春
フライパンで卵を焼いていると、背後から声が聞こえて来る。
「野辺へ出て参りますと、春先のことで。空にはひばりがピイチクパアチク……ピイチクパアチクさえずって、……っくしゅ!」
煎餅布団の上に座って身体を左右に揺らしていた男は、大きなくしゃみをした。
草々兄さんと若狭にあの家を預けてから、もう短くはない月日が経っている。小草若兄さんの落語は全く上達しないままに冬は明け、パジャマはもう薄手の春物になっていた。
赤地に水玉と言う、いつもながら頭の悪そうなパジャマ。
こんな肌寒い朝だというのに、風邪を引きたいのかと思う。
さっさと着替えてしまえばいいのに。
早朝稽古だなんだのと理由を付け、いつまで経っても子どもみたいに布団の上から動こうとしない男に冷たい目を向けると、視線はすい、と逸らされる。このところは、かつての自信ありげな笑みも、すっかり影を潜めている。
これが草々兄さんなら、この人は正面切って反論し、その後で相手に張り合うようにして着替えるに違いない。そう思うと、声を掛けるのが馬鹿らしくなってくる。
卵を白い皿に盛りつけながら「布団を退かして席に着いてください。」と言うと、「うるさいやっちゃなあ。」といういつもの反駁と一緒に腹の鳴る音がして、それから漸く、ごそごそと布団を畳む音が背後から聞こえて来た。
「ありがとうございます。」
別に師匠の前でもないのだから兄弟子としての礼を取る必要もないだろうとは思うが、ぞんざいに扱うと拗ねるので立てておいた方が面倒がない。
「そろそろ着替えたらどうです?」と言うと、そうやな、と気のない返事が返って来る。
「なあ四草、今日外に何着てけばいいと思う?」
草若の嫡男という以外に何の取り柄もない男は、ずず、と鼻を啜りながら言った。
テレビやラジオの仕事ももうないくせにどこへ行くというのか、とは思うが、師匠の家にも寄り付かず一人で稽古を続けている男が、嫌々ながらも出かけようという日はいつも決まっている。きっとこっそりと自分の家に帰って、こっそり師匠と女将さんのために線香をあげるのだろう。
妙な遠慮をするくらいなら、いっそ仏壇ではなく墓の方に参りに行けばいいのにと思うけれど、同じ屋根の下で暮らしていれば、互いの財布事情は知れたものだ。
かつての見栄を総動員して買った仏壇の支払いを貯めるのに、寺の最寄りまで行くための電車賃を惜しんでいるのだ。さて何にしよ、と言いながら押し入れを開けて、入りきらないほどの衣装を引っ張り出している男の横顔を眺める。
「浮かれたピンクのシャツ以外なら何でもいいでしょう。」
「おい四草、そんなこと言うのお前だけやで。ピンクが似合うて、皆オレのこと褒めてんのに。」と反駁する。
「小草若兄さんこそ、そんなお愛想を真に受けてどないするんですか。ただのリップサービスでしょう。」と言うと、笑い掛けていた顔から笑みが失せて、口を閉じた。
もしもテレビを付けることが出来れば、この気まずい沈黙もどうにかなるかもしれないが、師匠の家とは違って、この家のテレビはただのビリケン置き場だ。
「……麦が青々と伸びて、」とこちらが続けると、「おっそれそれ。」などと兄弟子は言って、愛宕山の旦さんの台詞をパジャマのままで口ずさんだ。
点けっぱなしのテレビを見ながら「オレも今年は造幣局の通り抜けに行きたいなあ。」と寝ぼけたことを言った男は、目の覚めるような桜色のシャツを着てオムレツを食べている。
僕がこれだけはまともに作れる、オムライスになるはずのオムレツだ。
「造幣局の通り抜けって何?」と、隣に座った子どもが言った。
もうすぐ家を出て学校へ行く時間とあって、卵を乗せた白米に醤油を垂らして腹の中にかきこんでいる。
「造幣局っていう国の機関がな、普段は関係者以外禁止やけど、桜の時期だけ解放されて花見が出来るようになるんや。花見言うても、地面にシートを敷いたらあかん。ただみんな桜を見て綺麗やなあって言うだけのことで、だから『通り抜け』ちゅうんや。」
「僕も行きたい! なあ、草若ちゃん連れてって!」
「無理だ。」
「オイ、四草、子どもの夢を壊したりなや!」と喚く兄弟子をねめつけて「……ちょっとは考えてください。」と大袈裟にため息を吐く。
「今時、桜の通り抜けは事前のネット予約ですよ。もう満杯に決まってるじゃないですか。今年はただの散歩にしたらどうです。」
「したら今日は、その辺を散歩するだけにして、後は来年のお楽しみやな。」
「来年だ!」とはしゃぐ子どもは、段々隣の男のようなアホ面が似合うようになって来た。
(来年なんて、あんたがここにおるかどうかも分からんやろ。)という言葉を飲み込んで、子どもの頬に付いた米粒をかいがいしく取っている様子を眺めていると、目が合った。
憎らしい年下の男は、僕の顔を見て苦笑した。
「四草、卵美味いで。はよ食べて稽古行くぞ。」と言った。
子どもの前だという自制が利いているからか、かつてのように喧嘩腰で、何見てんねん、と悪態を付くこともなくなって久しい。
「草若ちゃん、今、何の稽古してんの? こないだの犬の兄弟のやつ?」と子どもが問いかけると「次の高座に掛けるまで内緒や。」と男が笑う。
「何が内緒ですか。草若兄さん、レパートリーなんて、未だに引退した若狭ほどもないくせに、ここで隠しても仕方ないでしょう。」
「お父さん大人げないで。」と口ではこちらを嗜めながらも(そんなん僕だって分かっとるわ。)と言わんばかりに、子どもは巧みにウインクをした。世渡りの算段を口で教えたつもりはないが、どうやら僕と草若兄さんのやり取りを見て、着々とそうした知識とテクニックを蓄えて行っているらしい。
次の高座で掛けるのは、はてなの茶碗だ。
師匠が得意だった愛宕山を草々兄さんに譲って稽古を始めた当初は、ドン・キホーテ並みに無謀な挑戦と思われたこの噺は、まだまだ師匠の域には及ばないとはいえ、今ではすっかり草若兄さんの十八番になっている。
「草若ちゃん、稽古に熱心なのはいいけど、今日午後から仕事あんねやろ。ちゃんと覚えてるか?」と子どもはスケジュールでいっぱいになったカレンダーを指さした。
「あ、そうやった。なんや昨日の夜にスマホ鳴ってたのそれかいな。」と言って草若兄さんは首の辺りを掻いた。
このうるさい兄弟子がテレビに復帰するようになってから暫く経つ。
Tiktokにアップロードされた映像が拡散されてのリバイバルブームとやらで、もう半年も経つのに、未だにそのブームは下火になる気配がない。
「生番組の出番の変更とかあったら困るから、このうち出る前に、ちゃんとマネージャーさんからの連絡確認しといた方がいいで。」とこまっしゃれたことを言う子どもの頭を、兄弟子が、仕事のことまで気ぃ回してくれてありがとうなあ、と言って撫でる。
「早く帰って来るから、一緒に花見しよな。」と話す草若兄さんの前で、子どもが嬉しそうにはにかむ。
吉田の家の人間に頭を撫でられるのが好きなのは、どうやら倉沢の血らしい。
「おい四草、お前よりこの子の方が賢いんちゃうんか?」
「……どうですかね。」と言いながら箸を持つ手を動かす。
女将さんと同じ味にはならないこのオムレツを来年もこんな風に食べられるだろうか。
そんなことを考える自分が嫌だった。
少なくとも、こいつはあんたの同じ年の頃よりは賢いと思いますよ、という言葉を飲み込んで、卵を咀嚼する。
花見なんて嫌いなのに。それでも、僕は夕方、稽古が終わればここに戻って来て、同じように学校から戻って来た子どもの手を引いて川べりを歩く男の後ろを付いて歩くのだろう。
この光景がいつもの春になればいいのにと、そんな馬鹿なことを思いながら。
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