ば諦め気味に質問を放り投げた。
「逆に先輩は、僕がチョコパイになったらどうします?」
「おっ、ノってきたな。ジュノめ。すました顔して、案外ノリのいいやつだよな、おまえは」
「なんだっていいですよ。ほら。答えて」
「そう急かすなって」
ホヨルが、今日一番の笑顔を見せる。
「そうだな、俺ならおまえを連れてあちこち出かけるかな。ぶらりKTXの旅だ。一緒に海を見ながら写真を撮る」
「やばいですね」
「だろ」
「大丈夫ですか。外は危険がいっぱいですよ。紫外線で溶けたりしたら」
「大丈夫だろ。おまえ、体力あるし」
「つまり先輩は、僕がチョコパイになったら、危険を冒してまで肌身離さず一緒にいたいってことですか」
「一部脚色ありだな。おまえの希望的観測が滲み出てるぞ」
「そうですよ。悪いですか。だっておかしいです。先輩、僕たち久しぶりに会ったのに。チョコパイの話しかしてない」
ジュノは、いつの間にか、すっかり冷え切ったコーヒーの缶を握りしめた。
どうして電話に出てくれなかったんですか。その間、先輩は何をしてたんですか。メールのひとつくらい、くれたってよかったじゃないですか。自分探しの旅に出てた? せっかく諦めようとしたのに、なんで今更返事を寄越したんですか。とっくに新しい仕事でも初めて、僕の知らない誰かと連れ添って、全部忘れて幸せな人生を始めてくれてれば良かったのに。
そう問い詰めたくても、何も変わらない、特異点のままのハン・ホヨルに、ジュノは何も言えなくなってしまう。きっとそれが、一番の望みだったから。ジュノは口を開きかけたが、えびせんが一本放り込まれ、指先で唇を閉ざされてしまう。
「そう焦るなよ。アンジュノ。知ってるか? 俺たちにはこの先たっぷり時間があるんだぜ」
「……どういう意味でしょう」
ふふ、とホヨルがいたずらっぽく笑う。
「なにかを始めるには時間がいるんだ。それと、ほんのちょっとの勇気と、決意。決意ってのはこれのことだ」
ホヨルがこれ、と指す場所にはなにもない。すっからかんの部屋があるだけだ。
「ときにジュノヤ。おまえの部屋は快適か?」
「電車が通ると揺れますが、寝てしまえばまぁ、どうということはありません……。え?」
「そうか。楽しそうだな」
ジュノの口にまたえびせんが放り込まれる。それから、海老味のキス。唇が一瞬触れて、すぐに離れた。
「いいかげん始めなきゃな。そうだろ? ダーリン。俺たちは前世で夫婦だったんだから」
ジュノは呆けたまま、口の中のえびせんを咀嚼した。クセになる歯応え、凝縮した旨み成分。それにちょっぴり酸っぱくて、ちょっぴり辛い。もぐもぐと口を懸命に動かしながら、おおよそ間抜けに見えるであろうその顔を、ホヨルは柔らかな笑みでもって見つめた。
どうかこの人だけは、先の見えないブラックホールの中でも、煌めいていて。
やっとのことで口の中を空っぽにして、ジュノはホヨルに近づいた。いざ唇を迎えにいこうとしたその時、ホヨルが思い出したように言った。
「そういえばジュノヤ。あのクーラーボックスはなんだ?」
床に放り投げられたクーラーボックス。ジュノは出番がなくて良かったと胸を撫で下ろしながら「……ヒョンと釣りに行こうかと」と投げやりに言った。
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