初夏の候、如何お過ごしでしょうか

 日本の夏は暑い。この小さな島国に暮らす人間ならば誰だって、もう嫌というほど実感している事実。それを改めて大声で触れ回りたくなるほどに、今年はいよいよ暑い。「今世紀一番の暑さ」「五十年に一度の暑さ」「ここ数年で最高の気温」とかなんとか、テレビのお天気おね〜さんの言葉を聞き流しながらボジョレーの品評みたいなこと言ってンなあとボンヤリ思う。……まァとにかくそうやって馬鹿なことを考えていないと暑さで気が狂いそう。
 だって今はまだ初夏と呼べる時期だ。あちこちで涼しげな緑が萌える季節。ホイホイ屋外に出ようもんなら強すぎる日射しに焼かれて三秒でギブアップしてしまえそうな昨今だが、散歩やピクニックなんかにも良い時候ではないのか、本来は。
「あ゙っぢい゙……」
「うるさいな……言うと余計暑くなるから黙っててください」
 げし、と長い足がフローリングに転がった俺の尻を蹴る。わりと強めに。ふざけて「あん♡」と甘い声を出すとメルメルはあからさまに顔を顰めて「気持ち悪い」と言った。暴力振るったのはそっちなのにひでェダーリンだな。
「ああもう本当最悪。どうして今壊れるんですかね、エアコン」
「メルメル疫病神でも飼ってンじゃねェの」
「自覚があるなら早々にHiMERUの部屋から退居してほしいものですね」
「冷てェ〜。メルメルの冷たさで地球の気温も下がんねェかな〜」
 メルメルんちのリビングのエアコンがおかしな音を出して止まったのが昨晩。どういうわけか寝室のエアコンまで動かなくなったのが今朝。修理の依頼が立て込んでいるらしく、業者が来るのは明日だと言う。よりによってふたりしてオフの日にこれだ。一日かけてじっくりねっとりイチャイチャするという俺の目論見はこの暑さのせいで氷のように溶け出してしまった。恨むぜ太陽。まだ扇風機があるだけマシだけれど。
 通販で買った新品の扇風機は昨日宅配で届いたものだ。最新型の、羽がないやつ。どういう仕組みかはさっぱりだが、無機質な楕円が描く何もない空間からそよそよと冷風が送られてくる。はじめは物珍しくてはしゃいでいた俺だが、次第に「なんか違う」という謎の感情が湧いてきた。しばしその正体を探っていたのだが、じっと空間を見つめているうち思い至った答えをそのまま口にする。
「扇風機さァ、アレだな……最先端なのは良いケド、『あ゙〜〜〜』ってできねェのな、これ」
「はあ……そうですね」
「『あ゙〜〜〜』ってやらねェと夏始まったってかんじしねェな。ニキんちでは毎年やってたなァ、夏の風物詩っしょ」
「……」
 俺の言葉を無視して立ち上がったかと思えばすたすたとキッチンに向かうメルメル。戻ってきたそいつの手には棒付きのアイスがひとつだけ握られていた。バニラアイスがチョコでコーティングされた丸くて美味しいあれだが、俺の分は無いらしい。ぼすんとソファに座り、ビニールの包みを破くと何も言わず咥えてそっぽを向いてしまう。どうやら機嫌を損ねたようだ。ヤキモチだろうか。そうなら嬉しいなァなんて思ってしまう。
「……メルメルゥ」
「……」
「ごめんって。ニキんちの方が良いとか思ってねェし。俺っちメルメルがいる家が好き」
「……」
「なァ〜メルメル。要さん。拗ねンなよ、なァ、好きだぜ」
 猫撫で声で語り掛けても暖簾に腕押し、返事はない。しかしつんと顔を逸らしてだんまりを決め込む恋人の、緩く括られた淡い色の髪がひと房かかったうなじがほんのり赤く染まっているのを、この俺が見逃すはずもない。これは絶対にヤキモチ。今日の夕飯を賭けてもいい。
 彼を振り向かせる殺し文句をあれこれ考えているうち、つうとひとすじ、その白くて赤いうなじを汗が伝う様が俺の目に飛び込んできた。うわエロ。考える間もなく吸い寄せられるように近付いて、そこに唇を寄せた。しょっぱい。当たり前か。びくりと大袈裟に肩を跳ねさせて慌てて振り返ったメルメルは、茹で蛸みてえに真っ赤。
「う⁉ びっくりした! 何なんですか急に!」
「いやァ、美味そうだなと」
「なに椎名みたいなこと言ってるんですか」
「あ゙?」
 自分でも驚くくらいの低い声が出た。あンだよそれ。事によっちゃしばく、ニキを。
「つうか俺といる時に他の野郎の名前出してンじゃねェよ」
 嫉妬に駆られて思わず強い言葉が出てしまった。こんなこと言うつもりはなかった、ああもう、暑さで頭が働かないせいだ。言われたメルメルは目を丸くしてぱちぱちと数度まばたきをした。それから――あははと腹を抱えて笑い出した。
「はは、自分のこと棚に上げて何言ってるんです、馬鹿」
「…………。てめェカマかけやがったな」
「んっふふ……なかなかいい顔でしたよ、動画撮っとけばよかった、あはは」
「てめェはほんといい性格してるっしょ……」
 やられた。ついさっきまでこちらが優位だと思っていたのに即座に報復してくるなんて、俺の恋人様は随分底意地が悪くていらっしゃる。畜生、好きだなあ。
 部屋の中は暑いままで、むしろ先程よりも彼との距離が縮まった今は体感温度が上がったような気さえするのに、不思議と気分は悪くない。メルメルはまだ気付いていないけれど、先刻うなじに吸い付いた時にこっそりキスマークを残しておいたのだ。知ったらきっと怒鳴られるだろうが、今は俺だけの小さな秘密をそうっと眺めて悦に浸っていたい。どうせなら明日のレッスンまで残っていると良い。そうしたら、ニキとこはくちゃんの前で怒られる振りして思う存分惚気られるから。





(ワンライお題『初夏/マーキング』)

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