キス


月曜の朝はまず往診から始まる。
TETSUが診るのは基本的に裏通りの安アパートに住む女子供で、近くには駐車場のない家も多い。
患者の仕事帰りになるような時間に往診を入れようとしたら、あの辺りの夜歩きは絶対にダメです、と譲介に止められたので、クソ健康的な時間に起きて、酔っ払いか中毒患者かと言う草臥れた男どもが辺りに寝そべっているような小汚ねえ路地をうろつく羽目になっている。
朝一で見に行く家を周り終えると、気づけばブランチの時間になっていた。
暗がりの多い細い路地を抜け出てやっと表通りまで来たので、その辺にある空いている店で適当に立ち食いが出来るサンドイッチやブリトーを買った。
小奇麗な店の中で真っ白なエプロンの店員からトレイを渡されると、あっちの路地の方が、まあオレには似合いの場所だな、と思わなくもない。
真っ当な食事と言える食べ物を咀嚼し、胃の中に流し込んだら、後はもう、クエイドのある方向に向かって歩いて行くだけだ。
「ドクター、おはようさん。うちの新聞一部持ってけよ。」
ありがとよ。コーヒーもくれ。
「ドクター、今日のコート決まってるね!」
良く見ろ、昨日と同じやつだ。
「ハイ、ドクターTETSU、今日は薔薇の良いのが入ってるけどどう?」
そういう話をオレに振るな。
「まあそういわずに。今日の舞台が中止になったらしくって、このままじゃ大損だよ。恋人はいないの?」
恋人はいないのか、と言われて足を止めてしまったのが運の尽きだ。
まさか相手もそこでオレが足を止めるとは思っていなかったようで「え?」と言う顔で固まってる。
そっちが話を振ったんだろうが、というと、いやあ、と黒いエプロンを身に付けた花屋は頭を掻いた。
「ドクター、決まった人がいるんだね……ドクタージョーはそのこと知ってるの?」と小声で訊かれてしまった。
知ってるも何も。相手はおめぇが考えてる通りだ。
「そうなん……え? そうなんだ?」
壊れた鳩時計のようになった花屋の頭を、目ぇ覚ませ、とニューススタンドで分けてもらった新聞で叩こうとしたが止めて置く。百人のうち百人がスマートフォンのカメラを構えている今のこの世界じゃ、何が火種になるか分かったもんじゃねえ。
呆けた顔の花屋を眺めているうちに飲み終えたコーヒーのカップを、看板横に置いてあるゴミ箱に放り投げ、利き手にある診療鞄をどっかりと花屋の店先に置いた。
で、何本買えばいいんだ?
花屋はこちらの指に嵌った指輪を見て、こりゃ失敬、という顔をして「三本でお代は一本分、って言いたいけど、その指輪を見ちゃったらなあ。三本分で十二本持ってくってのはどう?」
どうって、今から職場だぞ?
「問題ないよ。うちの薔薇は棘をちゃんと取ってあるから、恥ずかしかったら道行く人に分けていけばいいって。まあ、ジョー先生にはこのままあげたら喜ぶと思うけど。」
器用な花屋はくるくると、淡い緑色をした細いリボンを、薔薇を束ねたその根元に巻いている。
喜ぶ、ねえ。いい年をした男に今更花なんかとも思うが、もう三日も顔を見ていない。
普段通り仮眠室と病棟の往復をしているくらいは把握しているが、ランチの時間にも食堂に顔を見せねえ。
渡しに行くならまあ、口実になるだろ。
「ブートニアが必要な時はうちにご用命をお願いしますね。」とちゃっかり宣伝をしやがる花屋から、こんだけありゃ足りるか、と財布から金を出す。休みの日のちょっといいランチにはなるはずだった2枚の百ドル札の代わりの赤い花束を取り上げ、診療鞄の持ち手の所に挿した。
こんなもんを貰って喜ぶもんか、と眺めていると、ふと、先一昨日に見たきりの譲介の寝顔を思い出した。
愛しています、いってきます、と。
あいつのこっぱずかしい台詞を聞かないと、妙に物足りない気分だった。
今度先に起きて出て来る時は、こっちからキスでもしてやるか。

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