大学生と社会人その3


軽快に弦を爪弾くやり方をトレモロ、というらしい。
あるひとつの音、もしくは距離のあるふたつの音との間を、何度も反復させる弾き方のことだ。
振り始めの雨のように響く、隣り合っていない音のひとつはホヨルで、ひとつはジュノ。
どこかで聞いたことのある曲は、日曜日の夕方に似ていた。

「弾いてると眠くなる曲があって、お前と次に会ったら聞かせてやろうと思ってた。」
夢の中でしか思い出さなくなっていたホヨルの声を聴いているのに、寝てしまうのは勿体ない。
それでも、マンドリンの音を聴きながらソファの上で毛布を被ってしまうと、ほとんど沈没寸前になるのが常だった。気圧のせいか、瞼が重い。
時折指が止まって、その沈黙の合間に、ぱらりと楽譜のページをめくる音がする。それから、例のトレモロで、さっき聴いたばかりに思える旋律が、また繰り返される。
「眠くなるとは言ったけど寝ていいとは言ってない。」と理不尽なことを言いながら、ホヨルは膝に乗せたマンドリンを爪弾き、笑い声を立てている。毛足の長いラグマットの上であぐらをかきながら「ほらほら、俺の練習が終わったらチムジルバンに行って、汗を流してから寝るんだぞ。」と言う陽気なホヨルの声。その声の調子に合わせるようにして、マンドリンの旋律は明るくなっていく。それにしても、温浴にもサウナにも付き合う、と言ってしまった手前、このまま寝てしまうのは確かに拙いだろうか。

毎日毎日、新しい最悪を更新しつつあったアン・ジュノの人生に忽然と現れ、また忽然と去って行った。ハン・ホヨルという名の、この年上の人は、暫く見ない間に学生時代を続けるという形で人生を一からやり直していたらしく、大学生という真新しい肩書とこの奇妙な楽器とを携えてふたたび俺の前に現れた。(そういえば、今でこそ塞がっているが、再会したばかりの頃には、耳たぶにピアスホールまで開けていた。)
ホヨルの方は、こんなに早くジュノの人生に再登場する羽目になるとはね、と言っていたから、いつかは会うこともあるだろうと予感していたようだった。気が付いたら、当然のように家に招かれて、いつもと同じはずの夜に、こんな風に、ホヨルの部屋のリビングにいるのだった。

「俺が寝なければいいんですね。」
「そうだよ。何かしゃべれ、アン・ジュノ。」と顔に掛けた毛布を引っ張られて、一気に照明に照らされた瞼の裏が、眩しくなった。ここでうろたえた声を出すと、ホヨルが面白がって笑うのは分かっている。それに、かつてのようにフルネームで呼ばれたのが気にかかったので、どうしてマンドリンなんか弾こうと思ったんです、という質問を頭からひねり出した。きっと意味なんてないよ、と言われると思ったのに、ホヨルの口からは、ナンパのアイテム、という答えが返って来たので驚いた。
百年前の、人のいない荒野を移動するジプシーのような暮らしをしているというなら、あるいは観光地ど真ん中のハワイのオアフ島にいるというのなら確かに効果的だろうけれど。今時、この都会のどこでマンドリンを奏でてナンパ出来る場所があるというのだろう。まして、ホヨルの演奏は技巧的というわけでもない。とはいえ、万が一でも、この腕前で実際にナンパに成功したとなれば、こんな風にかつての後輩にかまけている暇などなくなってしまうだろう。
あれは今年のバレンタインの時期だっただろうか。
ホヨルが妹と時々連絡を取り合っているらしいことは聞いていたけれど、ふたりが交わしているメールの文面を見たのは初めてだった。正確には、自分の部屋に仕舞っておいたアウターを取りに家に寄ったついでに妹と話していて、ホヨルとの仲を自慢されたのだ。ジュノは今どうしてるか知ってる、という短すぎるセンテンスの彼の質問に、妹が、こっちもなしのつぶてですよ、でも仕事をしてない他の時間はずっと暇してると思います、と返していた。ふたりのやりとりは、『いつなら会いに行っていいと思う、』とホヨルが返したところで切れていた。その先をスクロールして確かめたい、という強い欲望と戦っている間に、はいここまで、とスマホを取り上げられたのだ。兄の面目などというものは、押し出しの利く年頃の女になってしまった妹には通用しないのだ。
あのとき。妹から連絡先を聞き出してこの人に連絡を取る、という選択肢と、自分からは何もせずに連絡を待つ、というふたつの選択肢が目の前にあった。そのことに気付いたとき、いつかはどちらかを選ぶことになるだろうという考えが、ちらりと頭の中に浮かんだ。けれど、顔を突き合わせて会話を交わす、というのは。あの日の夜に妹から借りて読んだ、付き合っていた男友達が火星よりも遠い星からやって来た宇宙人になりかわっていたという面白みのない小説と同じくらい、ほとんど現実的ではなかった。

心の中に浮かんでは消えるあぶくのような考えを口に出すことは出来ず、「いつかそのナンパが成功するといいですね。」と他人事のように言った。
曲の途中だというのに、ホヨルの指が止まる。
「ジュノ。」
「何ですか。」
「今のは嘘だ、たまたまギターマンドリン部に入ったやつから、一緒に飲みに行かないかって誘われて、居酒屋のノリで勧誘されただけ。ギターとマンドリンだったらマンドリンの方が安いし、スペースも取らないし、習うのも楽そうだろ。まあ、選択肢がふたつあるように見えたら、他の、その二つ以外で、例えばギタマン部に入らないっていう選択肢は隠れてしまうのが人間だから。」
急に早口になったホヨルの言葉に気圧されて、そうですね、と相槌を打った。
「お前は俺の言うことを信じすぎだ。」
「そんなことはないと思います。」
それより、大学に入って生活は変わりましたか、と苦し紛れに続けた言葉に、ホヨルは、それはそうだ、と口にしてから、部活のおかげで大学に行くのが前より面白くなったかな、と言った。
(いつか、この独特の掠れ声が好きだという誰かが、この声も含めてあなたのことが好きだと面と向かって言える誰かが、俺の代わりにこの人の前に現れるだろう。)
「あの。」
「何だ?」
やっとのことで瞼を開けて目に入って来たのは、頬が赤くなったような彼の顔だった。マンドリンを抱えて指を動かすだけでもそれなりの運動になるのだろうか。……あるいは、後輩の前で引くにしても、ギターの方が格好がつくことに今更気づいたのかもしれない。
「練習はもういいんですか?」
「うん。」と頷いた顔つきは、いつもの彼だった。「腹が減って来たから、チムジルバンに行って何か食おう。」と言いながらこちらから顔を逸らし、ホヨルは小さなケースを開けて黄色のピックとマンドリンを片付けている。
機嫌の良さそうなホヨルを見ていると、ジュノも、奇妙に腹が減って来た。
「バイト代が出たから、ゆで卵以外のものも奢ってやる。トッカルビ定食が美味いんだ。」と言って、懐かしいジャンパーを羽織っている。
その横顔を見つめて、一緒に風呂に入るのは面倒だな、と思った。
「……シャンプーハットでも被っててくれたらいいのに。」
「何か言ったか?」
「いえ、別に。チムジルバンに行くのも久しぶりです。」
「楽しみだな。」と言って立ち上がったホヨルは、部屋の隅に畳まずに置き放してあったパンツを取り上げてリュックに入れた。
「着替えはどうする?」
「あっちで買います。」
「それがいい。俺のは貸さないからな。」
「多分入らないと思います。」貸してやると言われても遠慮した方が無難だ。
「ジュノ、お前このところ生意気だぞ。」
「前から同じです。」と言って、欠伸をしながら立ち上がる。
窓の外を見ると、すっかり暗くなっていて、この夜が終わらなければいいと思った。



トレモロ

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