手話を始めました

今年も書かせてもらいました。ぽっぽアドベント、わたくしチグリスは20日の記事を担当させてもらってます。今年のテーマは「NEW WORLD」他の方の記事はこちらからhttps://adventar.org/calendars/8747 どれもめちゃくちゃ面白いので全部読んで。では始めます。今年は手話を始めました。その話をします。

 のっけからなんですが、最初に言っておきたいのは、これは「新しい世界」の話ではない、ということだ。手話は新しい世界のものではない。それは昔からあったもので、ただ、わたしが知らなかっただけだ。わたしが知らなかったものを知ったことを「新しい」と呼んでいいものなのか迷った。でもまあ、「昔から存在したものに新しく触れた人間」の話だと思って聞いてください。


 住んでいる自治体の公式LINEに「手話奉仕員養成講座のお知らせ」が流れてきたのは、今確認したところ四月四日のことだった。二年に一度のその講座の募集のことは、二年前にもLINEに流れてきたのをぼんやり覚えている。そのときは「やりたいな〜。でも忙しいし、無理かもな」と思って見送った。それなのに二年後の今年、講座の受講をその場で即申し込んだのは、べつに「忙しくなくなったから」ではない。逆だ。わたしが講座を申し込んだことを告げたら、夫にも親にも友達にも職場の同僚にも「えっ、そんなことしてる暇あるの?」と聞かれた。ないです。正直言って、忙しさで言えば二年前の比ではなく忙しい年になる、そんな年度はじめにわたしは突然「そうだ、手話を覚えたい」と思った。今年はその話をします。

 今年、上の子が成人した。知的障がいがあり、特別支援学校の高等科を卒業し、障害者雇用枠で働く人だ。障がいのある子を持つ保護者はピンと来ると思う。障がいのある子が成人する年、それは「障害者年金を申請する年」である。

 申請書には「この人が日常生活を送る上で、こんな困りごとがあります」ということを記載する欄がある。この欄のために、あの人が生まれたときから今までのことを振り返り、辛かったことを書き連ねてゆくのだ。それは自分でも思ってもみなかったほどつらい作業だった。先輩保護者たちの忠告を肝に銘じていたはずなのに、毎日そのことでわたしはひどく傷ついていた。楽しかったこともあったはずなのに、というか、楽しかったことしか覚えていないようにしようと決めていたのに、つらかったことをひとつひとつ思い出しながら吐きそうなくらい泣いていた。辛かったことしかなかったみたいで、それがとても嫌だった。あの人がうちにいてくれて楽しかったのに。楽しかったことがなかったことになってゆくみたいで悲しかった。そういうことのすべてが嫌だった。

 おまけに次男の大学受験もある。目の回るような忙しさだけど、それはすべて子どものことで、わたし自身のことではない。まあ、もしかして人生でそういう一時期があってもいいのかもしれない。「自分を殺して、他人に奉仕し切った一年だった」と胸を張って言える時期があるのもまた人生なのかもしれない。でもなんとなく、そういうのは嫌だった。それはわたしの人生ではないと思った。それに、そういう「一時期」というのは、今ではないのではないかと思ったのだ。われわれの世代には近い将来、「親の介護」という大問題が待ち構えている。「他人のために奉仕する時期」というのは、そういうときのことを言うのではないか。子どもたちはわたしの奉仕など必要としていない、なんでも自分でできるはず。わたしができることなど知れている。

 だから今年は「子の年金申請があった年」であり「子の受験があった年」である、それ以前に「手話を始めた年」であった、と思いたかった。わたしがしたことはわたし自身のことであったと胸を張りたかったのだと思う。ここまでが前置きです。

 前の年に「コーダ あいのうた」という映画を見た。コーダというのは「聞こえない親を持つ聞こえる子ども」のことである。両親ともに聞こえない人であるコーダの主人公は、音楽を志し、合唱部に入り、校内で発表会がある。聞こえない両親は我が子の晴れ舞台を見にゆくのだが、彼女の歌の素晴らしさに喝采を贈る観客たちの中で、彼らだけが彼女の歌を聴くことができず、まわりの人たちに合わせて拍手をする。その姿が重なって見えた。あの人も、みんながなぜ拍手したのか1人だけ理解できず、まわりをきょろきょろ見渡して同じように拍手をする、そんな場面をうしろの保護者席から何度も何度も見ていたから、そのシーンで思いもかけず泣いてしまった。そのことが頭のどこかにあったのかも知れない。

[いちごの話]

 初回の講座で、手話の前にまずジェスチャーを使ってさまざまなものを伝えてみる試みがあった。テーマのひとつに「好きな果物を教えてください」という質問があり、たとえば「すいか」を伝えるのに、「顔をてのひらで扇ぐジェスチャーで暑いことを伝え、空中に大きな円を書いて大きさと形を伝え、最後に目隠しをして棒を振り下ろすジェスチャーでスイカ割りを表現する」というように、それぞれの受講者が工夫して聞こえない人である講師に自分の好きな果物を伝えるのだ。わたしは「いちご」にした。まず小さいことを伝えるために指で円を作り、それを口に入れて酸っぱさに顔をしかめて見せた。そして指を一本立てて、次に五本立てた。わたしが好きなのは「いち」「ご」だと伝えたかったのだ。

 ほかの受講生たちにはすぐに伝わった。みんなわたしの好きな果物がいちごだとわかってくれた。ただ、講師だけが首をかしげて、わからない、と眉をひそめた。本当にわからなかったのだ。それでわたしは理解した。

 手話においていちごは「い」「ち」「ご」の三語からなる単語ではなく、手話における「いちご」に相当する異なる表現の単語だったのだ。英語でstrawberryと呼ぶように、日本手話においてその果物を指す単語は「いちご」ではなかった。わたしは講座の初回でそれを理解し、とてもショックを受けた。自分が手話というものを根本的に理解していなかった、あるいは誤解していたことに気づいたからだ。わたしはおそらく手話というものを「音声日本語を翻訳したもの」であると認識していたのだ。手話においてもいちごは「い」「ち」「ご」と表現するのであろうと決めつけていたのだ。それは無意識の偏見だった。差別意識と言ってもいい。日本手話を音声日本語に「準じる」ものだと思っていたのだ。その誤解は明らかにわたしの中にあったネガティブなものの存在を明るみにした。

 「日本語」というものは、わたしが日常的に使用している「音声日本語」と同時に「日本手話」「日本アイヌ語」の三種類から成る。2011年に改正された障害者基本法により日本手話は法的にも日本語だと認められた、ということさえわたしは知らなかった。その三つはどれかがどれかに「準じる」ものなどではなく、この三つをもって「日本語」なのだ。当然でしょ?でもわたしは知らなかった。圧倒的多数である音声日本語を使用してるから。

[左利きの話]

 受講生の一人に左利きの人がいた。この人がもう気の毒になるほど手話の取得に手こずっていた。なにしろ講師の手の動きと正反対なのだ。左右どちらの手を左右どちらに動かせばいいのか、頭の中でいったん左右を反転させてから手を動かす。どうしてもほかの受講生にワンテンポ遅れる。こういう場面で「左利きである」ということが不便を強いられるなんて想像もしていなかった。そういえば、たまに左手でスマホをいじるとき(なにか食べながらツイッターしたりとか)、ちょっとした力の加減で画面をスワイプしてしまい、読んでいた記事が途中で読めなくなってしまうことがたびたびある。右利きだと、「右にスワイプ」という動作は「引く」のだが、左利きだと「押す」になるので、ほんの少しの力の加減でたやすく押されてしまうのだ。「スマホって左利きにはめちゃくちゃ使いづらくない!?それとも左利き用のスマホみたいなもんがあんの!?」と思ったことがあった。聞こえない人にも当然左利きの人はいるでしょう。日本手話を取得するのに手こずったこともあったのでは?「左利き」というのはまぎれもなくマイノリティなのだ。当然でしょ?でもわたしは意識したことがなかった。右利きだから。

[COVID-19の話]

 「手話」というからには手の動きで言語を表現するものだと思うでしょ?それはそうなんですが、手の動きと同じくらい大切なものがあるんです。それは「表情」。たとえば日本手話では「夏」「暑い」「南」を表す手の動きが全部一緒だ。ではどうやってその三つの区別をつけるのか。もちろん「文脈を読む」のもありますが、違いは「表情」である。「暑い」を表現するときはすごーく暑そうな顔をするのだ。夏の日の犬みたいに舌を出してハッハッと呼吸するとか、顔をしかめるとか。手話において表情というのは言語の一部なのだ。これがすごく難しかった。なにしろ手の動きを覚えて再現するのに手一杯で、なかなか表情まで気が回らない。というか、常にいっぱいいっぱいな必死すぎる表情をしている。講師から何度も何度も「表情をつけて」と注意されたが、照れもありなかなかダイナミックな表情がつけられない。大げさなほど感情を顔で表現するのだ。そうしないと、視覚に頼るしかない聞こえない人たちには伝わらない。

 手話においてこれほどまでに顔の表情というものが重要な役目を果たすのであれば、COVID-19の流行によりみんながマスクをつけていた状況は聞こえない人たちにとってどれほど不安であったことだろうと想像する。言語の一部が奪われたも同然いうことなのだ。他人を理解するのに「見る」しかない人たちにとって「顔が見えない」というのは恐怖ですらあったのではないか。COVID-19のもたらしたさまざまな弊害は嫌というほど言い尽くされているが、まだこんな不自由があったなんて、わたしは知らなかった。

[ジェンダーの話]

 日本手話を学んでて、しばしば保守的な表現に遭遇することがあった。たとえば「主婦」を表す手の動きは「左手で『家』を表す動きを作り、右手でその下に『女』を表す小指を立てる」である。なかなかのしんどさでしょ?「『男』を表す親指と『女』を表す小指を立てて前に出す」のが「デート」とかね。そういうジェンダーを固定する保守的な表現に出会うたびにわたしは「じゃあ、これ(家の下で親指を出す)もあるんですよね」とか「男性同士、女性同士のデートはどう表現するんですか?」とか質問するように心がけていた。なんというか、日常でもなるべくそういうことを言っていこうと決めていたので。聞こえない人にも同性愛者は当然いるでしょう。ノンバイナリもいるのが当たり前でしょう。そういう存在のための表現が足りていない印象があった。

 だけどそれは日本手話の持つ問題なのではなく、音声日本語とともに日本社会の持つ問題なのだと思う。「いや、でもそういえば『主婦』『主夫』に代わる、性別を限定しないハウスキーパーをさす単語って音声日本語にあったかな?なくない?」と改めて気付かされたのだ。いまだにそんなとこで止まってるわれわれ「聞こえる人」が「手話って保守的だよね〜」などと言えた義理ではない。われわれの社会全体の保守性が、皺寄せとして聞こえない人たちに行ってるのだ。さっさとしなければいけない、と強く思った。マジョリティがどんどんジェンダーの規範をぶっ壊して新しくしていかないと、しんどい思いをしている人たちはずっとしんどいままだ。これに限らず、二重のマイノリティ属性を持つ人たちは、つねにもう片方の属性が後回しにされてしまうのだなと実感した。当然でしょ?でもわたしは気づいてなかった。

[手話を学ぶ人たちの話]

 講座の初回で「今回の講座を申し込んだ理由」を自己紹介がてら発表したのですが、わたしのは「『コーダ あいのうた』という映画を見て感動して……あとスーパーボウルのハーフタイムショーのリアーナのパフォーマンスを手話通訳してたジャスティナ・マイルズさんがかっこよくて……」みたいなしょうもない理由だった。だけどほかの人もだいたい似たり寄ったりだった。ドラマを見たから、何か新しいことを始めたかったから、自分に自信をつけたかったから。「聞こえない人たちのためです」と明言した人はいなかったと思う。わたしたちはそれぞれ、自分勝手な理由で手話を覚えたいと思った。だけど講座が進むごとにそれが変化してきているのをなんとなく肌で感じるようになってきた。先生に「なんとか伝えたい」という気持ちが現れてきたのだ。手話がわからないところはジェスチャーや表情を駆使して毎回の課題に取り組む。先生がそれをわかってくれたときの喜びは受講生全員に共通した感情だった。

 ある回に、知ってる人が顔を出した。昔お世話になった人だった。その人は手話サークルを主催していて、われわれ受講生をサークルに勧誘に来たのだ。手話で「わたしもみなさんと同じように、数年前にこの手話奉仕員養成講座を受講しました。講座が終了したあとも手話を続けたいと思い、サークルを立ち上げました。よければ顔を出してください」と言う彼女が、そんな活動をしていたことをその時初めて知った。よく知ってる人だと思っていたのに、わたしは彼女のなにを知ってたつもりだったのか。人には知らない一面がある。当然でしょ?

 これがわたしの今年の話です。「NEW WORLD」でもなんでもない、もともとそこにあった世界、当然のことを、単にわたしが知らなかったというだけのことです。でもわたしにとってはとても新しかった。そこに存在してるものについて、なかったことにしたくない、気づきたい、これは生涯の目標とも言うべきわたしのテーマだと思うけど、今年はそれについて深く学べた一年でした。そういう話でした。お付き合いありがとう。

 明日はお待ちかね、ふじおさん(@fujio0311 )の回ですよ!はちゃめちゃに楽しみです。ではみなさん、メリークリスマス!

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